火中のry4リテイク
目を丸くし、瞬いて数瞬、慌てたように、
「顔を洗ってくる」
と、転がる酒瓶に足を取られながら部屋を出ていった赤髪を見送って、ヤソップは大きくため息を吐いた。
「少しは活が入ったかね。まーったく、手のかかるお頭だ」
「赤髪はアルコール中毒か?」
「いんや、不眠と軽い気鬱だと。うちの船医の見立てな」
「そうか」
そうなる気持ちも分からないではない、とローは再び思う。
「それでもようやく前進だ。日頃の行いかね」
「海賊にお天道様が手を貸してくれるわけねェだろ」
「わっかんねェぞ。うちのお頭、人格者……にはまあ程遠いが、堅気には手を出さねェし」
「それが普通なんだよ」
「そういやそうか」
げはは、と笑い、山のような数の酒瓶を抱えて、
「んじゃ、おれ戻ってルフィと話してるから。あとはお頭と詰めてくれ」
「ああ、助かった」
「助けられるのはおれたちだ」
そう言いながら、ヤソップは鼻歌交じりに部屋を出ていった。
押し売りだと言っているのに、人のいいやつだと思いながら、ローは適当な椅子に腰掛ける。
床に散らばる酒瓶は、ヤソップが大体持ち出したとはいえ、まだ数本残っている。そのどれもが空で、それだけで赤髪の抱く感情が偲ばれる。
ちらと壁を見やる。それから、視線をずらして、近くに飾られている一枚の写真。男の部屋の中、それだけがやたら可愛らしい装い。目を引くそれは、長年大切にされてきたのだろう、褪色があるもののそれでもきれいに飾られていた。
「待たせたな」
出ていったときと同じようにどたどたと慌ただしい足音をたてながら、赤髪は部屋へと戻ってきた。
濡れ鼠の髪からぼたぼたと水滴を滴らせているあたり、おそらく頭から水をかぶって拭うこともせずにそのまま来たのだろう。
「頭くらい拭いてこい……」
そう小言をこぼせば、赤髪は犬がそうするように頭を振った。
あちこちに水滴が飛んでいく。当然そのいくつかはローへと降りかかり、彼は思い切り顔を顰め、
「ROOM」
「お?」
「シャンブルズ」
酒瓶一本と入れ替えにタオルを取り寄せると、それを赤髪へと放り投げた。
「悪いな、わざわざ。だが、船内ではできる限り能力の使用は控えてくれ」
「風邪引くだろうが。医者の前で濡れ鼠のお前が悪い」
ははは、と高らかに笑いながら、赤髪はぐしゃぐしゃと雑に髪を拭い、そのままタオルを首にかけ、先程まで自身が座っていた椅子へと腰掛けた。
まだ生乾きの、渾名の由来となった赤髪、欠けた左腕、三本傷の奥に確かな理知を感じさせる暖かな瞳。
目の下にべっとりと拭い難く刻まれた隈こそあれ、入室時に感じた重苦しい空気はなく、本当に同一人物かと思えるほどに気配が明るい。
蘇ったような、正にその表現が似合う。
「さて、死の外科医。前置きもなく申し訳ないが、先程の話だが」
「ああ」
「言い値で買おう」
「ほう?」
どのようにこちらの言い分を飲ませるか。その程度を交渉する気でいたローは、その一言にやや拍子抜けの思いがした。
「大盤振る舞いだな」
「それだけ切羽詰まってるんだ、こっちも」
「……足元見られるようなこと言って良いのか」
「構わんさ。こちらにとって、それだけ大事なものだからな」
そう言って赤髪は、壁を見た。ローが入室してからずっと、いや、きっと部屋に入る前から、もしかしたらもっともっと前から。
ずっとそこに照射されていた、歌姫の現状を見た。病人の如き青白さを通り越した、死人の如き白蝋色の肌。父親そっくりに目の下に真っ黒な隈を作り、髪は整えられた形跡もなく、目元は涙で赤く腫れ、ひび割れた唇で、椅子に腰掛け、外を見下ろし、ただ、何事かを口ずさんでいる歌姫を。
ローは、そんな赤髪の横顔に、見覚えのある誰かの表情が重なった。在りし日の光景、耳に当時の息遣いが蘇る錯覚。
種々の感情が綯い交ぜになりながらも、歌姫を見守る気遣わしげで、暖かな眼差しは――
「……あんたも人の親だよ、赤髪」
「あん? なんか言ったか?」
「いや、なんでもねェ」
要らぬ感傷だ、と首をふって断ち切る。
気勢を削がれた、と言い換えても良い。
「こちらとしちゃそんな大層な支払いを求めていない」
「ぼったくってくれて良いんだぞ。ベックに怒られるのはおれだからな」
「もう少し右腕の心労を考慮してやれ。……一度だ」
ローは両手を組み、赤髪の目を見据え、
「一度でいい。おれが望んだとき、力を貸せ」
「一度で良いのか?」
「ああ。何度も借りてりゃ世間的におれらが赤髪海賊団の傘下に入ったと見られるだろう。そいつは面白くねェ。おれたちは、誰の下にもつく気はない」
「自分から政府の首輪付きになってるくせに、言うじゃねェか」
「必要だからそうしたまでだ。役目が終われば、即座に引きちぎってゴミ箱だよ」
どろりと溢れそうになる気持ちに蓋をする。それもまた、今は必要のない感傷。使えるものは何でも使う、それだけだ。
「伸るか、反るか」
「願ってもない。……トラファルガー・ロー。感謝する」
「交渉だ。おれたちがひとつ貸した、お前たちがひとつ返す。それだけの話だろう」
「ああ……そうだな」
交渉成立だ。ローと赤髪は固く握手を交わした。
「そういうことならば、ひとつ、伝えておくことがある」
握手を交わし、船へと戻ろうとしたローを、赤髪はそう言って呼び止めた。
一瞬、視線が歌姫を向く。必要な話らしいということを察して、ローは再び椅子へと腰掛けた。
「なんだ」
「ウタの、能力の話だ」
「能力? ……歌姫は、悪魔の実の能力者だったのか」
得心がいった、と頷くローに、赤髪は、
「あの子が食べた身は、ウタウタの実という。歌を媒介にその能力を発動し、聞いたものの精神を別の世界へと捉えるんだ」
「精神を……捉える」
「そうだ。そこは能力者の作り出した、能力者のための世界。そして、能力者が眠るか、望まない限り外に出ることは叶わない」
「凶悪だな」
思った以上の極悪さに些か頭が痛くなるが、同時に納得した部分もあった。
歌姫の配信の最中、稀に海賊の襲撃があった。その度彼女は配信をやめ、何らかの対策を講じて撃退をしていたようだが、その回答がこれなのだろう。
「能力を知らなければほぼ確実に囚われるわけか。……耳をふさいだ程度じゃ防げないとみて良いか?」
「ああ。聞こえにくくはなるが、聞こえなくなるわけじゃないからな。それこそ耳を聞こえなくしたり、特殊な機器で音を遮断するか……まあ、そんなもんが作れそうなのはベガパンクくらいだろう」
「つまり、こちらにはどうしようもないということか。……最悪、能力で一時的に声帯を切除する」
その光景を想像したのか、赤髪の表情が非常に渋いものとなった。
ロー自身、歌姫という声を武器に仕事を、自己の存在を高らかに歌い上げる人種から、その命ともいうべき部位を治せるとはいえ一時的に取り払うことに思うことが無いではない。
だが。
照射されている映像の中の歌姫を見る。肌の色も、肉付きも、表情も、そしてその内心も。どこを切り取っても健康から程遠い彼女の姿は、ローの中で幾重にも積み上げられた言い訳の上に、またひとつ言い訳を重ねていく。
「父親としては思うところがあるのかもしれないが、悪く思うな」
「……いや、たしかにウタをこちらに、ある程度安全な場所に移すことが最優先か」
理解はしている赤髪が、どうにか納得をしようと、がりがりと髪の毛を掻きむしった。
「モテモテじゃないか、歌姫は」
「親としちゃへんなやつに引っかからねェか、気が気でないがな」
言いながら、赤髪は実に不機嫌そうに鼻を鳴らした。
さもあらん、赤髪と違って他の勢力は、歌姫を『ウタ』という一個人としておそらく見ていない。
一夜にして国ひとつ滅ぼす兵器の、それを起動するための鍵。せいぜいがそれに歌う機能がついているとか、赤髪の弱みであるとか、その程度の認識だろう。
ただ健やかでいてくれればそれでいいと願い続けている赤髪とは、正に反りが合わない。
彼女の歌は危険だという男の声と、声なく哄笑する魔王の姿がローの脳裏を過る。若く、今と比べてまだ力のなかった頃とはいえ、赤髪海賊団総出でなお国ひとつの犠牲がでた魔王。
男の言葉。狂気の響きはなく、ただ、真摯に今眼前にある危機を、未来の誰かへと伝えようとしている声。おそらく、決定的な何かを見たのだと確信させるに足る色彩を放っていた。
現場にいた赤髪たちはもちろん、あの映像を見たローたち、そしてこの場に集ってきた大小の海賊たちは、程度の差はあれ確信を抱いている。
あの魔王は、歌姫が呼び出したのだ、と。
「こそこそ集ろうとする小蝿は潰した。あとは」
「眼の前の二つ」
「そうだ。ビッグマム海賊団と、百獣海賊団。……これはおれたちが全力で止める」
眇められた目に、決意が満ちる。
「決して島には近づけさせない。被害は出さず、しかし確実に。奴らを足止めして見せる」
「歌姫のためか?」
「ああ。あんまり被害を出しちゃ、あの子が悲しむからな」
小さな両肩に、いくつものものを積み上げられてしまった少女。
今にも崩れてしまいそうな、いや、既に崩れてしまったのかもしれない少女を思い、赤髪は言う。
海賊であろう。そして、その娘もまた海賊であっただろう。にも関わらずの言様に、なんとなし、赤髪が歌姫を手放した理由が見えた気がした。
「それに、必要以上に連中とやり合いたくないって理由はもう一つある」
「……黒ひげか」
未だ姿の見せぬ、四皇の最後の一人の名を出せば、赤髪は無言でうなずき、左目の傷に手をやって、すっと鋭く目を細めた。
「やつの最後の目撃情報は本拠地、ハチノス。一見無関心を装っているように見えるが」
「やつなら間違いなく注視している」
「そうか、お前は顔見知りだったか」
零した舌打ちは、これ以上踏み込むなという合図だ。それを汲み取り、赤髪は続ける。
「黒ひげは狡猾な海賊だ。本拠地にでんと構えながら、いや、構えているように見せながら、一番美味しい時期を見計らっている」
「頂上決戦か」
「ああ。あいつは自分がどれだけ嫌われ、危険視されているかよく理解している。だからこそ各勢力が万全の状態では決して現れないだろうし、最も有利になるタイミングさえあれば、一切合切投げ捨ててでも殴り込んで全てを飲み込んでいくつもりだろう」
それだけに、
「……おれたちは動けない。いや、おれたちだけじゃない。乱戦になれば黒ひげが動くっていうのは、おそらくどの勢力も思っていたことだろう」
「だからこそ、睨み合いが成立していたわけか」
「ああ。……だから、動かず、動けず、状況の変化を惹起する何かをそれぞれに待っていた。そしてそれを分かっているからこそ、今ごろやつは悠々と四皇の勢力から遠い島や能力者を狩り取っているだろうさ」
見え隠れする気配だけで、行動を阻害する男。
「……相変わらず厄介な野郎だ」
「そうだな。そして――」
赤髪の視線が遠くへと向けられる。遠く遠く、壁を越え、海をわたり、その先の島、或いは更に遠く水平線の向こう――
「――どこかから、今もこっちを見ているだろう」
つられてそちらを見やるも、ローにはただ壁だけしか見えない。赤髪にはその向こうの、「監視している」誰かの気配が見て取れるのだろうか。
「四皇共倒れの観点から言えば、海軍はどうなんだ。随分と動きが鈍いみたいだが」
「ああ、やっこさんら、何故か初動が遅れたみたいだな。……何故かな。だからまあ、こっちに来るとしても全てが終わった頃だろう」
含みのある言い方に、思わず問いただしてしまいそうになるが、向けられている赤髪の目は笑っているもののどこか冷えを感じさせる光を宿していた。
触れてくれるな。そういうことなのだろう。察したローは、
「そうか」
と、ただ頷いた。
そして、一瞬の沈黙。
「……なァ、その……」
「なんだ」
「…………いや、なんでもない」
ためらいがちに口を開いた赤髪は、何かしらの言葉を飲み込んで、大きく大きく息を吐き、
「……長々と話しちまったな。ウタのこと、よろしく頼む」
「ああ」
そう言ってローが立ち上がったとき、
「お頭、入るぜ」
部屋の扉が開いた。
ひょこっと顔を覗かせたのはヤソップだ。中に赤髪とローの姿を認めるや、
「おお、よかった間に合った」
破顔する彼の手には、一抱えの桶と、カミソリと、折りたたまれた布があった。
桶の中からなにやらツンとする匂いが漂ってきて、ローは顔をしかめる。
「……なんだそれは」
「染髪料」
ローの問いに簡潔に答え、ヤソップは赤髪に布を被せた。
まるでてるてる坊主のように、首から上だけをちょんと露出させた格好に、赤髪は困惑を顕わにする。
「お、おい?」
「なァお頭」
桶の中に浸っていた刷毛で、シャカシャカと液体をかき混ぜながら、ヤソップは言う。
「本当はよ、一分一秒でもはやくウタに会いてェんだろう」
「それは……」
「まあ答えなくてもわかってんだけどな、おれたち全員。あの日以来ずっと落ち着きがねェし、酒浸りだし、目の下は隈で真っ黒だし」
「……だがなヤソップ」
「だがもしかしもかかしもねェ。スパッと会いに行っちまったほうがいいぜ、こういうのはよ」
「……誘ったおれが言うのも何だが、お前が言うのか?」
「おれだから言うのさ。これに関しちゃベックマンだって言えねェよ」
刷毛で赤髪を染め始めたヤソップが、言う。
ふと、ヤソップの目が赤く充血していることにローは気がついた。
それはまるで、先程まで――
「あんま深入りしてくれるなよ、トラ男」
「……トラファルガーだ」
にやりと笑う瞳の中に拒絶の色を見て、ローは視線をそらした。たしかに、気安く深入りして良い話題でもないだろう。加えて、先程であったばかりの、しかも潜在的な敵である。こちらが気にかける必要もない。
よしっ、という掛け声とともに、てるてる坊主の布が剥がれた。
そこにいるのは左腕のない、左目に三本傷を持つ、口周りに髭のない、べったりと隈に染められた――黒い髪の、男。
「黒髪のシャンの誕生だ。これでルフィと顔合わせてもまあ問題ねェだろ」
「あるだろ。流石に気づくだろ。ルフィだって馬鹿じゃ……いや馬鹿……うーん……」
「もう少しマシな名前なかったのか」
「良いんだよ。どうせ今だけの出番だからな」
黒く染められた髪に引っ張り、なんとも言えない表情でいる赤髪に、
「カイドウたちのことは気にすんな。今しがたマルコが合流した。近くまで動ける限りの白ひげの精鋭が来てくれてるらしい」
「不死鳥マルコ……白ひげの残党は赤髪傘下に入ったのか」
「うんにゃ、そういうわけじゃねェ。頂上決戦、落とし前戦争、その後の残党狩り。その最中に結構な数がうちの縄張りに駆け込んできてな、お頭の号令で保護してんだ」
「つまり恩返しか。律儀な話だな」
「そういうものだろ。してもらったから、する。特にあいつらには白ひげとエースの件もある、『ここで働かなきゃ地獄の親父にどやされるよい』だとさ」
それにな、と道具を手早く片付けながら、
「出てくるときにな、ベックマンに言われてんだ。お頭の好きにさせてやってくれ、って」
「ベック……おれが行くことに散々反対しやがったくせに」
「そりゃ、お頭が最低限の準備すらせずに出ようとするからだ。どう考えたってあれじゃエレジアに付く前に沈没したぞ。あれやこれやと準備してくれた連中に感謝するんだな」
「まるで人のことを手がかかる子供みたいに言いやがる」
「似たようなもんだろ。……なあお頭、海賊ってのは自由なんだぜ。そりゃ、お頭の立場からすりゃ色々柵はあるわな。できるだけ部下を死なせないようにとか、そういうさ」
でも、と涙の乾いた赤い目で笑いながら、
「おれたちゃそこまで弱くねェ、知ってんだろ。トカゲの一匹や二匹、どうとでもしてやらァ。お菓子軍団は丸呑みだ。黒ひげ? 蜂の巣にしてやる。こっちは何も心配要らねェ、ちゃっと行ってちゃっと帰ってこいよ」
「島についたらおれの能力で回収するだけだから、確かに時間はかからないな」
「ほらみろトラ男だってこう言ってるぜ」
だからよ、とヤソップは、
「行ってこいよ。恋い焦がれる生娘みてェにいつまでもそわそわしてねェで。四十路のオヤジがしてても気持ち悪いだけだぜ」
「……船の片隅くらい貸してやる。親子喧嘩も、船の医療機器を壊さない範疇でなら好きにやれ」
十は若返ったように見える顔を、赤髪は苦笑交じりにつるりと撫でて、
「恩に着る、ヤソップ、死の外科医」
「おれは知らん。……まァ、四皇に頭を下げさせたってのは箔が付いたな」
ローは、小さく笑った。
というわけで、
「エレジアまで同道することになった、黒髪のシャンだ」
「……あー、シャンだ、です。よろしく」
ぺこり、と頭を下げる赤髪――黒髪に、クルーは一同揃ってぽかんと間抜け面を晒し、
「い……いやいや、いやいやいやいやキャプテンちょい待ちちょい待ち」
「ねえ待って待って待ってあれだってなにシャンってちょいちょいちょい」
「無理がある無理がある無理があるよキャプテン絶対無理があるだってあれどう見たって」
「シャンだ」
「いや違うでしょキャプテン」
「シャンだ」
「だってそのままじゃん髪黒いし髭なくて若くみえるけど欠損とか傷の位置とかさァ!」
「シャンだ。そういう事になった。それでいいだろう」
「ゴリ押ししようとしないでちゃんと説明してキャプテン!!」
ぎゃんぎゃん騒ぐクルーたちに背を向け、ローは麦わらを押し込めた部屋へと向かった。
レッド・フォース号は動かせない。あれが動けば、それを狙ってどの勢力もエレジアに押し寄せてくる。海上はともかく、エレジア本島で戦闘をすることの波を赤髪は嫌ったため、こうしてポーラータング号に乗せることになったのだが、
「おれ、やっぱりこう、まだほら、ルフィには会えねェかなァって……」
という、黒髪御本人の兼ねてのご希望である。ここまで来てうだうだ言うんじゃねェとケツを蹴り飛ばしてやりたい気持ちになったが、これで双方にへそを曲げられたほうが面倒だとぐっと我慢して、ぶーたれる麦わらを一時軟禁状態にしたのである。
「そういうわけだ、仲良くやってくれ」
「んー? んー、まあわかった。シャンだな」
「ああ、シャンだ」
わかったのかわかっていないのか。気づいたのか気づいていないのか。麦わらの中で何かしらのごまかしを作ったのかそうでないのか。
茫洋とした返事をする麦わらの読めない内心を少々気にかけるが、そも彼らの間の約束だ、自分が口を挟むのも筋違いだろうとローは結論付けた。
何れにせよ乗せてしまったのだ。不意に顔をあわせてしまわないことだけを気にかけてやればいいだろう。
挨拶を終えた黒髪は、クルーたちと一言、二言会話を交わすと、驚いたように小さく笑って、部屋へと引っ込んでいった。
変わりに、麦わらが部屋から飛び出して、なにやら黒髪に気を引かれていた様子だが、あまり顔を合わせたくないようだというローの言葉に素直に従い、クルーたちの輪へと混じっていった。
一挙に賑やかになった船内に、ふと、なぜ自分は歌姫を助けようとしているのか忘れそうになった。
慈善事業ではない。ローは海賊なのだ、海賊が人助けなど。
全ては彼の人の本懐を遂げるため。改めて、それを胸に刻む。
ここを乗り越え、赤髪の助力を得られれば、当初の綱渡りのような計画よりもぐっと達成が近づくのだから。
「……何か温かい飲み物と、軽食を。麦わら屋と黒髪屋にも頼む」
「アイアイ!」
キッチンに声をかけて、ローは自室へと戻る。
もう少しで、手が届く。
ローは、両の手で力強く虚空を握りしめた。
そうして、ポーラータングはエレジアへと到着する。
陰る月夜の下、遠く洋上より響く戦火の音を背に一同は島へと降り立つ。
まず、猿帽を被った麦わらだ。潜水艦が完全に静止するのを待たず、ハッチを開けるやウタ、と一声叫び、一目散に駆け出した。
続いて、それを追うように外へ出てきたのは死の外科医。麦わらに止まれと叫ぶも、脇目も振らず消えていく背中にため息を付いて、島全体を覆うように能力を発動する。
それから、クルーたち。そんな船長を守るように周囲を固め、万が一にも流れ弾が飛んでこないようにと海上に目を光らせる。
最後に、黒髪を夜の海風にそよがせて、赤髪。ゆったりと土を踏みしめ、種々の感情が綯い交ぜになった表情でぐるりと視線を巡らせ、瞬間、息を呑み、
「ウ――」
清廉な声。ゆったりと流れるメロディ。
それが歌だと認識するよりも早く。
その場にいた誰もが、意識を飲み込まれた。