渋谷事変 ―天変― 序

渋谷事変 ―天変― 序


 “現代最強の呪術師”五条悟の封印という異常事態を皮切りに、術師たちの奮戦も虚しく刻一刻と呪いと混沌に包まれていく渋谷の街。

 暗闇の帳が降りたコンクリートジャングルを、二つの影――非術師には片方は見えない――が飛んでいた。


「そんなものか!? 呪霊!!!」


 空を舞う影の片割れ。

 笑い、嗤い、嘲笑い、顔をおぞましく歪めながら天を戴くのは檻から解き放たれた“呪いの王”両面宿儺。


「……~~ッ! まだ…まだァ!」


 対するもう一つの影。

 紫色の血飛沫を口から迸らせ、舞うというにはあまりに不様に藻掻く人型の異形。

 人の恐れが生み出した“大地の呪霊”である漏瑚。

 呪術界においては共に呪いの最上位である特級に分類される両者だが、その戦いはあまりに一方的だった。


 発端は、渋谷駅構内で意識を失い、10本以上もの宿儺の指を飲まされた虎杖から肉体の主導権を奪った宿儺の言葉。


『俺に一撃でも入れられたら呪霊(オマエら)の下についてやる』


 史上最強。呪術全盛期たる平安時代の総力を以てしても討ち果たすことの叶わなかった魔の権化。

 たとえ特級呪霊といえども、彼を相手に勝ち目などありはしない。


 それでも、たった一撃。

 炎でも拳でも足でも、まぐれでも偶然でも奇跡でも。

 ただそれだけで、その絶大な暴威を味方にできる。そうなれば漏瑚たち呪霊の悲願は叶ったも同然。

 ぶら下げられた千載一遇の好機に、漏瑚は全霊を賭したのだ。

 しかし――


(わかっていた……わかっていたことだ……)


 すでに10分を超える戦闘で血を流しているのは漏瑚のみ。

 “呪いの王”に一撃を与える。その一事が、あまりにも遠い。

 業火でビル街を焼き溶かし、隠れていた人間の骨も残さず消し飛ばしてなお、宿儺には煤の一つもつけられていなかった。

 今もまた、炎を放つ暇もなく腕を細切れにされ、背後に回られてビルへと殴り飛ばされる。


「かっ……がふっ……」


「辛いか? やめてしまっても構わんぞ? ケヒッ、ヒヒッ――」


 その場合は遊びをやめて漏瑚を祓ってしまうことを意味するのだが、コンクリートの壁に埋め込まれた彼を眺めて王は悪辣に笑い――


「――」


 不意に、声が止む。

 代わりのように場を満たすのは、遥か高くの空からごうごうと響く風の音。


「……ほう」


 深夜であることに加え、ハロウィーンでごった返していた人間も殆どが死ぬか息を潜めるかしていたことですっかり凪いでいた渋谷に、先ほどまではなかった風が流れ出していた。

 単なる自然現象ではない。

 これが余波、残り香であるためか非常に微弱ではあるが、呪いの王たる宿儺は感じ取っていた。

 肌を撫でるこのそよ風が、紛れもない呪いであることを。


 それからまもなくして吹き抜けた、一陣の風。

 空を覆う帳よりもなお黒い髪を揺らす風の源を見て、宿儺は笑った。

 弄ばれることでしか己を楽しませられない弱者を嘲るそれではなく、面白そうな、物珍しい食べ物を見つけたような期待の笑みで、己を見据える彼女を見た。


「――私の弟子を、返してもらう」


 弟子と呼ばれるこの身体の内から見ていた姿とは、似ても似つかぬ印象の佇まい。

 しかし、今の彼女は、交流会を襲撃した呪霊を相手にしていた時の、初めて見た姿とはよく似ていた。

 さながら人の、それも華奢な少女の形に押し固められた台風。

 僅かな刺激で破裂して、辺り一帯を暴風で埋め尽くす光景を幻視させる力の塊。


 矮小な体躯で子どもと侮ることなかれ。

 彼女こそは、五人の特級の一人にして、最強の次席――




 風は地下まで届かない。しかし、まさしく台風のようなその呪力を感じ取れないならば、彼は呪いの世界で1000年もの長い時を生きることは叶わなかっただろう。


「……! マジか」


 未だ五条悟の処理が終わらぬ獄門疆の保持をしていた夏油は思わず、地下では見えもしない空を見上げた。

 六眼の封印という一世一代の勝負への彼女の介入を防ぐために、事前に全国各地にストックしていた一級~特級呪霊をばら撒き、忙殺する手筈だった。

 たとえ彼女がそれら全てを片付けても、その頃にはこちらも万事が終わっているように、放つ呪霊の質も数も万全にした筈だった。

 それにもかかわらず、既に彼女は渋谷にいる。


「……侮ったかな。最強の次席っていうやつを」


 この時代の最強(五条悟)。それに『次ぐ』者と呼ばれていることの意味を。

 幸い、どうやら彼女は地上で暴れている宿儺の許に向かったらしい。

 動かせない獄門疆を守りながら彼女の相手をするのは流石に自分でも無理と言わざるを得ないが、宿儺と戦うのならこちらへ向かう余裕はないだろう。一先ずは安心できる。

 ここに来られたこと自体がそもそも想定外ではあるが、まだまだ計画に支障はない。


「果たして、呪いの王を相手にどこまでやれるかな?」


 呪詛を振り撒くその顔には、まだ余裕があった。



 五条悟に加えて一級術師が複数人投入されたというのに依然として解決の目処が立っていない未曾有の危機を前に、野戦病院の様相を呈している料金所。

 既に倒れた伊地知と猪野の治療を行っていた家入の耳に、少しでも情報をと置いておいたラジオの音声が届く。


『速報です。つい先程、関東上空で乱気流の発生が確認され――』


『――渋谷区を中心に竜巻警報が――』


 ノイズ混じりながらも確かに聞こえたそれは、予断を許さない二人の治療に努める彼女の頬を微かに綻ばせた。


 七海から伝えられた五条の封印。


 街に潜む、特級呪霊たちと死んだはずの夏油。


 間違いなく状況は最悪。特級術師を除いた最高戦力である一級術師が揃っていても、死地というほかないのが今の渋谷だ。

 それに畳み掛けるような災害の報せだったが、家入にとってはこの上ない吉報だった。


 ああ、彼女がかつて語った五条を目指し続ける動機を考えれば、皮肉で笑えもしないが、誂え向きの状況ではないか。


「誰よりも五条悟と戦ってる女をナメんなよ、呪いども」


 これは、やられっぱなしの呪術師たちに吹いた神風。



22:39 黒川蘇我 現着



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