浦和ハナコと二つの星
『浦和さんはテスト満点だったと聞きました。さすがですね』
『浦和さんなら次期ティーパーティーも十分務められるでしょう』
『いいえ、浦和さんは歴史にも深い見識をお持ちですもの。ここはシスターフッドの方がより多くの方をお救いできるのではないでしょうか』
——うるさい。
『ミカ様は今日もお美しい。パテル派はあのお方の優しさに満ちています。浦和さんもそう思うでしょう?』
『ナギサ様はティーパーティーのホストとして大過なく過ごされています。フィリウス派のトップとしてこれ以上はありません。浦和さんも時期が来れば招待されるでしょう』
『セイア様の先見の明は素晴らしいですね。ゲヘナのような直情で短絡的な野蛮人とは対極です。サンクトゥス派としては心強いですが、未来が見えるというのは本当なのかしら? 浦和さんはどう思われますか?』
——しらない、どうでもいい。
『ミカ様が――』
『ナギサ様が――』
『セイア様が――』
——私には関係ない。
『ミカミカミカミカミカミカミカミカミカミカミカミカミカミカミカ―――――――』
『ナギサナギサナギサナギサナギサナギサナギサナギサナギサナギサ―――――――』
『セイアセイアセイアセイアセイアセイアセイアセイアセイアセイア―――――――』
——ああ、セミの声がうるさい。
「トリニティやめたい」
自身の現状を顧みて、トリニティ一年生、浦和ハナコはそう呟いた。
その衝動のままに、門限などとっくに過ぎている真夜中に、ハナコは着の身着のままで飛び出した。
浦和ハナコはどこにでもいる、ごく普通の人間だ。
少なくとも、浦和ハナコ自身は自分をそう定義している。
多少人よりも頭が良くて勉強ができる程度だと認識していた。
容姿についても整っている方と認識はしているが、それは美容を意識する年頃の少女であるならば、誰もが持つ程度のボディメンテナンスをしているからだ。
キヴォトスでは常識の銃は、アサルトライフルが手に馴染んだものの、日常で撃つことすら稀だった。
運動は得意ではなく、特筆するようなものは持ち合わせていない。
だから普通のハナコは、
普通に青春に憧れ、
普通に華やかな学校と認識していたトリニティ総合学園に進学し、
普通に勉学に励み、
普通にトリニティの陰湿な裏側に気付き、
そしてその中でも尚埋もれることがないほど、自身が普通でないことを知った。
勉強は得意だった。
テストとして出される以上、どんな知識が必要で何を問われるのかを考えれば、問題として成立して評価が付けやすい内容が出るのか、大方予想は付く。
教育はBDを用いて行われる以上、そこから大幅にはずれた資料集の片隅にしか載っていないトリビアなどは出るはずもない。
故に教科書を一読し、問題の解き方を理解すれば上級生の問題であっても点を取ることは容易だ。
ハナコはそう考えていたのだが、どうやらその考えは異質であったらしい。
テストで満点を取った。
周囲は褒めたたえてくれて、ハナコとしても気分が良かった。
上級生の問題も出来るのではないでしょうか? と問われて試しに受けてみた。
また満点を取り、煽てられるがままに、さらに上の最高学年のテストでも満点を取った。
最初に褒めてくれたクラスメイトの顔は引きつり、飛び級を勧められた。
なぜそんなことをしなければいけないのか? とここでハナコは初めて疑問に思った。
飛び級をするということは早く卒業するということで、そうしてしまえば青春も短くなってしまうではないか。
だがすぐに聡明な頭脳はすぐに答えを導き出した。
目の前のクラスメイトは、こちらを級友としては見ておらず、自身より目立つ邪魔な存在としてハナコを見ていた。
飛び級という餌をちらつかせ、学年を変えさせ、立場を変えさせ、あわよくば排斥してやろうという思惑が見て取れた。
飛び級の誘いを断ると、そのクラスメイトは自身に近づかなくなった。
代わりに増えたのは勧誘だ。
貴女は素晴らしい。貴女は将来性がある。ぜひパテルに、いやいやここはフィリウスに、抜け駆けはずるいわここはサンクトゥスが相応しい、と代わる代わる言ってくる周囲の人間が増えた。
なんなのだこれは?
どうして楽しい青春が送りたかっただけの自分が、昔からある権力闘争と陰湿な蹴落とし合いに巻き込まれなくてはならないのか?
お茶会と称して情報交換をし、裏で相手の弱みを握り、結託して追い詰める。
これのどこが、浦和ハナコの望んだ青春と合致するというのか。
まるで対極である。
それらから距離をおいて、シスターフッドに近づいてみたりもした。
だがシスターフッドには歌住サクラコがいた。
2年生にして既にシスターフッドのトップに立っていた彼女は、なにかと黒い噂が絶えない人物だった。
ユスティナ聖徒会という前身を持ち、ティーパーティーとは別の勢力としてみなされていたシスターフッド。
それらを纏める辣腕を振るうサクラコには『仲良くしましょうね』と言われたものの、ハナコの現状を知ってなおそう言ってくることには辟易した。
あと『わっぴ~!』とかいう謎の挨拶が流行っていることに洗脳を疑った。
結局とげにならない程度の言葉だけを返し、シスターフッドからも距離をおいた。
自身の身の置き場が分からず、誰も信頼できず、そしてそんなハナコを周囲は好機とばかりに取り込もうとしてくる。
友達に囲まれた青春をしたかっただけのハナコは、今やひとりだった。
『勉強はできても、私は人を見る目がないな』とハナコは遅ればせながら自覚した。
そうして日々を過ごし、周囲の声がセミの喚き声にしか聞こえなくなったころ。
ハナコはトリニティを抜け出し、深夜の街へと飛び出した。
正義実現委員会でもないハナコが夜の街に一人で飛び出したらどうなる?
無論、スケバンに絡まれるのである。
「どうしてこんなことに」
「どうしてって、おいおいトリニティの箱入り娘はこれだから」
「そんな恰好でうろついてたら目を付けられるってことさえ知らないとはね。頭が悪いな」
見るからに頭が悪いです、と見た目から主張しているスケバンたちに罵倒される。
「金を出すなら見逃してやる、って普段なら言うんだが、悪いな」
「正義気取りの猫野郎がうろついてて、あたしら最近むしゃくしゃしてんだわ」
「だからまあ、金の前にちょっとストレス発散でボコられてくれや。助けなんて期待するなよ」
「ええ……」
さすがのハナコも八つ当たりで暴力を振るわれることになるとは予想外であった。
だが衝動的に飛び出したハナコは、スケバンたちが納得するだけの金銭を持ち合わせていない。
勉強の成績は良くても、運動はそこまででもない。
複数人に囲まれた現状で例え逃げ出しても、すぐに捕まるのがオチだと理解してしまった。
スケバンの言う通り、こんな夜に抜け出した自分を助けてくれるような人間はいない。
そう思って体を硬直させたとき、スケバンのさらに後ろから声が掛けられる。
「うへぇ、嫌なものみた……ちょっと待ちなよ君たち~」
「え……?」
サイズの合っていないダブついたワイシャツを着た彼女は、あろうことか声を掛けて来たのだ。
それが浦和ハナコと、小鳥遊ホシノの邂逅だった。
「ん? なんだチビ。邪魔すんなよ」
「見てしまったらそうもいかないでしょ~? その子震えているじゃんか」
「ああ? お前こいつのダチか?」
「いや? その子のことは知らないし、見ての通りただの通りすがりだよ~」
言いながらホシノは懐から小さな包み紙を取り出し、中の飴玉を口に放り込んだ。
コロコロと口の中で転がしニヘラと笑う姿に、スケバンも毒気を抜かれたのかもしれない。
「なら関係ねぇだろ、見た目通り態度も小さく生きるんだな」
「うへぇ、それを言ったら戦争でしょぉ」
ダァン! とおもむろに構えたショットガンでスケバンの一人を撃ち抜く。
狙いをつけたわけでもないのに、その弾は過たず頭部に直撃した。
声もなく倒れたスケバンを見て、残りのスケバンたちは目を丸くする。
「……は?」
「ヒッ」
「い、いきなり何しやがる!」
「……ん~? ああ、なるほどね。いきなりってほどじゃないよ~。だって君たち、これからその子に暴力振るおうとしてたじゃんか~」
「お、お前には関係ないだろうが!」
「関係あるよ~目と目があったらポケモンバトル! これは常識でしょ?」
「どこのレトロゲームだ! それにポケモン使ってねえじゃねえか!」
「何にせよ、最近むしゃくしゃしててさ。悪いけどストレス発散にボコられてよ~」
「ふ、ふざけ――!」
「とりゃあ~」
気の抜けるホシノの声とは裏腹に、その動きは鋭い。
ボコる、と宣言したのを守るためか、銃を撃ったのは最初の一発だけで、あとは肉弾戦を徹底していた。
身の丈に合わない大きな盾を構え、押し込み、傍らの銃床で殴りつける。
撃ってこない、ということでできた油断の隙をついて懐に飛び込み、順に沈めていく。
あっという間に立っているのはホシノだけになり、終わってみれば蹂躙といっていい有様だった。
「ふう、良い運動した~」
「あ、あの……ありがとうございます」
「ん? いや良いよ別に。おじさんが暴れたかっただけだしさ~」
「お、おじさん……? あ、はい……それでも、ありがとうございます。私、浦和ハナコといいます。トリニティ連合学園の1年生です」
奇妙な一人称に首を傾げるハナコだったが、助けてくれたのは事実。
再度頭を下げるハナコだった。
「おじさんは小鳥遊ホシノだよ、アビドスの2年生。よろしく~。それで? トリニティのお姫様がどうしてこんな夜に出歩いているの?」
「えっと……散歩に」
「銃も持たずに?」
「う、それは……」
「キヴォトスで銃も持たずに歩くなんて、襲ってくださいと言っているようなものだよ」
それはそうだ、と今実感した。
衝動的に飛び出したハナコは、十分な金どころか銃すら持っていなかった。
キヴォトスでは銃は珍しくない。
弾丸だってコンビニで買える。
ハナコだって自前のアサルトライフルで撃ったこともある。
だが正義実現委員会でも自警団でもないハナコが、日常で銃を撃つことは稀だった。
だからトリニティの外でこうも銃撃が多く発生しているとは思ってもみなかった。
箱入り娘、お姫様と揶揄されてもおかしくない有様である。
「……ほら、これ着ておきなよ」
「え、これは……?」
「夜中に歩くなら、せめてトリニティの制服だってことは隠した方がいい。上からこれ羽織っておけば少しは誤魔化せるよ」
ホシノが羽織っていたワイシャツを渡された。
彼女と自分では背の高さが違う。
既に着ているトリニティの制服の上から更に重ね着するということで、ホシノにとって大きめでも、ハナコにとっては少し小さいサイズだった。
それでもなんとか、ボタンまで留めることはできたのを見て、うんうんとホシノは頷く。
「う~ん、まあこれで少しはましかな~? それじゃ帰ろうか。送るからさ」
「え、あの……」
「ん?」
「……すいません、まだ帰りたくないです」
「今さっき殴られそうになったのに? 物好きなお姫様だねぇ」
「うう……」
反論のしようもない。
銃も金も持たず、好意で言ってくれているホシノに、その好意を無下にするわがままとしては最悪だろう。
だが帰ってどうなるというのか。
どうしようもなくなって我慢できず飛び出したのだ。
それがスケバンに絡まれて、助けられて、すごすごと帰るだけで良いのか?
おとなしくトリニティでティーパーティーの椅子取り合戦に励めばいいのか?
その答えが見つからず、素直にうんとは言えなかった。
うつむくしかないハナコに、参ったなぁ、とホシノは頭をかきながらつぶやく。
「う~ん……こっちから関わったんだし、仕方ないかぁ」
「え、じゃあ」
「いいよ、数時間程度なら家出に付き合ってあげる。でもその後は素直に帰りなよ? 捜索願でも出されて、おじさんが誘拐犯扱いはごめんだからさ」
「分かりました」
「ようし、それじゃあどうしようか? バットで校舎の窓ガラスでも割って練り歩いてみる?」
「そ、それはちょっと……」
「そう? 案外おとなしいんだね」
目的無く飛び出したとはいえ、暴れまわって周囲に被害を出したいわけではない。
気安く提案してくるホシノに、まるで悪魔の誘いのようだとハナコは首を振る。
「ならハナコちゃんの望み通り、お散歩しようか」
「どこに行きますか?」
「ハナコちゃんに任せるよ~。おじさんトリニティは詳しくないし、ガイドお願いね」
「はい!」
再び懐から飴玉を取り出して舐め始めるホシノに、ハナコは勢いよく頷いた。
呼気から甘い息を漏らして元気だねぇ、とホシノは肩を竦める。
「あ、でも……」
どこへ向かうのがいいか、とハナコは脳裏でいくつかのプランを立てる。
だがその大半は実行不可能だった。
ハナコが知るトリニティは昼のトリニティだ。
夜のトリニティではショップはほとんど閉まっているし、大聖堂は夜間でも礼拝堂は開いているがシスターフッドの拠点なので近づきたくない。
ならシラトリ区まで出てトライスクエアに行くべきだろうか? あそこなら憩いの場として人気と聞くし、夜でもいいかもしれない……。
ハナコが考えこんでいると、ホシノがため息をつく。
「うへぇ、ハナコちゃんはまじめだねぇ」
「え、でも任された以上はちゃんと案内しないと」
「これはお散歩だって言ったでしょ。難しく考えず、風の吹くまま気の向くままに歩けばいいんだよ。店が開いてるとか、おじさんを楽しませようだとか気にせず、我慢なんてせずに行きたいところへ行けばいいんだよ?」
「そういうものですか?」
「そういうものだよ」
そういうものらしい。
ホシノの言葉に気持ちが少し軽くなる。
なら我慢などせずに動いてやろうではないか、とハナコは決断した。
『家出の恥はかき捨て』である。
僅かに香る【甘い匂い】に高揚する気持ちのままに、ハナコは夜のトリニティをズンズンと突き進んだ。
「……あ、見てくださいホシノさん! あそこ有名なロールケーキのお店なんですよ。ああせっかく来たのになんで開いてないんでしょうかね」
「夜だからだねぇ」
「あ、向こうの書店は品ぞろえが良くてお勧めです。たまにないのもあるんですけど、取り寄せもできます。この間はカーマスートラを取り寄せてもらって」
「え、それってエッチなやつ?」
「え、エッチじゃないです学術的興味といいますか後学のための勉強ですそもそも人というのは生まれたときから裸なわけで裸にエッチという感情を抱くのは不純と言いますかなんというか」
「……うん! そうだね!」
「たくさんお話したら喉が渇きましたね。自販機でジュース買いましょうジュース。服のポケットに小銭入ってましたし」
「うんそれおじさんのワイシャツのポケットだね」
「あ! 見てくださいホシノさんこれ! 『どろり濃厚ピーチ味』とかいうジュース売ってますよ。『どろり』とか『濃厚』って心惹かれるワードだと思いませんか?」
「深読みしすぎだとおじさんは思うなぁ」
「ピーチってお尻に見えたりしますよね?」
「ハナコちゃんがエッチなのはよくわかったよ」
――たのしい。
他人の顔色を窺わずに道を歩くことが、なんと楽しいことか。
あっちへ行き、こっちへ行き、これで終わりかと思えばまた逆走して下らぬ言葉で笑う。
普段の浦和ハナコからすれば、熱に浮かれたようなまるで計画性の欠片もない行動。
効率という言葉を投げ捨てて、探検するかのように歩き回る姿はまさにクソガキである。
箸が転んでも笑う、と揶揄される年頃ではあるものの、これほど笑みを浮かべたのは何時ぶりか。
会話の内容もすぐに忘れてしまうような中身のないものばかりだ。
だからこそ何も考えずに口に出して裏を意識する必要もない。
夜ゆえに周囲には誰もおらず、自分とホシノの2人しか話を聞く者もいない。
ホシノもツッコみは入れても否定はしない。
今日会ったばかりだからこそ、トリニティの鬱屈したしがらみとは無縁の相手だった。
時折飴玉を取り出しては、口の中でコロコロと転がしながら前を行くハナコについて行く。
今のホシノは、さながら遊園地ではしゃぐ子供を見守る親のような有様だった。
僅かに白み始めた街で、はしゃぎ疲れてベンチに座っているハナコに、ホシノは尋ねた。
「それでハナコちゃん、少しは気持ちも上向いたかな?」
「はい……いつぶりでしょうか、こんな気持ちになったのは」
いつの間にか鬱屈して息が詰まるような感覚は消えていた。
ストレス発散できたのだろう。
「もう時間だ。そろそろ帰ろうか」
「……はい」
不思議だ。あれほど嫌だった——今でも嫌だが——トリニティに少しくらい戻ってもいいかと思えている。
「そう、それは良かったよ~。あのまま死にそうな感じしてたからねぇ」
「……そんな顔してました?」
「うん。全てどうでもいいや、って自暴自棄になっているのは一目で分かったねぇ」
「お恥ずかしい限りです……」
「いやいやハナコちゃん。君さっきもっと恥ずかしいこと言ってた気がするよ?」
「あれは……あれは良いんです! もう忘れましたから!」
上がったテンションの勢いのままに、ものすごいことを口走っていた気がするが、気のせいである。
淑女たるものそんな下品な言葉は口にしませんわおほほほ。とハナコは無かったことにした。
「それじゃあ最後に、こっちの用事にでも付き合ってもらうよ、ハナコちゃん?」
「いいですけど、用事って何ですか?」
「おじさん、今フィールドワークで調べたいことがあってね……ハナコちゃんはトリニティのいろんな場所に詳しいと判断したから、よければ教えて欲しい」
「どこですか?」
「トリニティで、人の手が入ってない自然がある場所を探してるんだ」
「自然……」
確かに、それは少ないだろう。
華やかなトリニティ連合学園の自治区は、ほとんど隅々まで整備されている。
区画整理で人が済まなくなった場所もあるものの、そこも建造物は乱立していた。
庭園や街路樹なども自然といえば自然だが、そういうものは求めていないらしい。
「あ、でもあそこなら……」
「! あるの?」
「多分ですけど」
ハナコもあまり近寄ったことのない場所であるが、それでもいいというホシノの言葉に案内することを決めた。
Basis schola
今は使われなくなった館がある場所だ。
「へぇ。こんなところあったんだ」
「もとは生徒たちの憩いの場として作られたようです。トリニティ中央から離れてますし、今は使うものもいないので自然も豊富です」
「建物も立派じゃん。なんで使われなくなったの?」
「なんでも霧が濃くなりやすい場所らしくて、あまり立地的に好まれなかったみたいです。他にトライスクエアが整備されたこともあり、今に至ります」
「霧か……どこも環境には苦労してるんだねぇ。ま、おじさん的にはそっちも気になるけど、今日はこれだけで済ませるとしようかな」
ホシノは懐から小さな小瓶を取り出して、片隅の地面の砂を掬った。
フィールドワークといっていたのは間違いではないらしい。
「ありがとね、なるべく人工物とか混ざってないのが欲しかったんだよ~」
「それで何をするんですか?」
「ん、とりあえずはサンプルの成分分析かな~。あとはそうだね……食べてみたり?」
「あはは、砂が食べられるわけないじゃないですか。無理に飲んだところでお腹壊しちゃいますよ」
「うへぇ……おじさんやっぱり、ギャグセンスには恵まれないなぁ」
「……?」
苦笑いを浮かべながら小瓶を振るホシノに、ハナコは首を傾げる。
小瓶に入れた砂を、何かに期待するように、祈るような眼で見つめている。
そうであって欲しいのか、あるいはそうであって欲しくないのか。
「あの……」
「それじゃ、帰ろっか。最初の約束通り、今度は嫌とは言わさないよ?」
「あ、はい……」
言葉を切るように告げたホシノに、ハナコは何か壁を感じるような、冷や水を浴びせられたような気分だった。
「……ここまでくれば大丈夫かな。じゃあね、ハナコちゃん。今日は日曜だからいいけど、夜更かししたんだから、体内時計はちゃんとリセットしておきなよ。でないと週明けがきついからね」
「ありがとうございます。あの、ワイシャツ洗って返しますね」
「別に気にしなくていいけど」
「いえ、絶対に綺麗にしますので!」
「そ、そう? ならお願いしようかな……」
強く断言する姿に若干引き気味のホシノだったが、ハナコとしても引き下がるわけにはいかなかった。
強引にでも接点を作っておかなければならない、と直感が囁いたのだ。
そんなこんなで、モモトークのアドレスまで聞き出したハナコだった。
空は白み始めているものの、まだ時間は早い。
部活の朝練に出るタイプが起き始めるかどうかといった時間を、ハナコはひとり歩いていた。
そのハナコの前に、待ち構えていたように一人の少女が現れた。
「やあ、おかえりハナコ。はいこれ」
「え、貴女は……」
ポン、と気軽に渡されたそれを、思わず受け取る。
小さなクリアケースには絆創膏や消毒液などが入っている。
救急箱だった。
なぜこんなものを? と目を白黒させているハナコに、少女は首を傾げる。
「おや? 怪我をしていたはずだけど、足りなかったかい?」
「百合園、セイアさん……?」
「他人行儀だね、いつものようにセイアちゃんと呼んでくれて良いのに……ああ、そういえば今日が初対面だったかな?」
遠目にしか見たことのない、ティーパーティーの百合園セイアがそこにいた。
いつものように、と言われても実際に話すのはこれが初めてで、名前で呼んだことなどなかったはずだ。
初対面にしては距離感のおかしいセイアだが、そこでハナコは彼女についての情報を思い出した。
「……では、セイアちゃんと呼ばせていただきます。もしかして未来が見える、というのは?」
「噂になっていたか。それは真実だとも。まあ未来が見えるといっても何でもかんでも分かるという訳ではなく、夢の中で少しばかり先を知るだけだ。そこでこの時間、ハナコがここを通ることを知っていたくらいさ。だからこうして傷薬を用意していたんだ」
「え? あ、ほんとだ」
セイアがスッと伸ばした手が、ハナコの足に向けられる。
指さされた場所は、少し赤くなっていた。
痛みも感じないため気づかなかったが、どこかで擦りむいたのかもしれない。
「未来というものは不確定だ。大きな流れは変わらないが、少しの変化くらいは許容される。ちょっとした選択の違いで変わることもある。私が最初に見ていた未来では、ハナコは全身に怪我をして帰ってきた」
「怪我……それも全身に?」
「そう。でも最近に見た予知夢ではこうして擦り傷程度で済んでいる。ハナコの怪我は大きな流れではなかったのだろう。大怪我が確定なんてことにならないのは良かったことだね。私としてもハナコが傷つくのは避けたいところだった」
未来が見えるなど、にわかには信じがたいことだ。
だがこうして突発的に飛び出したハナコのことを、帰ってくる時間ぴったりに待ち構えていたことからあながち嘘ではないとハナコは悟った。
「心配してくれた、んですよね? でもセイアちゃんがなぜ?」
百合園セイアは体が弱い、ということはハナコも知っている。
こんな朝早くに一人で行動することなど、倒れてもおかしくない。
ティーパーティーの身分であるなら、自身の代理として誰かを迎えに来させてもよかったはずなのだ。
「なぜ? なぜ見に来たのかだって? 私が友達のことを心配するのが、そんなにおかしなことだろうか? ……いや今はまだ友達じゃなかったんだったか。まあ些細なことだ」
「友達……私のことを友達と呼んでくれるんですか?」
「私はもうそのつもりだったが……今のハナコにとって、その言葉を受け入れるのが難しいようなら、出直すとしよう」
「! いいえ、なりましょうお友達。私、セイアちゃんとお友達になりたいです」
「そうか。では改めてよろしく、ハナコ」
まさかトリニティの象徴ともいうべき、あのティーパーティーの人間と仲良くなることがあるとは思わなかった。
それも百合園セイアといえば、サンクトゥス派のリーダーで次のホストである。
現在は桐藤ナギサがホストを務めているが、持ち回りでホストが変わるトリニティでは、それぞれの派閥が立ち位置を巡って争うことも多い
その彼女が、こうしてハナコのことを心配して動いてくれたことは素直に嬉しかった。
「じゃあお友達のセイアちゃんに聞きたいんですけど」
「怪我の違いについてだね。安心したまえ。セクシーフォックスは全てをお見通しだとも」
「せくしー……え?」
「……これは大ウケの鉄板ネタだったんだが……フッ、まだわからないか、この領域の話題は。精進したまえ」
「ええ~……」
理不尽に拗ねるセイアに、もしかして面白い人か? とハナコは気付いた。
今の自身にはわかり得ないことだが、彼女の見た未来で仲良く友達をやれているのは、こうした点を自分が気に入ったからなのかもしれない。
「さっきも言ったように、ちょっとした選択の違いで、小さな流れの未来は変わることがある。怪我の度合いについては、その分岐が生み出したものだ。では何をもって分岐をしたのか、というと一目瞭然だ。ハナコ、最初に見た未来では、君はそのワイシャツを着ていなかった」
「ワイシャツ……これを?」
「そうだとも」
ハナコがホシノから借りたワイシャツ。
トリニティであることを隠し、ホシノが送ってくれたことで絡まれることもなかった。
もしこれが無かったら、と思うとハナコは理解した。
「ホシノさんが、助けてくれたから」
彼女が気まぐれで助けてくれなければ、抵抗する手段すらなく暴行を受け、大きな怪我を抱えて、這う這うの体で逃げ帰って来ることになっていたのだろう。
彼女こそが分岐点だったのだ。
「そのホシノという少女が特異点だったようだね。どんな人だい?」
「……優しい人でした。銃声に驚いて悲鳴を上げた私を気遣って、即座に撃たずにその場を制圧しようとしてくれたくらいに」
「……そうか。キヴォトスでは銃撃戦なんてありふれているだろうに、そういう考えができる人か。ハナコが無事帰って来てくれたことで十分だと判断していたけれど、ハナコの顔を見る限り、どうやら良い出会いがあったようだね」
「……はい♡」
ワイシャツの裾をギュッと握る。
香でも焚き染めていたのか、ワイシャツにはまだ香りが残っている。
僅かに香る【甘い匂い】に、良い出会いに恵まれた、とハナコは幸福感を得ていたのだった。