泥沼の末の幸福
明人さん、と呼ぶ声がさほど広くもない地下でこだまする。
ワイはふっと顔を上げる。曇りガラスのようなアメジストに、これまた光を失ったスモーキークォーツが溶けるのが見える。
「なしたん、百合」
喉の震えが首輪に伝わっていく感覚がした。言葉を発すたびに、おかしくなってしまった現実が、自分を見ろと主張している気がした。ゆっくりと瞼を下ろすとようやく黙ってくれたようだと一安心する。
目の前の彼女は以前と変わらぬ女神のような微笑みで言葉を返す。
「ふふ、実は見てもらいたいものがありますの。ついて来てくださいな」
口を動かしながら、ワイをこの部屋にとどめている首輪に繋がる金具に鍵を差して回す。器用なんやなぁ。外れたそれを自身の腕に結び付けて、少女はこちらを見ながら歩く。そんなに見んでも逃げへんから怪我しないように前見てくれると助かるんやけどな。まあ、可愛いからええか。
階段を上った先にあるキッチンは、暖かみのある照明に照らされていた。ワイの部屋と同じ色だった。
「………!!」
その先のダイニングテーブルに置かれていたのは、久方ぶりに見る美味しそうなクレープだった。思わずよだれが出そうになる。
「結構自信作ですの。美味しそうに出来たでしょう?」
「これ全部百合が作ったん!?凄いわ!今食べてええ!?」
「もちろんですわ!実は生地がまだ余っていますの、今日の晩御飯はおかずクレープにしましょう!」
お言葉に甘えて、一口いただく。輝くイチゴの甘酸っぱさが口の中であふれた。言葉で言い表せないほど美味しい。今まで食べたどんな店のクレープよりも美味しい。
向かいの席に座った彼女が、チョコクレープを一口齧る。こぼれそうになるクリームを舌で舐めとるところに思わずキュンときて、じっと彼女を見つめる。
「…?一口どうぞ」
そういうわけじゃないんだけどな、と苦笑して、されど差し出されたクレープは齧る。幸せの味がした。
きっとこのクレープが美味しいのは彼女と一緒に食べるからなんだろうな、と思った。すべてを捨てた泥沼の底で、ただただ二人で幸せを嚙みしめていた。