油断は禁物?
どうしてこんな状況になってしまったのだろう。
慣れ親しんだリビングのソファーの上で、両手を頭の上に纏めて片手で押さえつけられた形で白哉に押し倒されている現状に、緋真の頭はパニック状態になった。
そもそもの原因は、朝から家族全員がそれぞれ用事で出かけていたことだ。
和服にしろ、洋服にしろ、外出時にはきっちりとした服に身を包む緋真だが、家でくらい人目を気にせず楽な服が着たいからと、家の中ではかなりラフな格好でいることが多い。中でも、頭と袖を通すだけでずぼっと着られるシャツワンピースにスパッツという格好は――いくら家の中だけとはいえ無防備すぎると家族全員から苦言を言われるものの――、緋真の一等お気に入りの格好だった。
今日は朝から緋真以外に家には誰も居ないため、開放感から緋真はそのお気に入りの部屋着のままリビングでくつろいでいた。期間限定のチョコ菓子を摘まみながら、冷房を効かせた部屋で買ったばかりのファッション雑誌を読むのは中々に気分が良い。
陽気に鼻歌を歌いながら寛いでいた緋真は、だからこそその人物がリビング内に現れたことに気づくのが遅れてしまった。
ファッション雑誌をキリが良いところまで読み切り、そろそろ夕食の準備でもするかと身体を起こして動こうとしたところで、漸く自分以外の誰かがリビングにいることに気づいたのだ。
その人物は、前世でも非常に深い関わりを持つ男性であり――今世で、惹かれている相手でもあった。
「びゃっ、びゃびゃびゃ白哉!? いつからそこに!?」
「四半刻ほど前だが」
三十分前!? 驚きのあまり、緋真は目を剝く。そんな長い間声もかけずに佇んでいたとか一体何故――と考えたところで、白哉の視線が緋真の頭から足元まで、余すことなく見ていることに気づく。そうして今自分がしている格好を思い出し、思わず顔を赤らめたところで、眉間にノミで彫ったような皴をくっきり作った白哉と目が合った。
「破廉恥な……」
「は、はれッ……はァ!? 現世じゃごくフツウのカッコですがぁ!!?」
図星を突いた白哉の言葉に、緋真は反射的に反応してしまった。本人も自覚があるだけに声も裏返る。緋真の返答に何を思ったか納得したか、ふむ、と一瞬ばかり考えた白哉は、緋真へと詰め寄った。白哉から発せられる雰囲気に嫌な予感がして後退り、つい先程まで寛いでいたソファーにひっくり返る。
そんな緋真にこれ幸いと言わんばかりに、白哉が上から覆いかぶさった。
これはマズいと慌てて白哉を押し返そうとした両手は、白哉の大きな左手でまとめて掴まれそのまま頭の上へと縫い付けられ、ならば足だと思った時には、既にそちらも白哉の位置取りのせいで上手く動かせない。
ものの見事に、今にも男性から手籠めにされそうになっている乙女の図の完成だ。
こうして異性に圧し掛かられている現状に、緋真はついに身体を強張らせる。やっているのが白哉であるため嫌悪感こそ無いがこの先に起こりうる行為を思い浮かべ、緋真の顔色は赤くなるやら青くなるやら忙しい。そんな緋真の様子を、白哉はただ、無言で見つめているばかりだ。
「あ、あああああの白哉? 白哉さん? も、もしもーし……聞こえてますかー……?」
少し時間が経ち、緋真が意を決して話しかけるも、白哉からは何の反応も返ってこない。だが、身じろぎしても全く拘束は緩まない。こんな状況のせいで大きくなっている自身の心の鼓動しか聞こえない空間で、いっそのこと霊圧の蛇口を開けて無理矢理拘束を脱するしかないかと、些か危険な思考になりかけたところで、ようやく白哉が動きを見せた。
「……この、襟元が大きく空いた首元」
白哉の右手が、緋真の左首に触れるか触れないかギリギリの位置で、上から下へ撫でるように滑る。産毛を逆撫でるような感覚に肌が泡立った気がして、緋真は強く目を瞑った――視界を閉じたことで静かに紡がれる白哉の声が鮮明に聞こえ、緋真の身体すれすれを滑る右手の動きも敏感に察知してしまうことなど思いもせず。
「腋が見えんばかりの袖口……」
緋真の左首すれすれを撫でた右手は、そのままやはり触れるか触れないかの位置で、肩から指先へと撫で上げたかと思えば、折り返すようにして腋から腰へとゆっくりと滑り落ちる。
「膝から下の曝け出した素足……」
白哉の右手が緋真の足の指先まで辿り着いた頃には、動いていないのにも拘らず緋真の息は途切れ途切れとなっていた。
「……そして、脱がしやすい衣服」
しかし、白哉の右手の動きは止まらず、そのまま遡るようにシャツワンピースの下へと潜り込む。そこまでしているのにも拘わらず、決して肌に触れないようにしている白哉を緋真は恨めしく思い、責めるように薄く目を開けた。
大きく音を立てる鼓動と、まるで整わない息をそのままに、その、灰銀に近い色の瞳とかち合った、その瞬間。ふっと目元を緩ませた白哉は、とうとう緋真の左脚を持ち上げ、腿の内側へと口づけを行うふりをし――
「……家の中とはいえ、些か、無防備が過ぎるのではないか?」
――うんムリ。それからの緋真の行動は早かった。
「わ、分かった! 分かりましたからそこ退いて下さい着替えて来ますっ!!」
元来負けん気の強い緋真であるが、白哉の醸し出す空気に白旗を上げた。いくら前世で夫婦になった相手であり、今世では逆プロポーズ紛いのことを伝えた相手とはいえ、前世含めてそういった経験がほぼ無い緋真では、勝ち目などありはしない。
いつの間にか自由になっていた両手で突き離そうとすると、思いの外あっさりと、白哉は緋真の上から退いてくれた。どうやら先程までの艶めかしい言動は、緋真への注意のために行ったらしいと察し、爆発せんばかりに鳴り響く鼓動と荒くなった息を落ち着かせようと努力をしつつも、ぷくりと頬を膨らませる。生きている年数的な理由があるとはいえ、白哉のその余裕ある態度がとても悔しくて仕方がない。
「……今から着替えて来ますので、その辺に座っておいて下さい。戻ったらお茶でも出しますから」
全くとんだ目に遭った。こちとら経験皆無の未成年だぞ少しは手加減しろと叫びたくなった緋真だが、悪いのはこんな無防備な格好で、人を迎え入れることの多いリビングで寛いでいた自分であることには違いない。確かに今まで、今日の白哉のように死神達――なお、幸いなことに全員女性――が霊体のまま遊びにくることもあったのだから、些か不用心が過ぎたと反省しつつ、急いで着替えてこようとする緋真に対し、白哉は首を横に振った。
「いや、用事ついでに近くを通ったので寄っただけだ。これからすぐ出る」
「はァ!? ホントに何しに来たんですか貴方!!?」
意中の相手が三十分以上前にやって来たのにも拘わらず全く気づかずにいた上に、無防備な格好を咎められるだけで終わりそうな逢瀬に憤った緋真は、白哉を責めるように詰め寄った。そんな緋真の様子に口元を分かり辛く緩ませた白哉は、緋真の首元へとおもむろに顔を近づける。
「いっ!?」
ガリッ、と噛まれた感覚に、緋真は思わず声を漏らした。そしてすぐ、強く吸われる感覚で一気に頭が茹で上がり、思い切り白哉から距離を取る。
「な、な、なな……っ」
痕を付けられたところを左手で押さえながら、緋真は取り乱した。間違いなく、顔どころか全身を真っ赤にしている自信がある。そんな緋真の様子に満足したのか、どこか愉しそうに白哉は言った。
「――次は、容赦せぬぞ?」
それからすぐに白哉は立ち去り、その霊圧が感知できなくなった頃合いで緋真の腰が抜ける。その状態は、家族の中で一番早くに帰ってきた遊子に声をかけられるまで続くのだった。
なお、その日以降、緋真が一番お気に入りの格好で家の中をうろつかなくなったことを家族に不思議がられるも、まぁ良いかと思われるのは蛇足である。