決意のあさに
Name?……ッポー……ルッポー……
「……ん、う……?」
クルッポー……クルッポー……! クルッポー!
鳩時計の音に、ウタはハッと目を覚ました。
頭を上げようとすると、固まった肩腰がバキバキと音を立てる。
「痛っ、たたた……」
小さく声を上げながら、ウタは目を擦った。
場所は食堂。
昨晩、ブルックに言われたことを考えているうちに、食堂で眠ってしまったらしい。
体をほぐすように伸びをしてから、息を吐く。一度きゅっと絞られた血管が弛緩し、同時にウタの頭は覚醒した。
「しまった!!」
ダン! と机を叩いて立ち上がる。
座っていた丸椅子が音を立てて転がるが、ウタにはそれを気にする余裕はなかった。
鳩時計が鳴るのは、午前の十時と昼の二時、それから夕方の六時の三回だ。
そして、本日来る予定の商船は、朝の八時頃に来てから十時には港を発つ。
つまり、もう──。
(まだ行かないでブルック……! わたし、まだ返事を──)
嬉しかったのだ。
他の音楽家から、協奏(セッション)に誘われたことが、嬉しかったのだ。
外へ出る恐怖に、その喜びが勝った。
ブルックのそのひと押しが、ウタに今まで足りなかった一歩を踏み出す勇気をくれた。
ただ、それでもすぐに外へは出られない。いろいろと準備をしたいし、それに音楽配信を楽しみにしている視聴者にきちんと事情は説明しないといけない。
説明しないでいなくなるのは、裏切りになってしまうから。
「おや、ウタ。どうしたんだ、そんなに急いで。ブルック君なら──」
「ゴードン、どいて!!」
ウタは廊下ですれ違った育ての親の言葉を無視して、廊下を駆けていく。
ブルックが出て行ってしまうことは、昨日の話で知っている。ゴードンに聞くまでもない話だ。だからこそ、手遅れになる前に追いつかなければ。
せめて……、せめてあと一か月。それだけの猶予をくれないかと、ウタはブルックにお願いするつもりだった。
もちろん、ウタにもわかっている。
ブルックは既に約束を交わした船長がおり、そして昨日の彼の口ぶりからして、彼は約束を何よりも重んじる性格だ。
(だから、わたしのお願いは聞いてはもらえないよね……)
それでも。
行動しなくては、何も変えられない。
ウタは自分の経験からそれを知っていた。
あの電伝虫を拾ったウタが、不安をおして配信を行っていなかったら、今の彼女はここにはいない。
バタン! と外へと続くドアを乱暴に開く。ギシギシと蝶番が軋みを上げるが、それを気にしてもいられない。
ドアを閉めることもせずに、ウタは港へと続く、崩れかけた石段を駆け下りていく。
息を切らせて駆け抜けて、ようやく港に辿り着いた。
「ハァっ……、ハァっ……!」
荒れた呼吸に、ウタの肩が大きく上下する。
玉のような汗が、額から頬を伝って地面へと落ちた。
ザザンと押し寄せる波。
波しぶきを島へと運ぶ風。
そして、港にある商船は……。
(……間に、合わなかった……!)
既に商船は海原に繰り出し、帆は風を受けてはち切れんばかりに張っている。
ウタはその光景に、十年前のあの日のことを思い出し、すぐに頭を振ってその幻視をかき消した。
ブルックが、黙って出て行ったわけじゃない。自分が間に合わなかっただけだと、あの人は違うんだと、事実を何度も噛みしめる。
──そう、裏切りじゃない。ただの、別れだ。
ウタは海賊のことが嫌いだった。赤髪海賊団に捨てられた恨みや疑念もあるが、それ以上に、人々の安寧を脅かす彼らが嫌いだった。
だが、ブルックは違う。
ウタはそれを、ブルックと数週間の関わりの中で学んでいた。
たまにセクハラはあるが、基本的に紳士的で、音楽を愛する彼は、ウタの憎む海賊像とはかけ離れている。むしろ、彼の海賊像は、かつて彼女の愛した──。
ウタは小走りで桟橋の端まで行くと、肺いっぱいに息を吸い込んだ。
「ブルックー! 誘ってくれて、ありがとう!! わたし、絶対に外に行くから!! いつか絶対に、セッションしよう!! 約束だよ!!!」
その声が、船まで届くかはウタにはわからない。
それでもこれは、一つのけじめだった。
あの日、何故置いて行ったのかと嘆くだけだった少女はもういない。自分の足で外へ出て、自分で確かめてやる。
「はぁ……はぁ……、ははっ」
ウタは自分の目元に浮かんだ涙を、人差し指で拭った。きっとこれは、哀しみの涙ではないはずだ。
「……お嬢さん、あまり海に向かって叫ぶのは喉に良くはないと思うのですが……」
「いいでしょ。これくらい出さないと、ブルックに聞こえないだろうし」
「あの私、そんなに耳は遠くありませんよ? まあ耳はもうないんですけど!」
「ぅえっ!?」
ウタは素っ頓狂な声を上げて、声のする方を振り返った。
そこには、おなじみのアフロ頭の骸骨が、石のベンチに座って首を傾げていた。
「ブぶブ、ブルック、あれ!? 船に乗ったんじゃ……!??」
ウタの狼狽ぶりを見て、ブルックがヨホホと笑う。
「今すぐにここを出て行く理由がなくなりましたので。ゴードンさんに言伝を頼んでおいたのですが……」
「あっ」
ウタはゴードンへの言伝と聞いて、さっきゴードンと廊下ですれ違った時に、ブルックについて何か言おうとしていたことを思いだした。
あはは、とウタは目を逸らし、誤魔化すように笑った。
「そのご様子だと、聞いていなかったみたいですね。まったく、いきなり走ってきて大声を出したので、目玉が飛び出そうになりましたよ」
まあ目玉はないんですけど、とブルックが再びスカルジョークをかます。
笑えない冗談にウタが乾いた笑いを漏らして視線を落とすと、ブルックの握っている物が目に入った。
「あ、新聞読んでたんだ」
新品にしては、皺の寄った新聞。しかし日付は、今日の日付になっている。
そうですよ、とブルックが頷いた。
「これにウチの船長のことが書いてありまして。予定変更ということになりました」
「船長のことが……?」
ウタが、少し顔を顰める。海賊が新聞に載るということは、きっとよほどの事件に違いない。それに、ブルックがいい人でも、その船長がどうかはまた別問題だろう。
ブルックは新聞の一面をウタに見せ、「ほら、これですよ」と写真を指差した。
「…………」
ウタの呼吸が止まる。
「これが船長なんですけどね、この右腕に書いてある文字、わかります? これ、私たちだけにわかるような暗号なんですよ。三日ではなく、二年後にシャボンディ諸島に集合するというね。……って、ウタさん、聞いてます?」
ブルックがウタの顔をのぞき込む。
ウタの瞳は忙しなく動き、唇は震えて顔からは血の気が引いている。
(……この、写真は……!)
ウタの脳裏に、在りし日の、愛しき日々の記憶がありありと蘇る。
東の海にある小さな村ではしゃいだあの日。たった一人の、かけがえのない友達。新時代を誓い合ったあの日の夕焼け。短い黒い髪に、少し幼さを感じる丸い顔。
「う、ウタさん……!?」
ウタは狼狽するブルックから新聞をひったくると、その新聞を舐めるように見渡した。
慣れない新聞に、目が滑る。
それでも探すのは、大切な幼馴染の名前──。
「“麦、わらの”……」
ルフィ。
その文字を見つけた途端、感情の堰を切ったように、ウタの瞳から涙があふれてきた。
「あ、あれ……?」
実際に会ったわけではないし、手紙やメッセージを受け取ったわけではないのに、ただ彼が生きているという事実と、そして彼が昔と変わらない夢を追い続けているであろうことに、ウタの心は激しく揺れ動いた。
溢れ出す感情に、ウタは名前を付けられなかった。そして、溢れ出す涙を止めることもできなかった。
片時も、忘れたことはなかった。ウタはあの日の約束だけを頼りに、生きてきた。しかし、その彼が生きているか死んでいるかなんて、ウタには知る術がなかった。この混迷の時代、死んでいてもおかしくはない。特に、無茶な夢を叶えようとする、無鉄砲な男が生きているかなんて。
ブルックは静かに涙を流すウタに、焦ったように声をかける。
「う、ウタさん、どうしたんです!? ルフィさんが、何か──?」
「ルフィが生きてた!!!」
涙を流しながら満面の笑みを浮かべて、ウタが叫ぶ。
あはは、と笑ってから、少し肩を揺らしながら、片手で涙をぬぐった。
「よかった……! もう二度と顔も見れないんじゃないかって……、死んじゃってるんじゃないかって思ったから……!」
あの、とブルックがおずおずと声をかける。
なに、とウタが鼻をすすって応えた。
「ウタさんは、ルフィさんのお知り合いなんですか?」
勢いよく、ウタが頷いた。
「知り合いじゃなくて、友達! 幼馴染なんだ、私たち!」
胸を張って、ウタが言う。
ぽかんと口を開けたブルックが、一拍をおいてから
「えーっ!!?」
と飛び上がった。
「ルフィさんって、東の海出身って聞きましたけど!?」
「うん。わたし、ここに来る前に、何度もフーシャ村に寄ったことがあってね。その時に遊んだりして……」
懐かしさに、胸がいっぱいになる。
まさか、この広く厳しい世界の中でこんな縁があるなんて、ウタは夢にも思っていなかった。まさか、空から降ってきた骸骨が、かつて別れた幼馴染との縁を繋いでくれるなんて。
そうだ、とウタがブルックに詰め寄る。
ウタの手の中で、クシャリと新聞が握り潰される。
「ブルック! わたしもルフィの所へ連れて行ってよ! いろいろ……、いろいろ話したいことがあるんだ。だから──!」
ブルックは、ウタをなだめるように、掌を小さく動かしながら言う。
「まあまあ、お嬢さん、落ち着いて。先ほど言ったように、私たちが集合するのは二年後です。それまでは、私にもルフィさんがどこに居るのかはわかりません」
ブルックのその言葉を聞いて、ウタは「あ、そっか……」と肩を落とす。
ですから、とブルックが優しい声で続けた。
「先ほどウタさんがおっしゃっていたように、外で一緒にライブ、やりましょう! 私は“麦わらの一味”の音楽家ですから、音楽の腕も磨きたい。ですから、ゴードンさんに頼んで、ここを拠点にいろいろと勉強させてもらうことにしたんです。ですから、ここを拠点にして、あちこちで音楽活動をしていきましょう!」
ウタの表情が、再び明るくなる。
うんうん、と何度も頷いてから、ウタが右手を差し出した。
「じゃあ、これからもよろしくね、ブルック!」
「ええ、こちらこそ、ウタさん!」
ブルックがウタの柔らかい手を取り、小さく首を傾けた。
ぎゅ、と骨しかない手の平を、ウタが握りしめる。
ウタがあははと笑い、ブルックもヨホホと笑う。
「じゃあ、ブルック、さっそく次のライブで何をやるか決めようよ!」
手を離したウタが街の方へと数歩駆けてから、振り返って言う。
ブルックがゆっくりとその後を追う。
「いいですね。ウタさん、私、新曲をやってみたいんですが」
「ブルックの新曲!? 聴きたい演りたい!」
ウタが子供のようにはしゃぐ。
ブルックは、この島に来てから見たことのない彼女の様子に、小さく笑みを漏らした。
石段を上がりながら、ウタが「そうだ」と思い出したように言う。
「ねえ、ブルック、聞かせてもらえないかな? ルフィのお話」
「ルフィさんですか? そうですねェ、ルフィさんは、太陽みたいに明るい人です。時に子供っぽいところもありますが、不思議と彼といると勇気づけられると言うか……あ!」
ブルックが何かを思いついたように、人差し指を立てる。
先を行くウタが足を止めて振り返り、首を傾げた。
「そうだ、ウタさん。あなたにとってのルフィさんって、どんな人です?」
ブルックの質問に、一瞬だけウタの目が丸く見開かれ、そして彼女は優しく目を細めた。
「えっと、どこから話せばいいのかな。……うん、まずルフィはね……」
楽しそうに幼馴染のことを話すウタの声に、ブルックは耳を傾ける。その表情の乏しい骸骨の顔に、微かな笑みを浮かべながら。