江渡和のうの世間話

江渡和のうの世間話

Altar ego→紫藤親子

「これで終わりか、エディ」

 黒い巨人がいた。申し訳程度の街灯の光に照らされて地面でてらてら光る血と、足元が見える程度に薄められた夜の暗さの中に浮き彫りになる。黒い体躯に血管状の白い線が走る体が、幽霊のように演出されていた。

『あぁ、終わりだよ。これで依頼終了』

 黒い巨人から発せられた、その姿に見合わぬ若い女の声はどこか気だるげで、不思議な妖艶さを醸していた。

「どうやって帰る? バイクを止めた場所からかなり離れてしまった」

『屋上伝いに行けばいいだろ。そんなことよりも、今日は少しお話に付き合ってよ』

「お話? お前からそんなことを切り出すなんて珍しいな」

 黒い巨人はその場で思いっきり飛び上がり、一っ跳びでビルの6階ほどの高さに張り付いた。その勢いを殺さず壁面を力強くつかみ、たった一度の懸垂で10階はあるビルの屋上を軽く飛び越す。2mは超えているその巨躯に似合わぬ静かな着地で別のビルの屋上に足を付けると、黒い巨人の表皮が内側に溶け込んでいくかのように消えていき、最後には黒いライダースーツの長身の女がそこにいた。

 彼女はビルの端に腰かけ、ここならだれも邪魔はしないね、と小さくつぶやく。それに呼応するかのように、彼女のライダースーツに生地の色とはまた別種の黒い染みが浮かび、ヘドロが形を持って流動する。数本の触手が絡み合って伸びたその先端には、あの巨人と同じ顔、耳まで避けた乱杭歯の並ぶ口に、頭頂部まである白く細長い目がついていた。

「あら、出てきてくれるんだ」

『お前がそうしてほしそうだったからな、エディ。お前のことはなんだってわかる、俺はお前の頭の中にいる』

「そういうネタばらしをするともてないぞ、怨毒」

 エディと呼ばれた女はその黒いヘドロのような流動体の頭を茶化したが、『お前以外の女に興味はない』と即座に返されていた。

「さて、昔話をするんだったね。私の記憶を読めるのならもう知っているかもしれないけど」

『いいや、読んでいない。お前の口から聞いた方が良さそうだった』

「そうかい。じゃあ直々に話してあげるよ」

 私の体質のことは知ってるかい?


 あぁ、もちろん。お前の体は危険物に対して一瞬で適応する。


 そうだね。身も蓋もないことを言えばぶっちゃけ便利だ。しかも適応するってのはそれによって傷つきにくくなるということでもある。

「例えばこれ」

 彼女はいつの間にか一丁のペティナイフを手にしていた。柄に呪符が巻かれ、呪力をわずかに帯びている。

「この呪具ナイフには、切断面の最大長が刃渡りより長いものしか切れないという術式が付与されている。正しく言えば、刃渡りより大きければ何であっても切断するという糞呪具さ。これで私の手首を切ってみる」

 彼女は何の躊躇もなく左手首に刃を走らせた。術式が正常に発動されたならば、彼女の左手は簡単に吹っ飛んでいるはずである。しかし、実際には薄皮一枚切ったか切れなかったか程度の血が滲んだだけだった。

「こんなもん。私の体は『斬られる』ということに対してもうほぼ完全に適応しているから、術式効果で切断を強制されたってそもそも切断されないんだ」

 そういってそのペティナイフをぞんざいに放る。目の前のビルの角の一つが豆腐のように切れて落ちた。

『怒られるぞ』

「あれは事故」

 自分がこんな体だってはっきり気づいたのは、私が小学1年生の時。私だけ転んでも泣かなかった。二回目以降は膝と手に擦り傷さえつかなかったよ。最初は皆からすごいって言われてた。でも、家庭科の調理実習で何かが変わったよ。


 ほう、何があった。


 思いっきし指を切ったんだ。


 指を?


 そう。確か人差し指と中指。よそ見してて包丁でザクッ。でも痛くなかったし血も出なかった。隣で見てた女の子が急に叫び声をあげて、そっちの方が驚いたよ。でも本当に何も起きてなくて、その翌日からいろんな「じっけん」をされた。


 平仮名だな。漢字を当てるのは烏滸がましい。


 本当にね。例えば「転んでも本当に傷付かないのか」とか、「コンパスの針が刺さっても痛くないのか」とか。最終的にはボコボコに殴られて、変なマセ方した上級生に服ひん剥かれてヤられそうになった。全員ボコボコに殴り倒してやったけど。


 お前は殴られても痛くないからな。


 怪我もしないしね。それ以来、もう何かしてくる奴はほとんどいなかったよ。誰も話しかけてくれなかったし、私も人に関わりに行かなかった。でもね、一人だけ大馬鹿がいたんだ。そいつは中学二年で転校してきて、頭は良いんだけど行動は大馬鹿だった。そいつが私の制服の背中に爆竹突っ込んだんだ。


 それはずいぶんとアグレッシブだな。


 でしょ。さすがにそれにはイラついたから、その日のうちにおんなじ爆竹買って、そいつの両耳に突っ込んでやった。鼓膜が破れて、耳の中火傷して、内耳にまでダメージがいって、ショックで2,3日昏倒したんだって。


 それまた恐ろしくアグレッシブだな。


 でしょ。

 彼女は思い切り伸びをして、ゆっくり屋上に倒れこんだ。コンクリートの冷たさをライダースーツ越しに鈍く感じるが、体は震えない。

 人ってね、怨毒。特別な存在を除外するんだ。


 特別な存在は歓迎されるんじゃないのか?


 いや、違う。言い方が悪かったね。多分正しくは、世間一般と同じ感覚を持っていない人のことを同じ人間だと思えないんだ。一緒に泣けない、一緒に怒れない、一緒に笑えない。そういう存在を、人は嫌悪し忌避する。私はそれができなくなっていく。


 どんな危険にも適応できるのに、そのせいで人間関係からはぐれたってわけか。とんだ皮肉だな。


 本当にね。笑えないけど笑うしかないよ。そんな訳で非常に孤独な学生時代を送った私は、社会に出てもそのまま孤独だった。誰も話しかけてさえくれない。私の方も、自分の悩みを理解しようとする姿勢を真に持っている他者なんていないと決めつけていたから、誰にも話しかけなかった。そうするとね、刺激が欲しくなるんだ。


 刺激? たとえば?


 寒さ、暑さ、辛さ、痛さ、苦しさ。人間関係に刺激を求められないから、肉体的な刺激を求めるようになった。性的快楽の方もちょっとやってみたけど、なんか全然よくわからなかった。果実酒を作るようなでっかいリキュールのボトルをそのまま煽ってみた。風邪薬をパッケージ丸々飲み干してみた。次第に法で保障されてる刺激じゃあ物足りなくなってきた。有機溶剤を買って吸った。ヤクを買って吸った。でもなぁんにも感じない。酔えないし楽しくないし辛くもない。退屈だった。薬物中毒になんてなれないのに、薬物中毒者みたいな顔してたと思う。でもね、ある日それが全部吹っ飛んだの。


 それは興味深いな。是非教えてくれ。


 知ってるくせに。あんただよ、怨毒。あんたがある日私の頭に入り込んだ。目が覚めてから頭痛に気付いたんじゃない。夢の中で私は金づちで頭を殴られ続けてて、その痛みが起きてもなお続いてたんだ。そんな経験初めてだったよ。それに全然止まないんだ。辛い。痛い。苦しい。40年近く感じなかった感覚が一気に私の頭を埋め尽くした。6畳半のぼろっちいアパートで獣のようにのたうち回った。こんな痛み耐えられない。早く消え去ってくれ。そう願っている自分を見つけたんだ。嬉しかったよ。


 それはどうも。


 感謝しかないよ。アレのおかげで私は自分が何者か悩まなくて済むようになったんだから。


 なぜそんなことで悩む? お前は人間でしかないだろう。


 ありがとう怨毒。でも私はそれで悩んでた。「人でなし」と「怪物」は違うってことだよ。「怪物」は怪物さ。それ以外の何でもない。でも「人でなし」は否定でしかない。存在否定して、宙ぶらりんのまま何も与えてくれない。人でなしって言うのは名前になれない。


 呪いと同じか。名前が与えられ、または名前を自ら持ち、その存在が固定される。人間は名前を付けなければ生きていけない生物だからな。そんな人間から生まれる俺達呪いも同様、名前が無ければ存在が確定されない。


 そういうことだよ。私はあんたのせいで起きた頭痛に苛まれたおかげで、「自分はまだ痛みを感じられるんだ」と思えた。人間と同じ感じ方をできるんだと思えた。それに極めつけはあんたの囁きだよ。『俺ならお前の人生を楽しくしてやれる。お前を満たしてやれる』だっけ?


 『俺ならお前の人生を満たせる。楽しい人生に導いてやれる。楽しく生きたいなら俺を受け入れろ』、だ。


 そうそう。その時の私は、ヨルダン川の畔で40日間の断食をしていたイエス・キリストにでもなった気分だった。悪魔が囁くんだ、お前が神の子なら、祈りをささげてこの石をパンに変えて見せろって。私が本当にキリストなら、「人はパンのために生きるにあらず」って言えたのかもしれない。人生というものは楽しいだけのものじゃないって、突っぱねたのかもしれない。でも現実はそうじゃない。飢え過ぎていた。私は石をパンに変えてしまった。あんたを受け入れて楽しい人生を送りたくなった。代償は生存のための殺人。しばらくの間はコンビニのチョコで代用可能。安すぎて死ぬかと思ったよ!

「そして今に至るってわけさ」

 彼女はそんな軽い言葉で話を終わらせて見せた。

『まぁ中々面白い話だった。感想は?』

「いるかどうかって聞いてんなら、いる」

『そうか。なら話そう』

 お前の話を聞いていて確信したことがる。


 ほう、なんだい?


 お前の体は精神的なマイナスに対しては人並みにしか対応できない。作り替わっていくのは肉体だけだ。精神はどこまで行っても人並みだ。だからお前は「退屈だ」と、「つまらない」と感じた。刺激を欲していた。どうやっても最後には何も感じられない体になるっていうのにな。


 そうだね。それで?


 お前は苦痛を感じていたんだ。肉体的な苦痛ではなく、精神的な苦痛をな。始めこそ、肉体的な刺激を純粋に求めていたんだろう。しかしそれができないと分かると精神的な苦痛を感じる。欲求不満というやつだ。お前にはそれを解決する術があらゆる意味で無かった。だから、目的が次第にすり替わっていったんだ。肉体的な刺激を求めるのではなく、「退屈」という精神的ストレスをさっぱりかき消すために、強烈且つ持続的な刺激を求めるようになった。何をしても次の瞬間には退屈に苛まれるのを承知で、これまで味わったことがない刺激を貪った。

 そして諦めた。生きたいがために死のリスクを求める矛盾に気付き、お前はあらゆるものを放り出していた。違うか?


 さすが怨毒。私の頭の中にいるだけあるね。精神分析も完璧だ。


 お茶らけるな。珍しいことに真剣に話してやっているんだ。

 あの時のお前はずいぶんと嬉しそうだった。脂汗を流し、涎をまき散らし、全身の血管を浮かび上がらせ、四肢をめちゃくちゃに振り回していても、お前の口角はつり上がっていた。

 いいか?俺がお前を気に入っている理由は、お前が今までにないほどに上等な乗り物だからというのもあるが、それだけじゃない。お前と俺は同じだ。俺は負け犬。お前はハグレモノ。独立して生きていけない半端者だ。それと同時に俺たちは凹凸だ。微細なズレまで完璧に計算され、嚙み合うことで初めて独立できる。「俺達」なんだよ、エディ。お前はお前でお前だけじゃない。俺は俺で俺だけじゃない。二人で一つ、一心同体ってやつだ。


 ……うん。


 俺はお前によって満たされている。お前も俺によって満たされている。俺はお前に感覚と悦楽を与え、お前は俺に脳髄とチョコレートを与える。ギブアンドテイクさ、何の異常もない。だからこれで良いんだ。俺はお前を楽しくしてやれる唯一の悪魔で、お前は俺の腹を満たし満足させる唯一の神官だ。

 「俺達」にできないことは、何もない。


 怨毒と呼ばれているそいつは、そう言って締めくくった。エディと呼ばれている女は横たわったままだった。ねぇ、と女が小さく呼びかけると、なんだ、と言葉が返ってくる。

「私はこのままでいいのかな」

『いいに決まってる。今のお前は人間だ。人でなしじゃない』

 淀みなく、自信たっぷりな怨毒の答えに、女は愉快気に唇の端を釣り上げた。

「そっか、私は人間か」

 ひとしきりニヤニヤしてから、女は立ち上がった。

「さて、帰ろう、ヴェノム

『帰りにチョコとポテトを買っていけ、エディ。きっと良いことが起こる』

「はいはい。いつものやつね」

 エディとヴェノム。ある種の因縁でつながった二つの名前は、この世のどこであろうと、この世で無かろうと必ずつながる。

 二人で一つ。「俺達」。

 ここにもその答えの一つが生きている。

 エディ、江渡和のうはビルの端から身を乗り出し、暗闇に消えた。

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