氷柱を削る

氷柱を削る


雨が嫌いだった。

厭なものを思い出してしまうから。

父親が嫌いだった。

ずっと比較され続けて、その重さを背負わされ続けたから。

朝日が嫌いだった。

微睡みの中でだけは、安らかなままいられたから。


自分自身が嫌いだった。

理由は、もうわからない。


我欲を捨てた。嫌悪を捨てた。愛憎を捨てた。過分を捨て、倨傲を捨て、余分を削ぎ落してやらなければ、自分自身の原点、自分自身の根幹を見つめ直すことはできなかった。

そうやって彼は自分の幸福を見失って、誰かの幸福を望むだけのモノに成り下がる。

引き留める声もあった。案ずる声もあった。拒絶する声もあった。

その全てに対する思惟すら失い、振り切った先。そこに彼は立っている。


「だってほら、君は吉兆なんだろう?」


自分の声が聞こえる。


「いいやお前には不可能だ。今更何ができるわけもない」


自分の声が聞こえる。


「優しいひとであれ」


自分の声が聞こえる。


「お前には無理だ」


じぶんの、こえが、きこえる。




「君がいまするべきことは、背負うものの重さに屈して生きる道を選ばされることではなく、何を背負うかを見定めるために道を選ぶことなのだよ」


誰かの声が聞こえる。

それは、いつかの残響。


「その選択を、一生後悔するとしても?」


誰かの声が聞こえる。

後悔なら、もう枯れ果てるまで済ませたのに?


「もっとあなた自身を、大切にしてあげて」


誰かの声が聞こえる。

大切にされるだけの価値があるなら、あの一年間はなんだったというのだろう?


「あんたのそういう誰にでも優しいところ、大っ嫌い。……なんで、そんなに辛そうなのに、損ばっかりする生き方してるの……?」


だれかの、こえが、きこえる。

のぞんで、えらんだおわりかたなんだ。

どうかさいごまで、ゆるさないでくれ。


いつから目覚めは不愉快な断線のようなものになったのだろう。

口を漱ぐ。顔を洗う。鏡に映る自分が弄りまわされた粘土のように見えて、空の胃がありもしない中身を吐き出そうとした。


「笑えよ。笑ってみせろ」


震える声で、自身を威した。

そうでなければ、誰かの望む誰かなんて演じられやしない。

カレンダーを捲ると同時に、くだらぬ三文芝居が積み重なっていく。

ふたつ演じて六文銭、あの世の駄賃にはちょうどいい。

みっつ演じて、よっつ演じて、生きている実感は抜け落ちた。

それでも朝日は昇る。それでも繊月は沈む。

どれほどに摩耗しても擦り切れない彼自身の根幹は、あの日をやり過ごすための希望であり。

強すぎる痛み止めが意識すら麻痺させてしまうような、そういう類の二面性を持ち合わせていて。

そして、今日という日を呪う理想だった。




「お兄さんって、たまにすごい遠い目をしてますよね」

「そうかなぁ」

「そうですよ? 時々何考えてるのかなーってくらいぼんやりした顔してるときがあって、ちょっと心配になっちゃいます。魂抜けちゃってませんかね?」

「抜けちゃってたらここにはいないかなあ」


もっと大切なものは、ずっと昔に欠け落ちてしまったけれど。


「お兄さんくらいのひとなら、抜けちゃっても戻ってきたりしません?」

「戻ってこないひともいるの?」

「いるんじゃないですかね?」


いかにも脳が仕事をしていないかのようなやり取りが繰り返される。

『今年も一年お疲れ様! みんなで温泉に行こう!』なんて簡単なパンフレットを手渡されたのがほんの数日前。「お兄さんも行きましょうよ! 今ならアースもリバティちゃんもついでにタイホ先輩もついてきますよ!」とかいう勢い十割の誘い文句に頷いて。荷物を纏めてやってきたなかなかの田舎な温泉地で、二人そろって足湯に浸かってぼんやりとしたやりとりを繰り返していた。


「……なんでこんな辺鄙なところまで来て足湯なんだよっ」

「おっタイホ先輩! 似合わないですねーその浴衣!」

「嘘だろ……出会い頭にdisられてる……」


大浴場のほうに行っていたはずの少年が、こちらに来て即座に暴言を受けて頭を抱える。

なんだかんだ軽口を飛ばし合う程度には仲がいいんだろうなあ、としみじみとしていれば、隣に座った少女がああーっ! と叫び声を上げる。


「それですよそれ! 魂の抜けた表情!」

「……抜けてた?」

「抜けてました! 見ましたよねタイホ先輩!」

「いやなんのことか全然わかんないけど」

「そうやって空気が読めないからモテないんですよ?」

「そうやって脈絡のない罵倒を飛ばすのそろそろ法律で禁止にできないか?」


そろそろ恥も外聞もなく泣いてやるからな、と少年が脅しをかける。

バッチコイですよ! いやー楽しみですねえ! と少女が煽りたてる。


「……平和だなあ」

「どこがですか……?」

「いつも通りって感じがして」

「……お師匠さんの感覚って、たまにすごいズレてますよね」


いつのまにか隣に立っていた少女からの冷静なツッコミに、そうかなあ、と呟けば。

煽り合いをしていたところからぐりんと首だけこちらに向けて、ハイな少女がまた叫ぶ。


「うひゃぁーリバティちゃんかわいい! 浴衣も似合うとか反則ですかねこの子は! いやータイホ先輩と半分同じ血とか信じられないですね!」

「信じられないってなんだよ、僕にはお前のその暴言が一番信じられないよ」

「いやぁーいいですねえ、目の保養になりますねえ、大浴場はどうでした?」

「視線がネッチョリしてて怖いというかやめろよ他所の人がいるところで! 手をワキワキさせるな! 撫で回そうとするなァ!」


困惑げな視線が男子2人の方に向く。

おおよそ彼女も本気で撫で回そうというわけではないだろうが、助け舟を求められた以上は制止しておくべきだろう。


「はい、そこまで。公共の場で変なことをするのはやめようね」

「はいお兄さん! 公共の場じゃなかったらいいんですね?」

「公共の場じゃなかったとしても相手の許可はちゃんと取ろうね」

「しょーがないですねえ。続きはお部屋でじっくりしましょうねリバティちゃん……!」

「い、嫌です……」

「……僕は部屋割りを間違ったような気がしてならない」


タイトルホルダー少年が宿泊部屋の割り振りを男子部屋と女子部屋という形にしたのは全く間違いではないだろうし、常識的に考えるなら正解だったとは思う。

ただし、常識的な思考は往々にして非常識に弱いものでもあるのだが。


「部屋割りを変えようにもリバティちゃんとお兄さんで相部屋はさすがにアウトですし、リバティちゃんとタイホ先輩の組み合わせじゃリバティちゃんが可哀想じゃないですか?」

「すごい理不尽なこと言われてないか? ……いやそうじゃなくて本題に戻るけど、なんでこんなところまで来ておいて僕らが大浴場を一通り満喫するだけの時間をずっと足湯で過ごしてるんだよ」

「なんでって……タイホ先輩と一緒に温泉とかお兄さんが可哀想じゃないですか?」

「僕と一緒=可哀想の論法をそろそろ捨ててくれ」


だいたいこの3人の旅行に自分を誘ってきたのはそこで大暴れしている彼女なのだから可哀想だと思うならそもそも誘っていないのではないか、と青年は思う。

となればおそらく真意は別だろうが、不確かなことについて語るべきではないとも言うし。

冗句ではぐらかそうというなら、その内側のものに土足で踏み込むのはよろしくないだろう。

という考えから口を噤み。

──そこまでは理解できていても、それではその真意とはなにか? という部分はまったく理解できていないんだろうなあ。というさらに一歩踏み込んだ部分を、トリプル・ティアラは読みきっていて。


それでも、なぜその真意に辿り着けないのか、その理由だけは誰も触れることができなかった。




眠りは不規則だ。

いつ落ちるのかも、いつ浮かび上がるのかもわからない。そのくせ一度起きてしまえば、もう二度寝はできない。

温泉宿を一通り満喫した初日の夜。結局部屋割りはそのままに眠りについて、青年は朝日よりもずっと早く目が覚めた。

同室の少年が寝息を立てているのを確認して、起こさないように静かに部屋を抜け出して。

そうしてまたいつかのように、深夜の散歩に繰り出した。


月がよく見える夜は、ほんの少しだけ好きだった。

誰かの強い光を受けて弱弱しい光を返す、そんな在り方に親近感を見ていた日もあったからだ。

そういう意味でも太陽が好きではなかったのかもしれない。

そのくせ雨も嫌いだったのだから、もはやなぜ生きていたかもわからないな、と苦笑が漏れる。

ああ、でも。

生きるという言葉の意味が、ただ心臓が鼓動を刻む事だけではないというのなら。


「それならいったい何を、生きると呼ぶんだろう」


身体はまだ動く。けれど心は遠い昔に擦り切れている。それを指して生きると呼ぶのは正しいことだろうか?

憧れを追い続け、願い、焦がれ、そして燃え尽きて堕ちる。その無様を太陽に近づきすぎて落下死したかのイカロスになぞらえるには不遜が過ぎるかもしれないが、彼の人も父が重要なファクターであり、焦がれた故に死んでしまったというのだから、強すぎる光は誰かを傷つけてしまうものなのだろう。


「それでも、月は綺麗だ」


誰かが愛の告白の代わりに使うその言葉は、たった一人の静けさに、あるいは静かに見守る月に、あるいは降り積もった雪に。そのどこかに溶けて消えていった。




そして、早朝。

青年が散歩に出かけて一人になった部屋──その隣の部屋で、目覚ましのアラームが控えめに鳴った。


「やっぱりこういうところの醍醐味は朝風呂ですよねえ、おじさん臭いとか言われちゃいそうですけど。リバティちゃんは来ます?」


伸びをしながら同室に声を掛ければ、もう少し寝ると少し呂律の怪しい返事が返ってきた。

行ってきますね、とドアを閉める。

窓越しに染み入る早朝の寒さに震えていると、視界の端に大きな氷柱が垂れ下がっていた。


「おおーっ、これはなかなか立派な……」


折り取ろうにも指先の冷たさだけを残したきり、その氷柱は太く、堅く、存在感を放ったままその形を保っていた。


「温泉旅館殺人事件! とかそんな感じの題名だったら凶器に使えますよ、このつらら」


誰にともなく、ただ指先が冷えただけの腹いせを呟いて。

そうしてもう一度、大浴場の方に歩き出した。




「……足跡?」


大浴場への道の途中。降り積もる雪が少しづつその痕跡を覆い隠そうとしているが、確かに足跡がどこかに伸びているのを少女は見つけた。

なんとなく、この先に何があるのだろうかと好奇心が自分を覗き込んでいて。


「まあ、行ってみればわかりますよね」


時間だけはたっぷりある。寒かったら引き返そう。足跡を辿るだけだから。それに寒いところから帰ってきてあったかいお風呂ってのもいいかもしれない。

そう言い訳を並べて、上着を取るため客室に引き返した。


そして、その選択を後悔した。

足跡の主はどこかに向かって歩いていたわけではないらしく、右に行ったかと思えば左に戻ったり、時折道端の岩に腰かけたように雪を振り払った跡を残していたり、それを追って随分と時間を使わされたのは、まあいい。

そうしてその先にいたのが、彼女から見ても知らぬ相手ではなかったからそれも良しとする。

ただ。

その青年は、どこか遠くを見つめながら、ゾッとするほど冷え込んだ目つきをしていた。


「────ッ!」


まるで、氷柱を削り落としたように。

透き通っていて、いつもの柔和な色すら抜け落ちたように澄んでいて。

摺り上げられた氷刃のように、鋭く、美しく、それでいてすぐに刃毀れしてしまいそうな危うさと、融けて消えてしまいそうな恐ろしさを宿していた。

いつもの春の日の風みたいにつかみどころもなく、時々遠くを見つめてぼんやりしていることもあるけれど、どんな時も数歩後ろから見守ってくれて、間違えそうなときには手を引いて連れ戻してくれる、そんな優しい横顔ではなく。

もっと恐ろしい何かが裡に潜んでいるような、あるいは精巧な石膏像かのような、それとも、研ぎあげられた氷柱を背骨に差し込むような。

あるいはそこに、やり場のない悲しみや怒りを溜め込んだような、そんな鋭利な表情を。


「お、おにいさん……?」


こわい、と思ってしまった。


「──? ああ、アースちゃんか。どうしたの、こんなところまで」


鋭利なものが抜け落ちて、いつもの柔和な微笑みが帰ってくる。

いっそ今見ていたものが何かの間違いであればいいと思えるほどに、いつも通りの青年がそこにいた。


「どうしたって、お兄さんこそ」

「散歩だよ、散歩。早めに目が覚めちゃったから、ちょっと散策しようかと思って」


ちょっとの散策というには、埋もれかかった足跡や、青年の方にも薄らと積もった雪が主張している時間経過が引っかかるけれど。

少女はそれを、見なかったことにした。


「帰ろうか。体を冷やすのもよくないからね」


小さくうなずく。


「ここまで来る途中にウサギの足跡があったの、見つけた?」

「ほんとですか?」

「あと、おそらくだけれどシカの痕跡もあった。もしかしたらクマも出るかもね」

「……急ぎましょうか! アースまだ食べられたくないです」

「僕も流石にこんなところで死ぬのは嫌だなあ」


少女は少しづつ、少しづつ、あたたかないつもの日々に回帰していく。

それでも心の奥底には、冷たいなにかが刺さっていた。

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