水底を照らすのは
探していた場所は、案外近くにあった。
日本全国をバイクで飛ばし、その先々で助けた人たちに聞き込みをしてようやく辿り着いたあの神社は、すでに取り壊されていた。
曰く、20年前にビルを建てるため取り壊されたが、そのビルで水漏れや浸水、果ては目の前の道路で水道管が破裂し陥没事故が起き現在は廃ビルが残るのみだと言う。
それでもなお立ち入るのを止められなかったのは強大な呪力を感じ、それ以上に言い知れぬ懐かしさがあったから。
一歩ビルの中に踏み出せば、そこは雨降る夏の神社。
巫女服や狩衣を着た多種多様な人物が掃除をしているが、掃除した場所は数秒で黒ずみ元に戻っていく。その中に、目に留まるものがいた。
2Pカラーとでも言うのだろうか?俺と色だけが違う誰かが、そこにいた。
アルバムの中にいた「水谷コウ」が成長すればこうなるだろう、と断言できるような姿の彼は、箒から目を離し俺の方に向き直る。
「……お前、体は大丈夫なのか?」
敵地のど真ん中に居るというのに、随分呑気なことを言ってしまった。アホ。それでも他に言うべき言葉が見当たらなくて、行き場のない焦点を社に移す。
ところどころが崩落し煤けたその社は、あの写真に写っていたそれと確かに同一だった。
「…えっ、あっ、うん、大丈夫だよ。随分前に水神様に治してもらったんだ。」
水神様。
それが「水谷涙」を創った存在なのだろうか。
「そうか。ならいい」
「うん…ところで、君は苦しくなかったの?」
「何のことだ?」
「父さんと、母さんの所で生きるの」
「…確かにちいと息苦しかったけど、俺は逃げれたからな。あんな親以外に関われる人間のいないお前の方が、苦しかったろ」
「君がそういうなら、そうなのかもね。でも、君も苦しかったことに変わりはないよ。ほら、帰り道はあっちだよ。」
そう言ってコウが差したのはあの社だった。
(領域から出る道か、神の元へ帰る道か…どっちかわかんねえけど、行ってみるしかねえな)
「ありがとよ、コウ」
「…それを言わなきゃいけないのは僕だよ。ありがとう、涙」
足を進める。一歩進むごとに足が重くなるのは、濡れていく服のせいではなかった。
社の扉を開けた。そこにいたのは正しく堕ちた神だった。
『おカえる(しなさい)、我が子よ。歓迎レまずsssss』
「よくわかんねえけど、アンタが俺の親ってことでいいのか?できれば一から十まで話してほしいんだがな」
神は、ゆっくりと発音も怪しい言葉を紡ぐ。俺はどうにも落ち着くその声に聞き入って、だんだん周りが見えなくなっていった。
『ええ、贵樣ゐ頼みなら话ずゑ(しなさい)。贵樣は元々、こゐ神社て生まれだ精霊てレだ。仆は単なゑ水ゐ神てレだが、人は仆に愈レゐ力があゑと信じていまレだ。昔ゐ仆は人を好いていまレだカら、仆に缒リ祈ゑ人ゐ子らに困リ果ててレまいまレだ。そラレて、ここゐ精霊と愈レを必要とずゑ人を取リ换え、こちらへ来だ人を仆ゐレもべに作リ替えゑことて救ラ手段を编み出レだゐてず。』
「へぇ、つまり俺はコウとの取り換え子ってことか。3歳までの記憶がないのも頷ける、そもそも存在しなかったんだな」
『そゐ通リてずよ。レカレ、仆は人ゐ丑さを知っこレまいまレだ。仆利仆欲ゐだめに水を秽レ、あまつさえ社を破壊ずゑなど…そラレて、よラやㄑ仆はとんてもないことをレてレまっだゐだと気付いだゐてず。大切な我が子だちを秽れだ地へ送リ出ずなどもっこゐほカてず。だカらこそ、贵樣が帰っこきてㄑれて嬉レいゐてずよ。さあ、これを。贵樣ゐ浊っこレまっだ魂を洗い流レてㄑれゑはずてず。』
「これは…御神酒、か?」
差し出された盃に目をやる。その液体は無色透明でありながら、芳醇な甘い香りと酒気を漂わせていた。ゴクリ、と喉が鳴る。これを飲み干してしまえば、俺も…
「やっぱ、違ぇわ」
バシャ、カランと俺の手に跳ねのけられた盃が音を立てる。
「俺にはさ、たぶん人間の価値観の方が合ってんのよ。人は救うべきとか穢れてるとか、そんな高尚な精神してねえの。仕事をするだけ。あと酒は嫌いなんだ、せめてノンアルで頼む」
『ああ、ああ…叹カわレい。贵樣も染まっこレまっだゐてずれ。可哀そラに…仆が、今ずぐそゐ秽れを消レてさレあげまず。今ならまだ、戻れゑゐてずカら』
「………ッ!?」
突如、領域内が浸水し始める。領域の主の怒りを買ったのだ、完全に沈みきるまでそう遅くはないだろう。
(短期決戦で決めきるしかねえな、父さんだか母さんだか知んねぇけど最悪な親不孝してやるよ。堕ちちまった神はもう戻んねえんだから)
気づけば、ビルの屋上に立っていた。
残穢の色濃く残るそこに、ただ一人佇む。
体中ビッショビショに濡れて、今頬を伝っているのが雨なのか、領域の水なのか、自分の涙なのかももう分からない。
(……コウ、は…本体殺っちまったら、どうしようもねえよなぁ)
あそこにいた人たちも、俺らと同じように取り換えられた人間なのだろう。
彼らは、消えるとき何を思っていたのだろうか。
(誰にも弔われないってのも、非道い話だよな)
バッグの中を漁り、折り畳み傘を取り出す。開いた傘を屋上に置いて、両掌を合わせる。
雲の奥から光が見えた。濡れた傘を、落ちる雫を、ただただ照らしていた。