毘天の夢見_弐
「確かに部屋から出るのに時間をかけてしまったことは私の落ち度ですけど、だからと言って晴信に怒られる道理はないのでは?」
「あんな部屋に長居する馬鹿がどこにいる。さっさと出ろと言っただろ」
「別に出たくないから出なかったわけではないんですけどねぇ」
「だからと言って、出るのを躊躇う理由もなかっただろ。相変わらず意味がわからんやつだな」
頬の熱と心が落ち着くのを待って景虎が部屋から出ると、そこには苛立ちを微塵も隠そうとしない晴信の姿があった。何をそんなに不機嫌になっているのかと思えば、自分が部屋から出てくるまでに30分近くもかかっていたことを景虎は知らされた。それを聞いてなるほどと納得した景虎の様子に、反省の色が無いと晴信が向けてきた拳をひらりと躱したうえで、先ほどの会話が行われたのだった。
おかげで、なんとなく深刻になりそうな心持ちだったのが霧散したため、景虎は少しだけ気持ちが軽くなったのを感じていた。とは言え、さすがに手荒すぎるのではと景虎が諫めるような目を向けるも、晴信はどこ吹く風と言った面持ちでその視線を流すのだった。
思いの外、落ち着くまでに時間がかかってしまった点は申し訳ないと景虎も感じでいた。それでも、晴信が部屋を出てから躊躇う理由ができてしまったので仕方がない上、その原因を残していった晴信にただ叱られると言うのは景虎としては腑に落ちなかった。教えていないのは自分で、この心も、理由も、晴信は何も知らないと分かっていても。
「理由はあります。晴信が知らないだけですよ」
「…………はぁ。どうせそれも話す気はないんだろ」
「ええ、まあ。はい」
今はまだ、と口にしたいと思い、けれど景虎はそれを飲み込んだ。何も教えていない自分が、何も知らない晴信に言っていい言葉ではないと、寸でのところで口を閉ざした。それでもいつか、この気持ちを含めて知ってもらいたい、とは少しだけ考えてしまうけれど。今の時点で、自分が晴信にどんな風に愛されたいかも分からない段階で、それを晴信に求めるのはきっと理にかなっていないだろう。
景虎は自分を見据える晴信に、何でもないと言うように微笑む。
その景虎をしばらく見つめ、その頑なな様子に晴信は疲労感を隠さないまま首を振った。これ以上は本当にただの徒労に終わると察してか、肩をすくめて苦い色を浮かべた。
「まあいい。俺は部屋に戻って寝なおす。おまえも違和感が残ってるようなら部屋に戻る前に医者にかかれよ」
「晴信」
踵を返し、離れようとする晴信を景虎は慌てて引きとめた。その呼びかけに顔を向け、まだ何かあるのかと推し測るような目で晴信が景虎を見る。
探るような晴信の視線に晒され、景虎は言葉に詰まる。引きとめたはいいものの、明確な理由があって声をかけたわけではなかった。ただ、このまま離れたくないという気持ちだけで名前を呼んでしまっていたのだ。
「なんだ、用件があるなら早く言え」
黙ったままの景虎に晴信が言葉を促すも、用件などないため必死に頭を巡らせる。シミュレーターでの戦闘はきっと空きがない。お酒も今は午前中だろうことから誘うことができない。そもそも部屋で寝なおすと言っているのにどこかに誘うのも普通ではない。
考え抜いて逡巡して、そういえば、自分は晴信の部屋を見てみたかったのだと景虎は思い出した。身体に合わせた布団を用意してもらったと、ただそれを知らなかったことが少しだけ心に引っかかっていたのだと、今なら気付くことができた。
言葉にしていいものか、口を開きかけるも閉じる動作を何度か繰り返す。舌が乾きそうになる頃、ようやく呼吸を一つ置いたのち、景虎は晴信へと口を開いた。
「部屋を、見たいのですが」
「…………はぁ?何のつもりだ」
即座に断られなかったことに安堵するも、理由を問われ景虎は思わず口ごもった。当然といえば当然なのだが、知りたいという気持ちが先行して、適当な理由なんて考えてはいなかった。用件すらも思い付いたばかりなのに、理由なんてものがとっさに出るわけがない。
「……大きい布団に変えてもらったのでしょう?どんな風になっているのか気になるといいますか…………」
当たり障りのない言葉にしようとして、晴信を相手にそれは無意味だと思い至って景虎は再びその口を閉ざす。きっとそれでは当たり前のように断られて終わってしまう。自分の気持ちに気付く前なら気軽に言えたであろう言葉が、今では口を開くことすらやけに気後れしてしまって、怯みを追い払おうと景虎は頭を振った。
その拍子に、ふわりとジャケットに移っていた晴信の匂いが景虎の鼻をくすぐる。その匂いに背中を押されるようにして、景虎は口を開いた。
「知りたいんですよ。……今の晴信の部屋がどんな感じなのか。この目で見てみたいのです」
言葉にしてみれば、なんとなく顔を直視しづらくなって、景虎は晴信から目を反らす。きっと、これが断られたら夢の時のように押し通すことはできないだろうと考えてしまった。
「あー…………中には入るなよ」
耳に届いた晴信の返答に、景虎は反射的に晴信の顔を凝視する。夢の中でも初めは素気無く断られたのに、現実の方ですぐに了承を得られるとは思ってもみなかった。
目を丸くして自分を見てくる景虎に、晴信は小さく吹き出すように笑みをこぼした。
「ふはっ、なんだその顔は。見たかったんだろ?」
「ええ、まあ、そうなのですが」
なんともあっけなさ過ぎて、悪い夢の後に都合の良い夢を見せられているのではと思ってしまう。景虎は握りこぶしを作って手のひらに爪を立てる。肌に感じる痛みが、確かにここは現実だと景虎に認識させた。
「…………もしかして、晴信は私が思っている以上にチョロい、というやつなのですか?」
「ほんとぶっ飛ばすぞおまえは。 ほら、行くぞ」
そう言って先立つように晴信が歩き出したため、その横に並ぶために景虎は駆け出した。前を行くでもなく、後ろに付くでもなく、その横に並ぶ。いつもと変りないその距離間に、今は心が軋むことなく安心することができた。
知りたいと思ったことをもっと口に出してもいいのだろうか。もっと理解したいと行動に移していいのだろうか。分からないままでも愛されたいと願ってもいいのだろうか。
自分の隣を歩く晴信を横目に景虎は思う。晴信は、自分がそれを願うのを今みたいに受け入れてくれるのだろうか。
考えを巡らせ、想像しようとして、無意味なことだと景虎は頭の中のその形を霧散させた。所詮想像は想像で、自分の思い込みと現実の晴信の対応とは違うのだと、今さっき突き付けられたばかりなのに。
今はまだ、どう愛されたいかもを願う段階にはないけれど、知りたいことを一つずつ、分かりたいことを少しずつ、積み重ねて、理解して、願いを思い描けるようになったのならそれをぶつけてみたいと、そう思った。
「晴信」
「なんだ」
「部屋に付いたら聞きたいことがあるのですが」
「……入れはせんからな」
「分かってますってば」
どこか晴々と笑う景虎に、意味が分からないと言った様子で晴信はため息を吐く。しかし、それはどこか安心したかのような表情で、口元も僅かに緩んでいた。
二人はいつもよりも少しだけ柔らかい雰囲気を纏いながら、自分たちの自室のある区画へと並んで歩みを進めていくのだった。
後日、勝負を仕掛けてくる回数はそのままに、自分の事をやけに知りたがってくる景虎を、理解に苦しみながらも相手にする晴信の姿が各所で見られるようになったとか。