殻の中1
頭を撫でる手に、子供は目を薄く開いた。
「ああ、起きたのか。参ったね」
こちらを見下ろす母の表情は、よく見えない。まばゆい朝日が射し込む窓を背負い、逆光で顔に影が落ちていた。
「悠仁。私はそろそろ行くよ」
「……どこいくの?」
「これと言って決めてるわけじゃないけど……そうだね、やはりまずは東京かな。呪霊操術の少年はなるべく今のうちに見ておきたい。本当はもっと早く動きたかったけど、まあ仕方ないね。あとは……」
寝起きで頭が回らない。つらつらと並べられる言葉が、幼子の耳を素通りしていく。
ただ、母親が出かけるらしいことだけはわかったので、眠気に負けそうな口をやっとの思いで動かした。
「んん、いってらっしゃい……はやく帰ってきてね、かあちゃん」
まどろみにたゆたう子供の耳へ、母親の含み笑いが滑り込む。
「じゃあね、虎杖悠仁。また会える日を楽しみにしているよ」
立ち上がり、遠ざかる足音を聞きながら、幼児は再びうつらうつらと夢の中へ舞い戻った。兄や姉と遊んでいる途中だったのだ。
これこそ彼の原初の記憶。
少年の心の一番やわらかなところに、深く残った傷である。
呪術高専の地下には様々な設備がある。
危険人物を一時的に拘束・監禁する部屋もそのひとつだ。壁や天井がうんざりするほどの呪符で埋めつくされた、いかにも辛気臭い空間なのだが、ここ数年で新たに放り込まれた者はいない。
より正確に言えば、ここ数年は『たった一人』による貸し切り状態となっていた。
「こちらです、五条さん」
「知ってるよ。何回来てると思ってんの」
件の監禁部屋の前、ドアに手をかけた補助監督を「はいストップ」と制する。
「僕が出てくるまでそこで待機。何も触るな、入ってくるな」
「は、はい」
「じゃ、また後で」
困惑した顔を置き去りに、五条は扉を開けて足を踏み入れる。
待ち受けていたのは、すっかり見慣れた呪符まみれの内装──ではなかった。
「つくづく、歪な街だよねえ」
ここを訪れるたび、彼は同じ感想を抱く。
物理的面積を無視した空間の拡がり。竪穴住居、寝殿造、書院造、城、長屋……日本史の教科書に出てくるような建造物が、時代も風俗もごちゃまぜに、軽く数キロメートルにわたって連なっている街並み。
通常『領域』と呼ばれるモノのど真ん中に、五条は立っていた。
『この街にあるものは、住まう者たちの記憶や思い出から生まれる』
かつて領域の住人から聞かされた話を思い出しながら、ぐるりと辺りを見回す。
どこを見ても大河ドラマや時代劇を彷彿とさせる光景ばかりで、今風の建物は皆無に近い。
それはすなわち、領域の主──ひいては住人に、現代社会で過ごした記憶がほとんどないことを示していた。
(まあ『目的地』を探しやすいってメリットはあるんだけどさ)
街中にぽつんと佇む、昭和じみた風情の一軒家。ここではもっとも現代的な建物の前で、五条は立ち止まる。
「もっと、ビルとか遊園地とか増えたら面白いのにね。ココ」
そう思わない?
いつの間にか背後に現れていた人影へ、振り向いて鷹揚に笑いかけた。
「二度と来るなと言ったはずだぞ」
地を這うような低い声が威嚇する。男だった。顔の中央に真一文字の紋様が入り、長い髪を二つに分けて結った青年が、五条を鋭く睨みつけていた。
「来てほしくないなら、そっちも協力してくれないと困るんだよね」
向けられる殺気をさらりと受け流し、肩をすくめた。
「あのさあ、前に君達にも言ったよね? 領域展開はさせるな、臆病なおじいちゃん達が血相変えて僕を呼びつけるからやめろってさ」
「悠仁がまた不安定になった」
上空から声が降ってくる。
五条が見上げた先で、頭上に輪を戴いた人物がこちらを睥睨していた。
「下手に呪力が暴発して、困るのは双方同じだろう。その点、領域展開でガス抜きをさせるのがもっとも効果的だと判断した。君達の用意した部屋の効果で、領域が室外に広がることはない。いざとなれば私達で止めに入る。何の問題もないはずだが」
「出たよ過保護」
大きなため息をひとつ。人の話を聞かないやつの相手は疲れるよ、とぼやきながら頭をかいた。
「とにかく、悠仁と話をさせてもらう」
「帰れ。それとも力ずくで送り返してやろうか」
構えた男の周囲に、浮遊する血の珠がいくつも現れる。対して、五条は一笑に付した。
「やめとけよ、当たらないの知ってるだろ」
「私の術式を忘れたのか? それに、今ここにいるのは私達だけじゃない」
男の横に舞い降りた『天使』の手にラッパが現れると同時、街のあちこちで呪力が立ち上る。
奔る紫電。
波打つ虚空。
現れる巨大な式神。
四方八方から突き刺さる数多の視線を感じながらも、五条は軽薄な態度を崩さなかった。
「そっちこそ忘れたわけ? 初対面であれだけボコボコにしてやったのに」
「だから何だ。言いたいことがそれだけなら、」
「それに──そっちも本当は期待してるんじゃないの? 僕に、さ」
何を、とは言わなかったが伝わったらしい。五条と言葉を交わした二人は、どちらも心底忌々しげに表情を歪めたものの、否定する言葉は出てこなかった。
それが答えだろうな、と判断した。
「なまじ近い距離にいるから言えないことってあるだろ。ま、ここは僕に任せてよ。他の奴らにもそう伝えといてくれると助かるね」
言うだけ言って、五条は一軒家に向き直る。そして、勢いよくドアを開けた。
「虎杖悠仁くーん、いますかー?」
返事はない。いつものことだ。
お邪魔しまーす、と間延びした挨拶を告げながら、靴も脱がず室内に上がる。さほど広くもない家の中、目当ての部屋はすぐに見つかった。
障子をからりと開ける。
畳敷きの部屋に、布団が敷かれていた。一見したところ人の姿はないが、掛け布団の真ん中あたりが膨れている。
それはちょうど、子供一人分ぐらいの大きさで。
遠慮も容赦もなく大股で近づき、五条は布団を思いきり剥がした。
はたして、探し人はそこにうずくまっていた。ぐすぐすと鼻水をすすりながら、おそるおそる顔を上げる。少年の目線に合わせ、あぐらをかいて座り込む。
「……ごじょ、さとる」
「久しぶりー。お話ししよっか、虎杖悠仁君」
泣きじゃくった痕跡の残る顔で、子供はひとつ頷いた。
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2007年7月 近隣住民の通報により保護
ネグレクトとの判断から、一時保護所に入所
2007年8月 児童養護施設「仙台こどもの家」に入所
施設から数度の脱走(未遂含む)
児童相談所職員との面談を複数回にわたって行う
2007年10月 原因不明の昏睡状態で発見
施設からの救急通報により仙台東病院に搬送
同病院勤務の「窓」が被呪者の可能性ありとして高専へ連絡
調査のため術師・補助監督を派遣(派遣者リストは別紙)
五条悟(特)を派遣
2007年11月 高専による監視・保護が決定
(虎杖悠仁の調査報告書より、一部抜粋)
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「でね、兄ちゃんと姉ちゃんがこないだお祝いしてくれたんだ! 9歳の誕生日! 万姉ちゃんはすげーんだよ、液体金属で人形劇やってくれた!」
『4歳程度にしか見えない子供』は、まなじりや鼻頭に赤みの残る顔をほころばせながら、腕をぶんぶん振り回して喋り倒していた。もうかれこれ十数分になる。
適当に相槌を打ちながら、今泣いたなんとやらがもう笑った、という言葉を五条は思い出していた。何だっけ。トンビ? タカ? まあ何でもいいか。
「何それウケんね、構築術式ってそんなことできんの?」
「えっとね、姉ちゃんが人形つくって、その中に脹相兄ちゃんが血入れて、術式で動かしてた!」
「あっはっは加茂の奴らが聞いたら白目剥きそう」
けらけらと笑う五条につられたのか、子供も大口を開けて笑った。
これが少年の本質なのだろう、と思う。ノリがよくて明るくて、クラスの人気者になるタイプだ。呪術なんて薄暗いものとは縁もゆかりもなさそうな、まるきり普通の幼子。
だが、そうはならなかったのだ。
六眼はしきりに、虎杖悠仁を怪物だと訴える。中に宿る数多の呪物、そこから湧き上がる呪力が複雑に絡み合いながら、ようやく人のかたちに収まっている存在だと。
前例のない奇妙な存在。何が起きてこうなったのか、真相は未だ藪の中。ただひとつはっきりしているのは、もはや呪術界から離れて生きていくのは不可能だということ。
だから、五条は口を開く。
「お祝いっていえばさ、やっぱケーキでしょ。君のことが大好きらしいお兄ちゃんとお姉ちゃんのことだし、とびきり豪華なやつを用意してくれたんじゃない?」
快活に笑っていた子供は、その問いにぴたりと固まった。痛いところを突かれた、という顔をした。
「あれ、食べてないんだ? まあそうだよね。今の君達じゃ、この領域で食べ物を再現することは不可能だ」
子供の領域に現れるモノは、本人の記憶をもとに構成される。
それは裏を返せば、記憶にないもの・記憶があやふやなものは再現できないということになる。
『5年間、経口摂取を行っていない子供』が食品の類を構成することは不可能だと、五条は端からわかっていて聞いたのだ。
「……レシートくれれば、ケーキくらい出せるよ。兄ちゃんがそういう術式持ってる」
「へえ、便利。でもそういう情報も教えてくれなきゃ、僕達だって何もしてあげられない。しかも、僕みたいに誰もが君の領域に入れるわけじゃない」
ねえ、君いつまで寝てるつもりなの?
本人が目を背け、兄や姉たちが言及を避けていた事実を、五条悟はあっさりと口にした。
この領域のどこかで、『現実世界の虎杖悠仁』は今日もベッドに横たわっている。5年の昏睡で不健康に痩せた薄い胸を上下させ、筋肉が落ちた四肢をマットレスに投げ出しながら。
幼子は──悠仁の精神体とも呼べる存在は、黙ってうつむいた。少しの沈黙があり、再び顔を上げた時には、顔がいくらか青ざめていた。
「……アンタは俺をどうしたいの。五条悟」
こわばった唇を震わせながら、子供は年上の青年を睨め上げた。まっすぐで純粋な敵意は、彼の言う『兄姉』を彷彿とさせた。
「目を覚ましてほしい。文字通りね」
「やだ。起きたら、兄ちゃんとも姉ちゃんとも好きに会えなくなる」
「ここは君がいた施設とは違う。彼らのことは誰も否定しない……いや、したくてもできないと言った方がいいかな」
五条は、ひとつの資料を思い出していた。虎杖悠仁の調査報告書に添付された、非術師との面談における彼の発言記録を。
『家に帰りたい。兄ちゃんと姉ちゃんがいるから大丈夫、ちゃんとご飯も作れる!』
『俺は一人っ子だけど、そうじゃなくて、俺の中に兄ちゃんと姉ちゃんがいるんだってば』
『他の人がいるところでは出しちゃ駄目って言われてるんだ。みんなびっくりするから』
『嘘じゃない!兄ちゃんも姉ちゃんもいる!』
『いるんだってば……!』
悠仁の体内に巣くうモノ達の存在は、母親に捨てられた子供の幻想だと判断された。
物陰に隠れて彼らと言葉を交わす姿は、情緒不安定からくる独言だと思われた。
絶対的な存在の保護者に去られ、きょうだいだけをよすがとした寂しがりの子供にとって、彼らを否定されることは耐えがたい苦痛だった。
だからこそ、子供は外の世界との関わりを断ったのだろう、と五条は考えている。
ひとたび眠りにつけば、そこは領域の内。目が覚めない限り、ずっと兄や姉と一緒にいられる。
彼は、自分を受け入れてくれる夢に居続けることを選び、それ以外を切り捨てたのだ。
「君がずっとそのままでいたいなら、別にいいけどさ」
これほどの呪物を取り込んでも、なお正気を保っている逸材。それをむざむざ寝かせておくのを惜しむ気持ちはあった。呪物たちの術式が刻まれた暁には、もしかすると自分に並ぶ実力者になるかもしれない、と思えばことさらに。
ただ、それだけではない。
「僕としては、もっと色んなことを見聞きしてからでも遅くないんじゃないかと思うんだよね。こうやって引きこもっちゃうのは」
「兄ちゃんも姉ちゃんも、色んなこと教えてくれるのに?」
「友達。仲間。そういうヤツらを作ってもいいんじゃないか、って話だよ。世界が広がる」
ピシ、と家鳴りめいた音が耳にすべり込んできたので、五条は立ち上がった。呪力切れと、それに伴う領域自壊の合図だった。
「じゃ、僕帰るから。起きたくなったらいつでも言いな」
「……寝てるのにどうやって言えってのさ」
「寝言とか? ま、方法はなんでもいいよ。なる早で来てあげるから」
四方八方で風景がひび割れ、不穏な音が響く中を、のんびりと歩いて玄関まで出る。
意外なことに、子供も後を追ってきた。五条の記憶が正しければ、見送りに来てくれるのは初めてのことだった。
だから、ついでに言い置いておくことにする。
「一人じゃない、って言うんだろうけどさ。僕としては、君にも青春を味わってほしいところなんだよねえ」
次回あたりは恵を連れてきてもいいかもしれない。確か同い年のはずだ、事態を動かすなんらかの起爆剤になる可能性はある。
「領域展開したらまた来ちゃうからね。よろしく」
「しなくても来るじゃん」
「あ、バレてた?」
「アンタ忙しいんだろ。姉ちゃんが言ってた。そんなにしょっちゅう来なくていいから」
「まあまあ、子供なんだから気を遣うなって」
「そっちもまだ子供でしょーが!」
ムキになってわめきたてる声を背に受けながら、玄関のドアを開く。
目の前には、先程置いてきた補助監督の姿があった。器用なことに、領域内の玄関ドアと高専地下室のドアを繋げてくれたらしい。五条に気付くやいなや、慌てて「お疲れ様です」と頭を下げる。
「領域はじきに解除されるよ」
「わかりました、報告書は後ほどお願いします。次の任務がありますので、そちらのミーティングを」
「はいはい」
ドアを閉める寸前、五条は部屋の中に視線をやった。
あの奇妙な街並みはもうほとんど消え失せており、元の呪符まみれの空間が広がっている。部屋の中央には本来、拘束用の椅子が置かれているのだが、今は代わりに1台のベッドが鎮座していた。
医療器具に囲まれた寝台の上には、小さな人影が横たわっている。その頬や腕に、蠢くものがあった。
目、目、目、目、目、目、目、目。
数多の眼球が、音もなく五条を見ていた。
「照れるね」
「はい?」
「いーや、なんでも」
兄や姉に守られながら、深い眠りについている子供を一瞥して、今度こそ五条は踵を返した。
虎杖悠仁は、今日も夢を見ている。