残影
・ロシナンテ海軍√
・地獄のミニオン島から約十年後想定
――破局は、唐突に訪れた。
「おま、なんだよそれセンスねェなあ!」
「はァ!?どうみてもイケてるだろ!!」
「いやピンクはねェわ」
本部務めの海兵と言えど、休憩時間ともなれば一般の労働者達とそう変わり無い。その日もわいわいがやがやと賑やかな休憩室の一角で、彼らは同僚が持ち込んだソレを誂いつつ英気を養っていた。
そこへ更に加わる人影が2つ。
「ははは…今日も賑やかですね。あ、少将もご一緒にどうですか?新メニューが結構お勧めなんですよ!」
「ああいや、おれは………」
上官と部下といえど長い付き合いともなれば気安くもなる。余程気に入ったのか楽しげにお勧めなるものを提示する部下に対する男の顔もまた、穏やかなものであった。
それは何と言うことの無い日常の一コマ。何年も何千回でも繰り返されてきただろうそれは、本来なら何と言う事も無く何千と何回目かの一つになる筈だった。――がたつき続けた歯車が一つ、欠けて転げ落ちるその時までは。
「―――ぁ」
ひゅう、と呑んだ息は喧騒に紛れて消えた。
それでも突然硬直した長身はそれなりに存在感があり、遅れて気付いた部下が訝しげに首を傾げて視線を向け直す。"どうかしましたか?"…そう続ける筈だった言葉は、愕然という言葉があてはまる程に見開かれた眼と異様な呼吸を前に音にならずに消えた。
まるで"幽霊でも見たかのような"その表情。血の気の引いた肌色に、浅く荒い呼吸音。部下の男は気付いていなかったが、その身体もまたかたかたと小さく震えていた。
誰がどうみても尋常では無いその様子を心配した部下が、ひとまず近くの椅子を進めようとした、その直後だった。
「ぁあ、あぁぁあっ!!」
「「「!!?」」」
頭を抱え込む様にして俯いた長身がぐらりと傾ぐ。その喉から劈くのは慟哭にも似た絶叫。あまりにも唐突なその豹変に、がたり、がしゃんと幾つもの落下音や破砕音が響き、雑然としながらも和気藹々としていた空間が一瞬で凍りついた。
「ロシナンテ少将!?」
それなりに名も顔も知られた男の突然の狂乱に部下やそれ以外の海兵達が浮足立つと同時に、突けば破裂しそうな程に警戒と敵意が膨れ上がっていく。――あまりにも平凡でありふれた日常であったからこそ、その狂乱は外的なものだと判断された。
――敵襲か。何かの能力者か。中将へ、大将へ、元帥へ報告を。見聞色が扱える者は警戒と索敵を。
矢継ぎ早に指示が飛ばされる。ばたばたと駆け去る者。鋭い眼光と気迫で周囲を見渡す者。武器を手元に引き寄せる者。
白昼堂々海軍本部に乗り込む馬鹿はそうそう居ないが、決してゼロではない。何より、人に干渉する能力者そのものはそれなり以上に存在するのがこの海だ。
故に彼らは、同じ海軍に名を連ねる仲間が、上官が、部下が……何者かに攻撃されたと判断し、それに応じて動いたのだ。
彼等のその判断と行動は決して間違ったものでは無い。……だが、事態の本質からは遠く離れていた事も事実であった。
「ぁああ゛ッ───!!!」
「ロシナンテ少将!! くっ、覇気が使えない者で誰か手が空いた者は少将を医務室に!!」
「了解致しました!!」
周りの音が遠い。呼びかけられている声が濁る。叫び過ぎて喉が潰れる。息が出来ない。……頭が痛い。
ちかちかと瞬く視界の中、先程まで楽しげに同僚と話していた、今はこちらに駆け寄ってきたその海兵の姿が、記憶の中の"兄"と重なる。その色彩以外には何もどこも似ていないはずなのに、薄れつつあった記憶が鮮明に蘇る。
ファミリーや自分を相手に、楽しげに笑って声をかける姿と声を思い出す。……敵や他人への悪逆さや非道さに反して、一度懐深く受け入れた相手には歪であっても確かに情の強い人だった事を思い出す。かつて離れ、唐突に戻った自分を当然の様に受け入れる様な人だった事を思い出す。
思い出して、思い出して。……そうして、その人がもうどこにも居ない事を思い知る。
視界にちらつく金髪と鮮やかな桃色の羽毛。特徴的と言えば特徴的で、けれど要素だけなら別に可笑しくは無いもの。…… それでも、"あの頃"なら、彼を連想させるような服装をしようとする者は居なかった。敵として対峙する事もある海兵なら尚更だった。
けれど、もう十年だ。新しくやって来た海兵達にとって"ドフラミンゴ"という海賊は、とっくに終わった存在でしかないのだろう。……分かってる。仕方がないと分かっている。
良くも悪くも鮮烈で意識に焼き付くその人を。……あの日、過去にしたのは自分なのだから。
「───あにうえ」
ああそう言えば。この音を口にしたのさえ、もう何年ぶりだろうか。……遠くそんな事を考えながら、海軍本部少将ロシナンテの意識は途絶えた。
――もう一度、やり直せるなら。
――あの雪の日よりも前。再会出来たその時からもう一度。
――今度こそは、ちゃんと。