楽園は未だ遠く

楽園は未だ遠く



うすぼんやりとした光が空を満たしている。

地表はもうなにもない空っぽで、光だけがここにある。

でこぼことした岩だらけの道。星すら見えない光る空。

その下を、二つの人型が歩いていた。

一人はただ前を見据えて。

一人はただもう一人を見詰めて。

無言で、ただただ歩き続けていた。


前を歩く一人はボロ布を身に纏い、右手に杖を持ち、足元の靴は既に擦り切れている。足先から血を流しながら、それを気にかけることも無く歩き続けている。

後ろを歩く一人は黄色いローブを纏い、何も損なうことなくもう一人に歩幅を合わせていた。


ぺた、ぺた、とどこもかしこも傷ついた男が地を踏みしめ歩く。その度に血が足跡を作り刻まれる。彼の後ろにはどこまでも血の足跡が続いていた。

もう一人の男はその足跡を決して踏まないように、その道筋を決して妨げぬように、寄り添うように足跡をつけた。その足跡は風にさらわれすぐに消え、ただ血の足跡だけが残り続けている。



「そろそろ何年経ったか」


寄り立つ男が呟いた。


「……飽きたなら帰っていいぞ」


歩む男が放るように答えた。


「いや、まさか。ただの世間話だとも」

「そうかよ」


二つに呼ばれるべき名前はない。

一つは神聖たるもの。資格を抱くはひとつだけ。

一つはおぞましきもの。忌むべきものにつき。


足元を血で汚し、杖を持つ手の皮も破け、整えられることも無い長く長く伸びた髪を土に滑らせ、骨と皮だけがよく目立つ男は未だ乾くことない目を空に向けながら呟いた。


「もう……万か、十万か、百万か……数えてない。お前の方がそのあたり分かってるんじゃないか?わざわざ聞かなくたって」


酷く平坦な掠れ声がやけに響く。ここにはなにもいないから。


「そうだな。三百四十二万八千七百二十三年と二百八十七日、それから十六時間三十八分……二十秒といったところか」

「……正確すぎる時間をどうも」

「鍵の娘の中身ならプランク秒単位で分かったろうが」

「さすがにいらねえよ、何の意味もない」


呆れるようにため息をつくとゲホ、とひとつ咳をした。

ひゅー、と隙間風のような音が鳴る。ただひたすらに歩き続けてきたものだから、とうに喉は涸れ果てていた。

枯れ枝のようなそれはそこで話を打ち切った。淡々と、今まで通りに歩いていくそれに三百万年前の面影はありはしない。ただ星を湛える真夜中のような目の色だけがそのままだった。

歩いていく。ただ歩いていく。なにも、なにしとつもう無い地平に在って、今にも頽れそうな見てくれをしているくせに足取りだけは変わらず確かだった。

外から見ればただの放浪にしか見えないのに、行くべき場所など最初から知っていると、歩き続けていた。

そばに佇むそれも分かっている。


歩いている。

寄り添うように揶揄うように、滑るように歩くそれがすっかりとまあ猫の形を取らなくなったのは、単に猫の姿では歩幅が合わぬと判断した故だ。

人の尺度では永劫にも思える旅を男が始め、それを見守ると決めたその時から、猫の姿を好んでとっていたそれは歩幅を合わせることにこだわった。執心しているようにも見えるそれがおそらく気まぐれのひとつだろうことは言われるまでもなく男は分かっていた。……と、そう思っているだろうことをそれは知っていたし執心という程でもないが気まぐれという程のものでもない、などとも思ったがそれはまた別の話だ。


何も無い。

何も無い。

何も無い。

砂と岩とが続くだけの地平。

星は既に死んでいた。

星の死体の上を、彼らはただ歩いていた。

ヒトは居ない。

彼らはすでに幼年期を脱したのだ。

魔法を解体し、魔術にして、科学として、そうして遥かなソラへと旅立った。

未成熟のまま終わっていくのだと憐れまれたそれは、結局そんな憐憫(モノ)は杞憂で傲慢だったのだと星へあるいは自らへ突きつけて殻を蹴破り和毛を翼へと変えて見事に成熟したひとつの生命として飛び立ったのだ。

自らを祝福して、全てに祝福されて、ゆえに母(ガイア)も父(アラヤ)もまた御役御免と相成った。

星は己が子らに微笑んで臨終した。

人理は己が子らを惜しみながら綴じた。

星の上の短くも長い物語は終わりを告げて、宙の果てで絶賛続編が花開いている。


そんなもう終わった話の上で、たった一人だけが終われずに終わらずに歩いていた。

未だ終わるわけにいかない一人をひとつが見守っていた。


「それにしても君は何か思うことは無いのかい」

「……あ?」

「人間に」

「ああ……別に、お前が期待するような答えは持ってねえよ」


す、と顔を上げる。瞳に映るは薄明かりの空。その向こう、無数の星空を見るように視線は遠く遠く透き通る。


「人は、大人になった。子供から大人になった。大人になった彼らは、それでもまだ止まらない。どこまでも続く無限の成長、それこそが星を飛び出しひとつの成熟した生命体となった人の持つ権能だ。矛盾してるだろ?きっとこのソラのなかで一番奇妙な生命に彼らはなっていく。どこまでもどこまでも小さく多く広がって、いつまでもいつまでも手を伸ばし続ける。そうしていつか思いもよらないところまで。……人間は、いつしか全てを見るだろう。その時にはお前らのことすら解き明かし或いは打ち負かしているかもな」


夢を見るような言葉。

声色は悪戯に甘く。

子供を褒める父親の口ぶりで彼は人を語るもの。


「面白いこと言うなあ。君のその人類愛はやはり依代だからか?」

「さあな。俺にはよく分からん、その辺は。そうなのかもしれないし元からなのかもしれないし。ただ……」

「ただ?」

「ただ、俺が……ただ一人の俺が持っているものがあるとすれば。ただ一つだけ明確に俺のものだと言えるものがあるとすれば。うん、それはやっぱりアイツへの想いなんだろう」


夜更けのような黒い目は、ただ一点を見つめている。

一度口火を切れば人類への愛を饒舌に語る彼は、実の所たったひとりのために旅をし続けている。

人、あるいは人形。

その昔魔術と呼ばれたものを操っていたものたちの一つであり天才。

人とそっくり変わらぬ人形。

神にしか出来ぬ所業を再現してしまったただ一人の女。

それを、彼は愛していた。この世の誰よりも愛し続けている。

男にとってそれは決してあってはならなかったはずのこと。彼というものは全てを愛するために産まれたはずだったのに。それでも彼はただ一人を選んだ、選んでしまった。

……だからこそ、彼はさまよっている。無限とも言える年月を歩き続けている。


魔法が引きずり下ろされ解体されて、人が到達点に至るその時に、彼という存在は居なくなるはずだった。楽園へと至り、そこで眠るはずだった。そうだ、本来の運命ならば、そうして眠りについた彼を彼女が追いかけるはずだった。どんな手を使ってでもと、楽園を探して放浪の果てにそこへと至るのは彼女であるはずだった。

だが彼は思った、思ってしまった。

それは、あるいは彼があまりにも多くのものを目にしてきたからかもしれない。あまりにも多くの繋がりを持ってしまったからかもしれない。魔術師、英霊、外なるもの、死徒、神、人、様々なイレギュラー。関わりあって、祝福されて、その果てに彼は本来抱くはずのものより少しだけ多く欲を持った。

女を、手離したくないと願った。

そうあるべきと分かっていても、決してこの手を離したくないとそう願ってしまったのだ。

自分一人楽園へと還り、女が自分を忘れることを願うことこそがあるべき道と分かっていても。彼はそれを選べなかった。

開いた楽園の扉は、女を飲み込んだ。離れたくないと首を振る男にその結果を見せつけるように。あるいは……慈悲をくれてやるように。

楽園は閉じた。故に、彼は楽園を探さねばならなくなった。己の足で辿り着かねばならなくなった。

人間に与えられる罰が七倍になるのだとして、ならば神に与えられる罰はどれほどのものなのか。ただ唯一の完璧となるはずのものが欠け落ちたならば、それはどれほどの贖罪を経れば赦されるのだろう。

人類のたどった月日を辿りきれば到れるはずのそれは、しかし彼がそういうものであったが故に何千倍にも拡張され終わらぬ道となり続いている。

自分の代わりに楽園で眠っているだろう女を思う。その眠りがどれほど退屈なものか知っていてもなお、彼は彼女を手放しがたかった。そして、同時に思うのだ。もしも、もしも自分がそこで眠ることを選んだとして、彼女が追いかけることを選んでしまったのならば、と。こんな道筋を辿らせなくてよかった、と。そう考えてしまうほど彼は彼女を愛していたし、彼女は彼を愛していたし、彼らを取り巻く場所は彼らを祝福していた。たとえ、世界そのものからは拒絶されてしまっていても。


無限を歩く。たたひたすらに。

それを見つめる猫が笑っている。

決して足を止めることの無い彼を。ただの一度も諦めぬ彼を。


「君は」

「なんだ」

「早く辿り着きたい?」


足を止めることの無いまま、彼はまつろわぬ者に顔を向けた。

砂が首からパラパラ落ちる。

彼が、正面と上以外を見たのは実に二百四十万年ぶりのことだった。


「ああ。当たり前だろ」


目隠しの奥で、それは目を見開いた。


「てっきり否定されるかと思った」

「んなわけないだろ。一刻も早く辿り着きたいに決まってる。早く会いたくてたまらないに決まってるだろ。……どんな手を使っても」

「へえ、それなら」


手を差し伸べる。

基本的に、黄衣の王は容易に権能を使わない。優しいのだ、彼は。そういうものにしては。基本的には人類の在り方を尊重し、それを乱すようなことは極力しない。……ただし、あくまでも極力、だ。

彼は男を気に入っていた。一等気に入っていた。一時期世話になっていた星見の組織と同じくらいには。個人で言えばあるいは誰よりも。自分でも少しばかり驚きを覚えるほどに入れ込んでいたとすら言ってもいい。

完全なる善意だ。邪神にはあるまじく悪意などこれっぽっちも無い。本気で、それを助けてやろうと思ったのだ。

男は、その手を。


「いや、いいよ」


当たり前のように取らなかった。


「意地っ張りめ。ここまで長くいてもまだ私のことが嫌いかい?」

「まあそれもある。お前とはどうやっても分かり合えん、どこまでも。あとはまああれだ、意味が無い」

「意味が無い」

「ああ、そうだ。お前の手を借りたところでどこにもいけない」

「……心外だな。これくらいのテクスチャ、俺にならどうとでも出来るぞ?」


男は呆れたように笑った、ため息までついて見せた。


「それだよ、そういうとこだ。それじゃ意味が無いんだよ。これは俺の贖罪だから、誰の手も借りられない。そういうルールだ。俺は、そういうものだから。全て見届けて、全てから忘れさられて、最後にはただの一人になる。全てが眠ったその果てで。そういうものだ。ただの一人になった俺は一人でこの道を踏破しなくてはならない。俺自身がそう決めた。そういう世界に決めた。もう、何も無いのだから」

「その結果がこのテクスチャか。お前は自分を罰するのが好きだなあ」

「ちげえよ馬鹿」


言葉の強さとは裏腹に穏やかな声で彼は言う。


「こんなにも時間をかけなきゃなんないくらいに、俺は蒼崎橙子が好きなんだ」


罪。罰。長く、永く。永劫と思える年月。ただ一人を愛した報い。この果てしなき道は何を示していたか。


「ま、だから見てろよ。どうせお前にとっちゃ一瞬だろうけどさ。俺がこの永遠を踏破するところを大人しく観察してろ」

「…………思ったより丸くなっていたんだな、君は。前ならさっさとどこかに行けだのなんだの言っていたろうに」

「言ってろ馬鹿」

「馬鹿は君だろ」

「うるせえバーカ」


道はどこまでも長く、未だ半分にも至らずいつか億を超えて。

神の器。実の所それを通り越し原初にまで至ってしまっていた肉体。

永劫の果て、楽園は未だ遠く。

それでもいつか、彼は辿り着くだろう。

奇跡を飛び越して。


一人の男とひとつの神が荒野を行く。乾くことの無い血濡れの足跡がいつか途切れるその日まで。





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補足

本スレだと楽園に至った馬鹿を橙子さんが追いかけるルートがあったので、本スレのルートのひとつがこれでそれがあにまん冬木になると色んな影響で反転してこれって感じなんじゃないかなーと思いつつ書きました。

こういうのが好きなばかりに年数めちゃくちゃインフレさせてしまった……数億を超えて到れ馬鹿……楽園へ……。

それじゃあ橙子さんより猫王の方が一緒に過ごした年数多くなっちゃう?元ネタ(数万年)の時点でそんなだからマイペンライ!!!数億経っても変わらぬ愛の深さに頭を垂れな!!!

馬鹿橙よ、永遠なれ。

そして猫王……馬鹿のことずっと好きでいてくれや……。



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