桜吹雪の止まぬ地へ

桜吹雪の止まぬ地へ


春も終わり、重苦しい雨が降り始めるころ。

ぼくは、ただただぼーっと運ばれてくる棺を眺めていた。

着慣れない制服が鬱陶しかった。




あの子が死んだ。

いつもみたいに遊びに来たあの子を、「また明日な」「うん、またね」なんて会話を交わして見送った直後のことだった。

自分の部屋に戻ろうとしたら、ぼくのものでも家族のものでもない傘が置いてあることに気が付いた。もう雨は止んでいたから忘れていってしまったんだな、届けてあげないと。そう思い、左手で黒い傘を持って、右手でドアノブを回し一歩を踏み出す。

あまりの強風に思わず目を瞑る。濡れた絵筆のような感触が、べちゃりとぼくの鼻に何かを塗り付ける。

それが、頭髪の生えたままの肉片だと気付くのにそう時間はかからなかった、気がする。

妙な生暖かさに瞼を開けば、足元にあったそれがいの一番に飛び込んできた。飛んできたであろう方向に目を向ける。

タイルの敷かれた歩道の凹凸を、潰れた肉と砕けた骨が埋めて、嫌らしい赤が塗装していた。一度意識してしまえば、嫌でも肌がそこから抜ける温度を感じてしまう。

頭を握って砕いて押しつぶされた、見慣れた服の死体が、そこにはあった。飛び出て転がった、肉片の付いた白い球体の裏の色を、吞み込んでしまわざるをえなかった。

手足が妙に痺れて、うるさい鼓動が世界の音をかき消して、それでもそれが過呼吸のせいだなんて思えるほど思考が回らなくて。体中の毛穴から体の中身が噴き出て萎れてしまうような感覚までした。


見えない。聞こえない。それでも、解る。空気の流れが、その輪郭を鮮明に伝える。

人の手だ。歪に大量の顔がくっ付いている、見えない手。執拗に道を平らにしようと地面にこすりつけられているようだった。

本能的な恐怖だった。動けなかった。警察だとか、救急車だとか、そんなものに頼るだなんて発想すらできなかった。生物としての格の違いを、眼前に突き付けられたような気がして。


それからは、よく覚えていない。





みんな慌ただしく動き回っていて、止まっているのはぼくだけ。今日まで、そして今日からまだしばらくはこんな感じなんだと思う。

母さんの心配する声も、あの手を切り裂いた女の人の言う呪術なんて話も、分厚いガラスに隔てられた遠い世界のものみたいに弱々しくしか聞こえない。

今もそうだ。母が、父が、知らないクラスメイト達が涙と共に手紙だとか花束だとかを棺に並べているのをただただ見つめている。

あの日からぼくの意識は宙に浮きっぱなしで、夢と現の狭間のまま着地点を見つけられていない。このまま浮き続けて、いつかプツンと何かが切れて、燃料切れの飛行機みたいに落ちていくんだろうな、ともロクに働かない頭が言っている。

人の流れに沿って、棺の近くへ寄る。頭があるべきそこは満開の花に覆われていた。枯れることを知らぬまま焼かれる花に、なんとなく物悲しくなって、頭を撫でるようにそっと触れる。


そこにあったはずの輪郭は、思い出の中のものですら曖昧に揺れていた。



人が真っ先に忘れるのは声だというけれど、必ずしもそうであるわけではないらしい。いや、少し違う。

零れる真っ赤なインクが、あの子の笑顔を喰らい尽くさんとしている。今も未来も塗りつぶしたくらいじゃ満足できないとでも言うのか。

ぼくの燃料切れは案外早かったらしい。真っ逆さまに、恐怖と孤独の海に沈んでいく。恐い。忘れてしまうのか?このまま置いていくなんてできるはずがないのに!

勝手に身体から力が抜けて、ぺたりと座り込む。


良く磨かれた炉前室の床に、貴方が映り込んだように見えた。それはすぐにぼくの顔に戻ってしまったけれど、幻は貴方を忘れないために必要なものを確かに教えてくれた。




他の全てを置いて、家に戻った。財布だけ持ち出してまた外へ出た。


美容院に行って、無駄に長ったらしい髪をバッサリ切って黒に染める。


近所の薬局で、いちばん近い色のカラーコンタクトを買う。


再度家に戻り、兄の昔の制服を着こむ。胸をその場で切り落とす度胸は流石に無かったのでサラシで潰した。


カラコンを着けて、洗面台の前に立つ。


「そんなとこに、いたんだね」

「またあしたっていってたのに、ずいぶんおそくなっちゃった」

「でも、またあえてよかったよ。」

「そんなにふあんがらないで。だいじょうぶ、これからはずっといっしょだ」

「ね、静」


分厚いガラス一枚隔てた向こうの世界。確かに貴方はそこにいた。

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