桜前線、異常なし

桜前線、異常なし


『全国の桜開花情報です。──では来年より3日早く桜の開花が観測され、明後日には満開になる予定です』


この季節特有の、天気予報の後に報道される花粉と桜開花情報がテレビで流れた後に、目の前で白米を頬張っていた芦毛の男が顔を上げた。


「そうだ。土手の桜がもうすぐ満開になりそうなんです」


だから近々見に行きませんか、と。


その日は平日にも関わらず川沿いの並木道は人通りが多かった。

幼い子供が舞う花弁を追いかけ、その側で転ばないようにと嗜める母親。木漏れ日の下を散歩する昼飯帰りのサラリーマン。桜を見上げてゆっくりと歩く老夫婦。

広がる快晴の空の下、皆春の訪れを心から楽しんでいる。

それは勿論俺たちも例外じゃなく。


「雨が降らなくてよかった。絶好の花見日和ですね」

「おー……」

「去年までは僕1人で通ってたりしてたんですけど、今年は君がオフだからどうかなって」

「……」

「……おーい、聞いてます?」


歩きながらぼんやり周りを観察していると視界に突然アップの大きな手が目に入る。横を見ると首を傾げていた。


「……もしかしてこの場所、いやでした?」

「いや、そういうわけじゃねえ。寧ろ落ち着く方だ」

「それなら良いんですけど……最近、ぼーっとしてること多い気がして」

「あァ、まあ……。……それは、ただ、」


足を止める。やや遅れてアップも止まり振り返った。


「……長沼のオヤジと、桜を見たことを思い出した。去年の、今頃に。……最近、そういうことを思い出しては落ち着かねェんだ」


──オーちゃん、桜だよ。


"オーちゃん"呼びすんじゃねえと何度言っても聞かないガンコな奴だった。言うだけ無駄だと思って勝手に歩き始めると素直じゃないなあだの溜息吐きながら後ろから早足で追いかけてきたことを思い出す。

確か中山グランドジャンプ2週間くらい前の、毎年のことだった春の出来事。美浦でトレーニングする現役最後の春だと、あの時はまだ知るはずもなかった。


「美浦の桜は、綺麗でしたか」

「……ああ」


目の前のアップが真っ直ぐ此方を見据える。白シャツと芦毛の髪が舞い落ちる桜と調和して。言い知れない儚さがそこにある。

やがて、またその唇が動いた。


「……じゃあ、中山グランドジャンプ見に行きましょう」

「……あ?」


目を見開き、思わず聞き返す。


「一緒に休暇を取って中山まで。美浦のトレセンにも行きましょうよ、きっと君のトレーナーさんたちも喜びます」


間がいつのまにか詰められて、前髪に触れられる。その指には桜の花弁が摘まれていた。


「ちょっとずつで良いんですよ。懐かしみながら、淋しくなりながら、進んでいければ。……なんて、僕が言えることじゃないかもですけど」


目の前のアップは目を細めて、はにかんで笑う。そこにある背景は自身の体験談、いやそれだけじゃない。

きっと、ターフを去っていった競走バたちの。


見送る側は慣れていたつもりだった。

が、いざ自分が去る側になると地に足がつかないような。無重力空間にぽんとひとりで追い出されたような。

だから、新たな環境に慣れようと。そうやって知らず知らずに抱いていた焦燥感。

今まで自分の全てを捧げてきたレースに代わる何かで、喪失を埋めようとするために。


アップの指にあった花びらが風に吹かれて流れていく。やがて川の水面に漂着し、無数の花弁たちと共に緩やかに下る。

……なるようにしかならねえ、か。


「……そうだな」

「桜はちょっと、間に合いませんけどね。だから今日は僕とのお花見に付き合ってくれませんか」

「ハハッ、嫉妬かよ。はいはいおまえ以外の男のことはもう考えねェから安心しろ」

「えッそういうことじゃなくてですねぇいたっ!」

バシンっとアップの背中を叩いて再び桜並木を歩き始める。背中を摩りながら追いかけてくる男に、振り返って右手を差し出してみた。

「……?」

「一緒にすんだろ。花見」

「…………!」


数秒のち、ようやく意図を察して左手を出してくる。手を重ね、くすぐりながら指を絡ませて、互いを離さないように握る。細かな動作ひとつひとつが何故か可笑しく感じて、自然と口元が緩んだ。


「オジュウくん」

「ん」

「誕生日、おめでとう」

「ん」

「…プレゼントは家にあるんで」

「ん」

「これからも、よろしくお願いします」

「……ああ」


また一歩、一歩進んで行く。隣のアップのペースに合わせて歩幅はやや大きめに。今度はもう立ち止まることはない。

柔風が花を全て散らせば、やがてそのレースは訪れる。

新緑が眩しい季節を想い鼓動を僅かに速めながら、今はただ隣にいる恋人と、穏やかな春を愛でることにした。



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