桜の散る頃に

桜の散る頃に


 ────寒い。


 彼はあまりの寒さに自分の腕で自分を抱くようにする。

 寒いわけはない。5月が終わろうとしているのだ。むしろ暑いぐらいである。

 だが、寒いのだ。身体ではなく心がどうしようもなく凍えてしまっている。

 

 ────近藤さんが、死んだ。


 自分にとって恩師などという言葉では足りないほどの存在が、運命としか言えない存在が。

 自分の全てを捧げて支えるべきだった人が、死んだ。

 その知らせを受けてから、ずっと寒いのだ。心が凍えて死んでしまいそうなほどに。

 それだけならまだ耐えれた。いや、耐えようとしただろう。

 だがもう一つ、彼の心を凍らせようとしていることがある。耐えようという気概を根底から壊すことがある。


「…沖田君、入りますよ」


 内心の震えと凍えを押し殺し、普段通りに振る舞いながら声をかけ襖を開く。


「…し、しょう」

「はい、なんですか沖田君」


 昔の明るさなどもう見る影もない、力なく沈んだ声が自分を呼ぶ。

 愛弟子は、沖田は。もう自力では床から起き上がることも出来ない。

 声を出すことすら力を振り絞らねばならない。


 もう、何日も────いや。

 母を看取った彼だからわかる。彼女は、沖田総司は────


 ────今日か明日には、その生涯を終える。


「おこして、ください。そと、へ」

「…はい、いいですよ」


 沖田の背に腕を回し、そっと抱き起こす。

 やせ衰えてしまった彼女の身体はひどく軽い。まるで存在そのものが消えかかっているかのように。

 その身体を支え縁側へと出て、そっと座らせる。

 もう己の身体を支える力も無いのだろう。座るなり彼女はこちらの胸元へと倒れ込むようにして身を預けて来た。

 彼はそれを優しく受け止め、抱きしめる。彼女の、愛弟子の、沖田がここにいるのだと確かめるように。

 まだ生きていると。鼓動はあると。体温があると。

 自分の生きる理由は残っていると、縋りつくように。


「わたし、は」


 消え入りそうな声で沖田が喋る。その瞳からはもう色が消えかかっている。

 鼓動は小さくなり、息も静かになっていく。


「あたたかいひかりにつつまれて、そらなんて、みたく、なかった」


 もう沖田は自分を見ていない。自分に向かって喋りかけていない。

 彼女はもう、それらを認識できないのだ。ただ心の内を、最後に残ったものを喋っているだけだ。

 心が引き裂かれそうになる。近藤が目覚めさせてくれた「自分」が凍りついていくのがわかる。

 それでも彼は胸からこみ上げてくるものを、目から溢れそうになるものを堪えて彼女の言葉を聞き続ける。

 最後に残すものを、最後に望んだものを受け止めるために。


「私は────」


 ────私は最後まで、皆と共にありたかった────


 鼓動が消える。体温が失われていく。呼吸が無くなる。

 彼が抱き締めているのが「沖田総司」から「沖田総司だったもの」へと変わっていく。

 いや、もう変わったのだ。彼女は最後に無念を、悲しい想いを残して旅立ってしまった。

 心が凍る。自分がまた昔の様に奥底へ潜っていく。全てが色褪せていく。


「────大丈夫ですよ、沖田君」


 だがそれらを拒むように、彼は声をあげた。

 沖田の抜け殻を力強く抱きしめながら、言葉を続ける。


「君が、弟子が最後に残した無念がそれなら。それを私が叶えてやれるなら」


 心の内側で何かが灯る。やる気だとか決意などという軽いものではない。

 火、としか表現できないそれが凍えそうになっていた心を溶かす。

 それだけに留まらず、心を、身体を、己の全てを焼いていく。


「私が行く。私が最後まで皆と共にある」


 炎としか呼べないそれをなんと呼べばいいのか彼にはわからなかった。

 だが戸惑いはない。心に宿った「これ」は、自分を突き動かしてくれる。

 その代償に心も身体も燃え尽きるのだとしても、それで構わない。


「私は────皆の仲間だ」


 この炎がある限り、この炎に己を焚べ続ける限り自分は動ける。

 沖田の望みを叶えてやれる。

 仲間たちの力になれる。

 それならば自分など────燃え尽きてしまって構わない。


 この炎をこそを人は「激情」だと言うのだと。

 彼が知ることはなかった。


 激情に駆られ炎を燃やし続けた代償に燃え尽きた己が、どんな存在に成り果てるかを────

 ────彼は、知る術がなかった。

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