某日、白昼、執務室にて
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その日その時、クロコダイルは猛烈に機嫌が悪かった。
正確に言えば、あの悪夢のような事故を経て新会社──クロスギルドを立ち上げた日以来、彼の機嫌が良かったことは片手の指でも余るほどしかなかったが、その日は特に虫の居所が良くないようだった。何しろあの忠実な懐刀ですら今は近寄らない方が良いと執務室を辞した程だ。
クロコダイルが国盗りの最中にもしていなかったような凶悪な顔で執務机に齧り付いているのには、大きな訳がある。新会社を立ち上げたはいいが、予想だにしていなかった問題が噴出してきたのだ。
母体になる海賊派遣業(こう表現するのは非常に不本意ではあるが!)──バギーズデリバリーの杜撰極まりない経営の建て直し。新規人材の募集。不足物資の補給。それらを賄う資金の捻出。チンピラ同然の従業員共の再教育。その他にも解決すべきことは山のようにある。
当然、海賊派遣の依頼も以前と変わりなく届いている。その実績を見込んで融資したのだから当然と言えば当然なのだが、こちらも盛況と言って構わない状況だ。
それら全ての現状を把握しようとした結果が、今現在、机上にさながらレッドラインのように聳え立っている書類の山である。
紙面に踊るふざけた文言に罵倒を返しながらも、クロコダイルの走らせるペンがインク溜まりを作ることはない。流れ作業のように、しかし的確に書類の行先が決められていく。その代償のように、灰皿の上には数え切れないほどの葉巻の死骸が積み重なっていた。
ここ最近、葉巻の消費量が特段に増加した自覚はある。在庫が底を突く前に追加で注文させてはいるが、この調子で行けばそう遠くないうちに手持ちの分を吸い切るかもしれない。
そんなことを考えながら、灰皿の端に避難させていた、先ほど火を付けたばかりの葉巻に手を伸ばした。
「──あ?」
伸ばした手が、空を切る。確かに置いたはずの場所に葉巻がない。
どこかへ転がったか、と視線を少しさ迷わせて、見慣れた黒が視界に入った。
「不用心だな」
「……鷹の目」
いつの間に入って来たのか、見下ろす人影が葉巻を片手に笑う。貰うぞ、と一言告げて持っていた葉巻を咥える姿がやたらと様になっていて、クロコダイルは小さく鼻を鳴らした。
「仕事は終わったんだろうな」
「当然」
冷ややかな爬虫類の目に睨まれても、猛禽の目をした男が平静を崩すことはなかった。そうかよ、と返して、クロコダイルは電伝虫の受話器を取った。
別室で控えているのであろう腹心は短い指示でこちらの意図を呑んだらしい。すぐ伺います、と告げて通話が切れる。受話器を元に戻すと、クロコダイルは椅子の背もたれに身体を預けて大きく伸びをした。長時間のデスクワークで凝り固まった身体が悲鳴をあげる。
視界の端で、ミホークが窓を開けているのが見えた。室内に充満していた煙が逃げ場を得て、外の新鮮な空気と入れ替わる。
窓を背にして佇む鷹の目をした男は、相変わらず見惚れる程に美しかった。月や星明かりと共に生きているかのような見た目をしている癖に、燦々と輝く太陽を背負うのも様になるのだから畏れ入る。
「このおれに子供の使いの真似事をさせるとはな」
「悪かったな。人手が足らねェもんでな」
「全くだ。頼んだのがお前でなければ切り捨てている」
煙を吐き出してミホークが薄く笑う。二人の間で張り詰めていた空気が少しだけ弛緩した。
ここ最近、根を詰めすぎていた自覚はある。書類の山は崩れていないが、嵩は随分と減った。少しくらい息抜きをしても問題ないだろう。そう考えて、新しい葉巻へ手を伸ばす。
「クロコダイル」
突然の呼び掛けに、なんだ、と応える暇もなかった。襟元を掴んで引き寄せられて、視界を白が覆った。
「返す」
一瞬の出来事に思わずぽかんと開いた口にかさついたなにかが触れ、火のついたままの葉巻が差し込まれる。
目の前にはミホークの整った顔があって、周囲には嗅ぎ慣れた葉巻の匂いが濃く漂っている。そこでようやくクロコダイルの優秀な頭脳は葉巻の煙を吹き掛けられたのだ、と理解した。そしてそれに気付いた途端、体温が数度ほど上昇したかのように錯覚した。
「……なんだ、随分と可愛らしい反応じゃないか」
「うるせェ……」
くく、と意地悪げに笑うミホークの顔を直視出来ず、呻くように悪態を返す。顔が熱い。完全に不意討ちだった。
「いつだか、お前が自分からやってきた時には随分と楽しげだったというのに」
「〜〜ッだからうるせェって、」
「待っている」
艶やかな美声に囁きかけられて、苛立ち混じりの罵声は喉の辺りに詰まって消えてしまった。肘掛けに置いていた手を覆うように重ねられる。自分のものよりも細く白い、しかし男性らしく骨ばってごつごつとした指が手の甲をゆるりと撫でて離れていった。「いつ」も「どこで」もない誘いだったが、待ち合わせにはそれで十分なことは互いに知っている。
「それから、これと……この依頼は貰って行く。おれが出た方が早いだろう」
執務机の上に山と積まれた依頼書から何枚かを取り上げて、ミホークは何事も無かったかのように扉の方へ足を向けた。擦れ違うように珈琲を持ったダズが入室してくる。遅い。八つ当たりのように睨み付けると、寡黙な懐刀は表情に困惑を滲ませた。
「どうぞ。……何かありましたか?」
「何もねェよ」
不機嫌そうな、しかしどことなく浮ついた様子の上司を見て、タズは小さく首を傾げる。
まだ日は高い。開かれた窓から吹き込む風が、音もなく立ち上る葉巻の煙を散らして連れ去った。