杯桜に浸す痛取(いたどり)の花

杯桜に浸す痛取(いたどり)の花

タイトル仮

 年月は、瞬きほど。あれから何度、春を迎えただろうか。


 痛みを抱えて。それでも悲しくはないと。約束が果たされるその日を信じて。また今日も、春を待っている。

 すっかりお婆ちゃんになってしまった私のもとへ、通ってくる教え子。

 新しい遠坂のかわいい跡継ぎさんは、独学で大した腕前もない私を先生と呼ぶ。

 姉さんに似たそんないい子だからこそ、かわいがってしまうのか。


 光を撒いた庭。定位置になった揺りかごで、彼女とお喋りをするひとときは私の宝物のひとつだ。

 私がお喋りできることなんて、あの懐かしい日々のことくらいしかないのだけれど。その繰り返す物語は、彼女にとってはとても楽しいものらしい。


 ――罪そのものである私に、宝物を抱くことが許されるのか。


 悔恨が脳裏をよぎる。苦しみも、悲しみも、忘れられるはずがないくらい深く深く、いまの私をかたちづくっているはずなのに。

 それでも私の心は、自分が正気なのか疑うほど穏やかで。


 陽射しは暖かく、時間は緩やかに、時に責め苦のように過ぎていく。



 ――責め苦のような人生を送っているのは私だけではなく。世界にはたくさんの人が生きていて。

 傷ついている人も、たくさんいて。そのすべてを拾いきることはできなくて。だから、あのころの少年だったあのひとは。



「渋谷が壊滅……?」

「そうなの、実は調査に行ってきたんです」


 世間で起きてることなど私は何も知らないから。

 彼女がこうして世界の日々をときどき教えてくれる。

 この跡継ぎさんは、春を待つだけの私と外の世界をつなぐ、とてもすごい魔術師さん。


「またそんな危ないことを……。姉さんは何か言ってなかった?」

「『世界がろくでもないことなんて、もう知り尽くしてるから』とかわかった風なこと言ってた」


 残念ながらその点においては私も姉さん派で。この子に何を言えばいいのか迷うところなのが、もどかしいもので。


「正直、行って後悔した。控えめに言って地獄だったんだ」

「――激しい戦闘が。いいえ、戦闘にもならない蹂躙が、あったということ?」


 私の言に、跡継ぎさんは目を見張って。


「せんせい、やっぱりすごいね。私が何か言う前から、ぜんぶわかってる」

「そんなことは、ないよ。なんとなく、あなたの顔を見てそう思っただけだもの」

「顔って――」


 自分の顔をむにむに両手で挟む跡継ぎさん。

 そんな彼女に、尋ねてみる。


「具体的に、その場処は、どんな?」

「……言っちゃなんだけど、すごい静かで穏やかだった。まあコトがすべて終わった後の現場だからね。

 たとえば大勢の人が災害救助に懸命に動いてる喧噪とかさ、そういうのがそもそも存在しない、

 立ち入り禁止のお知らせだけがおざなりに立てかけられてるだけの戦場跡だった。

 ただ、その戦場でね、更地になってる一区画があったんだ」

「更地?」

「建物が倒壊した破壊の爪痕ではなく、完全に建物が――街が消滅したまっさらな平地」


 街が消滅。それは。つまり。


「住人も全員、一斉に、消し去られた」


 その空間に。もう存在しない街に漂う瘴気は直視に耐えないものだったという。


「削り取られたその場処の端から端まですべてに、魂も怨霊も、どれだけの密度でぎっしり漂ってたんだろうね」


 ぎっしり、漂う。ああ、矛盾するような、それは。

 理不尽に涙する、無辜の人々の絶望であり。世界中から『償え』と責める私への――


「どんなろくでもないのが暴れ回ったのやら」


 肩をすくめる跡継ぎさん。たしかに、どんな人がそれを為したのか。

 私はそれに、興味があるのか、私が興味を持っていいのか、わからないけれど。

 ただ、ひとつ思うことは。


 その地獄を為したひとは、いまきっと――


 ――泣くことすらできない苦しみを、抱えているのではないだろうか。





 おなかがすいたから。てをひろげた。

 よるのなかにどろをひろげて。たくさんたべられるようにおおきくおおきく。

 たくさんのいのちをひとのみするくろいどろ。


 なにもかもを消し去った黒く濁った大地のまんなかで。


 ――私は花を育てている。



 いつものように、授業と言えるのかもわからない、他愛のないお喋りのひとときを終えて。

 夕暮れの玄関で跡継ぎさんを送り出す。


「じゃあせんせい、今日もありがとうございました」

「暗くなる前に、ちゃんと帰るのよ」

「せんせいのなかでわたしどんだけ子供なの」

「暗くなったら道が見づらくて危ないでしょう?」


 ただそれだけの理由で発した心配は、妙に彼女を驚愕させてしまったらしい。

 そんなやりとりに、お互い笑い合いながら別れようとするそのとき。 

 それはふよふよと。雪のひとひらのようなちいさなかけらが、彼女の身体から浮き、宙を泳ぎ、そして膨らみはじめて。


 驚愕は一瞬。跡継ぎさんのまなざしは、才ある戦士のように、するどくその現象を睨みつける。

 歪に膨らむ球体は明らかな異形の顔。私たちを優に丸呑みできる、歯と口腔。ほぼ、頭部だけの大きな体躯。

 ぎょろりとした眼で人を捉え捕食する、禍々しいかいぶつ。


「呪霊――!」


 負の感情から生まれ人々を死へと導く有形の"呪い"。それはがばりとおおきな口を広げて、わたしを。


「く……!」


 事態に対応するべく、遠坂の魔術師は掌に破壊の光を。私は黒い泥を模した影の矢を指先に装填し――


 ――その術が撃たれる前に。どごん、と。宙にある呪霊の身体が強制的に"下方向に跳んだ"。固い地面がひび割れ潰れる振動。

 上から降ってきた、黒い服の少年が、その呪霊を蹴りつけ押し潰していた。

 ひしゃげた身体から出血を撒き散らす呪霊。その身体から地面に降り立った彼は、私たちと、私たちの居る玄関先をちらりと見て。

 醜悪な異形をこの場から引き離すように、苦悶に喘ぐ呪霊を拳で一薙ぎ。それだけで、巨大な異形の身体はあっさりと吹き飛んだ。

 

 視界の先で、力尽きた呪霊の身体が消えてゆく。

 少年は、何もなくなった空間からしばらく視線を逸らさなかった。戦い慣れている戦士の、残心の所作。


「あー……怪我は、なかったですか」


 そうして彼は、私たちに向き直った。眉間と、くちびるの左端に傷を残す、赤毛の少年。

 少女と老婆を心配するその表情に嘘はない。そして、今の現象をどう説明したものか困っていることも察せられるあどけなさ。

 それに反するように、彼の目つきには未来に希望を映す宝石の輝きはなく。現実を生きる重みに凍りついたハガネのよう。

 未だ十代であろうその若さで、既に戦いに慣れているその練度。それはけして幸福であるはずがなく――


「あんたは――」

「貴女はいますぐ帰りなさい?」


 彼女が少年を問い詰める前に、私からかぶせた声。

 ふだんの私では考えられないであろう、行動を強いる声に教え子は困惑を見せる。


「な。せんせい……!?」

「意地悪で言っているわけではないの。姉さんのところで浄化・消毒。

 そのあとは自分の部屋でおとなしく隔離されること。それがあなたの今すぐ取るべき行動ですよ?」


 先ほどの呪霊は跡継ぎさんの服か、もしくは身体から浮き出たものだ。

 灰燼に帰した街を出入りした、そのときに彼女についた"付着物"。それが先ほどの襲撃の原因だと推測される。


 ――そしてなにより、助けてくれた少年をなおざりに、この問答を続けることはできない。


「助けて頂いて、ありがとうございます。私は間桐桜。どうかお礼を。貴方のお名前を、お教え願えないでしょうか」

「あ、いや、すんません、俺、たまたま通りがかっただけで」

 

 怪物に襲われた。その現象に頓着せず感謝を述べる。そんな私に困惑する少年はしどろもどろに。


「呪術の知識はありませんが、私たちもまた別種の、人の理の裏側を知っているものです。

 戦うあなたを止めるつもりはありません。けれど、どうかいまだけは家の中へ、私にお礼をさせて頂けないでしょうか。

 とてもお疲れのように見えます。こちらで少し、休まれていってください」

「ちょ、頭を上げてください。俺」


 遙か年上の老人から頭を下げられることなど慣れていないのか、彼は気の毒なほど、私への対応に困り果て。


「……あんた、今の私たちの話、聞いてたでしょ」


 私たちのあいだで、教え子が口を開く。


「私は帰って呪霊の痕跡を洗い流さなきゃいけないの。だからせんせいはこの家で一人なの。

 今みたいな危ないことがないように守ってくれる人が居たら助かるんだけど」

「……初対面の俺に言うこと?」

「そりゃただの建前だし、筋道が通ってるかなんて関係ないのよ。

 ただ、あんたを詮索しないから休んでいけって言ってるの」

「…………いや、俺、やっぱり」


 それでも、少年は見知らぬ私たちに関わることを拒もうしたそのとき。

 盛大に、彼のお腹が鳴った。


「え」


 夕暮れどき。ちょうど、世間の夕食の時間。若い男の子の、空腹を知らせる正直な音。

 少年は照れたように顔をしかめ。教え子は勝ち誇って。私は微笑し。


「寄ってけば? あー私もせんせいのご飯食べたかったなー」

「ぜひ、振る舞わせてください」

「……うっす……」


 暗に私のご飯を食べないのは損だよと示す教え子さんの言葉に、少年は頷いたのだった。





「うっま……!」


 声は、最初のひとことだけ。その後は、食事に夢中になっている音だけがしばらく続いた。

 彼にとってはいまどきめずらしいであろう日本家屋の、畳の上の食卓で。私は彼を眺めながら渋茶をすする。

 その味の賞賛に。心の中でだけ、少しだけ、胸を張った。


『……む。洋食の腕は、もうすっかり追い抜かれてしまった気がする』


 だって、この味は、私に料理を教えてくれたお師匠さんの、お墨付きなのだから。そこだけは、謙遜をすることが彼に失礼だから。


 けれど、こんな気持ちになったのも、いつぶりだろうか。

 見知らぬ誰かのために、腕を振る舞ったことも。


 ――かつて少女だった私と、日向のような明るい髪の先生と、しあわせの在処を与えてくれた赤毛の少年が囲んだ食卓で。


 私の料理を褒めてくれた、あの頃の少年の姿を。どうしても重ねずにはいられなくて。




「ごちそうさまでした……!」

「お粗末様でした。お口に合っていたなら何よりです」

 そうして頭を下げる彼に、お茶をすすめながら答える。


「……戦いの日々のさなかのようですが、ちゃんとしたご飯を食べることができていますか?」


 私のそんな質問に、すこし迷うようにうつむいて。


「自分で料理できないことはないんすけど、ここのところは全然……。コンビニとか簡単なものばっかですね」


 だから本当に美味しかったです。食事でこんな思いをしたのもすごい久しぶりな気がします、と彼は言った。






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