望まぬ目覚め
「……そうか。ルフィが」
「ああ。よもやこんな状況では目覚めてほしくは……いや、むしろこんな状況だからこそじゃな」
あの事件からおおよそ10か月たったある日の海軍本部元帥室。
そこでセンゴクとガープはそれぞれおかきと煎餅を齧りながら言葉を交わす。
その声色は晴れず……しかしどこか嬉しげでもあった。
「極限の環境が覇気を強くする。広く知れた通説じゃが、あやつとて例外ではなかったか」
ルフィとウタの追撃部隊からあった、彼らに壊滅させられた挙句取り逃したという報告。
そのこと自体はさしたる問題ではない。いや問題でないわけがないのだが、この手の報告を聞くのはもう両手の指の数を超える。今更その程度で心など動きはしないのだ。
2人の興味を引くのはその手段。
曰く、黒い稲妻が轟いたように見えた。
曰く、見えない何かに全身を叩かれたように感じた。
曰く、それで兵の大半が昏倒した。
曰く、それらはルフィが叫んだ瞬間に引き起った。
曰く……残った兵も、"触れない"打撃に叩き潰された。
「覇王色の覚醒――――――やはり持っていたか」
「加えてすでに朧気ながら纏ってもおるようじゃな。さすがは……わしの孫じゃ」
目じりに涙を。口元に笑みを。浮かべてガープは言う。
それは孫の成長に対する喜びであり。すでに強大な敵がさらに力を付けたことに対する焦りであり。
そして不甲斐ない己に向けた後悔でもあった。
「願わくば、海兵のままその力を目覚めさせてほしかった――――――いや、逆じゃな。目覚めんで欲しかった」
「私もだ。素質を感じたから見せてはみたが……ないものだと思っていたからな。それでもよかった」
海軍において覇王色を持つ者は極めて少ない。素質が目覚めていないという可能性もあるが、現状習得に至っているのはセンゴクだけだ。
そしてその方がいいと2人は言う。目覚めずに済むならそれでいいと言う。
覇王。理ではなく武によって世界を征する、王道にあらぬ覇道を歩む者。集団の一員として平穏を保つのではなく、混沌の中で個として頂点に立つ事を生業とする者たち。
海軍の在り様からは根源から反する存在。
とどのつまり覇王色とは、そんな覇者たる素質を強く持つことの証左に他ならない。
モンキー・D・ルフィがその力に目覚めたという事は、彼がこの世界の秩序体制と根本的に相いれないという事を改めて突き付けられているようだった。
そのような才覚など、埋もれていて欲しかった。
「だが、むしろ当然という見方もできる」
どうしてじゃ、と問うガープに、センゴクはこともなげに答える。
「もともとルフィは、海賊に……自由になりたかったのだろう?」
「……ああ」
そうじゃったなと自嘲する。
それは、ルフィがかつて抱いた夢。シャンクスに頼まれ、ウタを一人にしないために諦めた夢。
己が変えられなかった孫の信念を変えたのはあの親子なのだ。
海軍にいた頃は――――――当人はそれに不満を感じてはいなかったが――――――自由ではなかった。逃げ回る今の立場は過酷だが、同時に自由でもあった。
そのような状況下で窮屈を嫌うあの男が磨かれればどうなるか。
結果がこれだ。結局世界は、自らに仇なす怪物を一人鍛え上げただけにすぎなかったのだ。
「……のうルフィ。お前は今、後悔しておるのか?納得しておるのか?……しておるんじゃろうな」
仇敵となったルフィを慮るガープを叱責する余裕はセンゴクにもない。彼もまた同じ心持ちだから。
例え敵対しようとも、その命を奪うことになろうとも。
彼もウタもかつて輝かしい未来を見た教え子。そもそもガープにとっては事実上の孫夫婦だ。
「……だからこそ、わしが2人を捕えねばならん」
そこにあるのは悲痛な覚悟。
対罪人となった身内に、せめて自らの手で引導を渡す壮絶な決意。
センゴクは声を掛けることはできない。脳裏に浮かぶは、かつて保護し、鍛え、そして殉職したとある海兵。
あの時己は声を上げて泣いたが、いまガープが味わっている苦悩と悲しみは己のそれを越えるだろう。
ガープの感情に寄り添うことはできる。共有することはできる。しかし真に理解することはできない。
「……ひとまず、部隊の再編成だな。こうなると佐官クラスではもはや相手にならん。将官複数で叩かねばな」
「わしも出るぞ。もはや情だのなんだの言ってはおれん」
故に任務を果たそうとする。海兵として。絶対的正義を掲げる組織の一員として。
そこにいるのは冷徹な2人の軍人。しかしその表情がひどく歪み泣きそうになっていることを知る者は、お互い同士のみである。