月夜に希う

月夜に希う


※現パロ雰囲気ホラー

※盛大に何も始まらない

※ホラゲなら序盤も序盤

※ホラーと言っておきながら怖くない

※幻覚から生まれた幻覚


 腐った木材とカビの臭いが鼻をつく。じとりと重い空気と生ぬるい温度に不快感を感じ、瞼を開ける。

 ぼんやりと焦点の合わない視界でも、やけに薄暗い場所にいることはわかった。視界が安定し暗闇に目が慣れると、己がどことも知れぬボロ家の一室に横たわっていることを知る。


 埃の積もった不衛生な床の上に、直にうつ伏せで投げ出された体を起こせば、案の定節々がギシギシと痛みを訴えてきた。

 「痛っ…」

 思わず声を漏らし、その拍子に起きた時舞い上がった埃を吸い込んでむせてしまう。実に踏んだり蹴ったりだった。


 咳き込んだ拍子に、指先が頬に触れる。正確には、頬に貼り付けられたガーゼに。驚いて顔を触れば、反対側には大きな絆創膏のようなものが貼ってあった。ギョッとする。私は何故こんな怪我をしているのか。

 慌てて己の体を見下ろせば、埃っぽくなった黒いセーラー服の袖から覗く手首に、スカートとソックスの間で晒される素足に、痛々しく包帯が巻かれていた。

 背筋に冷たいものが走る。私には、こんな怪我をした記憶なんてないのに。


 ゾワゾワと這い上がってくる恐怖を振り払うように、床に座ったまま部屋を見渡す。薄暗い部屋には、低い棚とクローゼットがついた洋服箪笥のようなもの、それから床に無造作に転がる安っぽいビニール傘と、闇に同化してしまいそうな紺色の手帳くらいしか見当たらない。あとはせいぜいがそこらじゅうに空いている穴くらいのものであった。


 ————そういえば、明かりはどこからきているのだろうか。

 薄暗いとはいえ、歩き回ることが出来なくもない程度の明るさはある。しかしながら、この廃墟に電気など期待できるはずもなく、さりとて火のようにゆらめく光源でもなさそうだった。

 不思議に思って背後を振り向けば、そこには大きく薄汚れた窓と、そのさらに向こうに青く輝く月が登っていた。


 光源を見つけて少しだけホッとした気持ちになった私は、軋む体で立ち上がって窓に近寄る。少しふらつきながらも窓にたどり着き、割れていないことが不思議なそれに手を置く。はめ殺しだったらしいそれはびくともせず、ただ私の手のひらを黒く汚しただけだった。

 窓から外を見ようにも、曇ってしまったガラス越しでは外など見えるはずもなく。ぼんやりした木や葉の影から、多分二階以上の場所かなとしかわからない。ため息をついて窓から離れる。


 なんとなく他のものに触れる気にはならなくて、紺色の手帳を拾い上げる。ひっくり返すと、『生徒手帳』の文字と、半端に途切れた校章らしきエンブレムが印刷されていた。ビニールのカバーを外してよく見ようとして、カバーと表紙の隙間に汚れが入り込んでいることに気が付く。校章が半端に途切れていたのは、この汚れのせいだったようだ。これのせいで、表紙の下部分は完全にカバーと癒着していた。


 汚れをどうにかするのも億劫で、生徒手帳をそのままめくる。中身も表紙の惨状に劣らぬ汚れ具合で、手帳としての機能はそこまで期待できないだろう。

 収穫といえば、なぜか栞のように挟みこまれていた交通系ICカードと、かろうじて私立の高等学校の生徒手帳であること。そして。

 「………、タケル」

 苗字は潰れてしまっていて読み取れないが、名前だけはわかった。男の子みたいな名前だと思うが、無愛想な少女の証明写真が私だと直感が訴えかける。


 そこまできて、はたと気づく。

 私は、自分の名前さえわからなくなっていた事に。


 ◇


 頭を殴られるような衝撃を感じようとも、状況は何も変わらない。意識して深呼吸して、手帳をスカートのポケットに突っ込む。どんなに汚れていようと、その汚れが何かわからなくとも、この生徒手帳は私が私だと言える唯一のものだった。手放すわけにはいかない。手放してはいけない。


 ポケットから手を出して、今度は傘を拾い上げる。薄汚れてはいたが、骨組みがおかしくなっていることはないようで、特に引っかかりもなくスムーズに開閉する。

 傘を畳んで、左の腕に引っ掛ける。この痛んだ家を歩き回るには邪魔な拾い物だが、何かあった時に武器となるものが他に見当たらないので仕方がない。

 残るクローゼットと棚を探ってみたが、埃以外には何も入っていなかった。懐中電灯でもあればまだ違ったのだが、この廃墟にそれは期待が重すぎる。


 あらかた物色が終わってしまえば、あとは部屋から出るより他にない。痛んだフローリングをすり足でゆっくりと歩き、ドアに耳をつけて外の様子を伺う。耳が痛くなるような静寂しか感じ取れず、諦めてそっとドアを開けた。


 「暗…」

 当たり前だが、部屋の外は暗かった。闇に慣れた目がかろうじて物体の輪郭を捉える程度で、家屋の痛み具合と合わせると非常に危険だ。

 それでも立ち止まっているわけにはいかないので、慎重に足を運ぶ。足を乗せて嫌な沈み方をすればすぐさま回れ右をして、穴が空いていれば手元の傘で深さや大きさを測る。ジリジリと焦りと不安を感じながら進むのは、非常に疲れる作業だと知った。


 歩き回ってわかったことは、この廃墟が本来はそこそこ大きな屋敷だったのだろうということと、最初に私がいた部屋以外は行ける状態ではなかったことくらいだ。廊下があらかた腐っているか朽ちているかで、とても先に行く気にはならない。部屋の前に辿り着いても、やはり床の老朽具合は無視できなかった。


 そして辿り着いた場所が、階段であった。上に向かう階段と下に向かう階段が並んでおり、試しに上に向かう階段の手すりを握ったところ、ミシッと嫌な音と共に手すりが折れた。嘘だろという気持ちで手元の手すりを見るが、そんなことで握りしめた木片が消えるはずもなく。

 複雑な気持ちで手すりだったものを廊下の端っこに置いていく。上階へ行く気は欠片も残っていなかった。


 下り階段の手すりを握りしめ、先ほどよりはしっかりした感触に少しだけ安堵を覚える。慎重に、一段ずつ、そろりそろりと足を下ろしていく。私が動くたびにキシキシと鳴る手すりと階段に不安を掻き立てられるが、踏み込んでしまった今、もう最後まで行くしかなかった。


 手すりの上で手を滑らせる。それに縋り付くような体制で、下の段に片足を下す。足を滑らせ、靴底に嫌な感触が伝わってこないことを確認してからようやく体重をかける。もう片方の足を下ろして、また手を滑らせ———。

 「———っ!?」

 バキャ、と足元で音がするのと、体を襲う浮遊感は、ほぼ同時に訪れた。咄嗟に手すりに捕まれば、悲鳴のような音を奏でつつも、私の体重をしっかり支えてくれた。


 恐る恐る下を見れば、右足が穴に沈み込んでいる。木片の砕け方から察するに、ちょうど亀裂の上に立ってしまったようだ。運の無い。

 バクバクと全力疾走する心臓を深呼吸で強制的に落ち着かせ、板の上に残った左足と手すりに体重をかけ、右足を引き抜く。鼻につく鉄錆の香りとふくらはぎの痛みに、落ちた衝撃で怪我をしてしまったことを知る。


 傷口は燃えるように痛いが、こんなところで座り込むわけにはいかないと己を奮い立たせ、階段を降り切る。

 ようやく下層に到着した時は、心の底からホッとした。


 (それにしても………、本当に広いな)

 階段が終わっていることで、己が一階にいると推測できた。私が降り立った場所は玄関ホールだったようで、高い位置に取り付けられた灯り窓のおかげか、最初に倒れていた部屋より僅かに明るいように感じた。

 さながら美術館か金持ちの屋敷のような作りだ。今まではフローリングだった床は、そこだけは大理石が敷き詰められているようだった。


 薄暗い奥の方に目をやればまだ部屋はあるようだが、もう奥にいく気力はなかった。一刻も早く外に出たくて、玄関扉と思しき扉に手をかけ、体重をかけてゆっくりと押し開いていく。幸い鍵などはかかっていなかったようで、滑りが悪いドアは、少しずつだが確実に開いていった。扉の隙間からは、屋敷にこもっていた澱んだ空気とは違う、湿った土と緑の香りがした。


 ようやく出られそうなくらいの隙間をこじ開け、そこに体を滑り込ませる。

 バタンと支えを失った扉があっさり閉まる音を背後に聞きながら、ゆっくりと顔を上げる。


 —————息を呑むほど、大きな青い月。


 足の痛みを忘れるほどの雄大で美しいそれに、しばしば見惚れる。冷たい風に吹かれてくしゃみをしたことで、ようやく意識が戻ってくる。

 恥ずかしさを誤魔化して、服についていた埃を払い落とす。足の怪我を確認すれば、傷の大きさに反してそこまで深い傷では無いようだった。


 これならどうにか歩けそうだと判断して、改めて周囲を見渡す。

 後ろには朽ちかけた、かつては豪華だっただろう屋敷。周囲には、風にざわめく木々。

 ………ものの見事に、地上の孤島といった場所であった。

 かろうじて前方に道らしきものがあることが救いだが、それも舗装すらされていない、踏み固めた結果道になっているだけの代物だった。


 スニーカーで良かった。これがローファーだったら、早々に歩けなくなっていたことだろう。

 まだ大丈夫と自分に言い聞かせながら、いつ途切れるともわからない道をたどって歩いていく。


 ◇


 しばらくは似たような木だけの景色であったが、いい加減精神的に疲弊し始めた頃に、ようやく人工的な灯りを見つける。

 急いで駆け寄れば、どうやらバス停の明かりのようだった。しかもバスがちょうど止まっている。———こんな遅い時間に?頭の片隅に浮かんだ疑問はしかし、バスの発車を知らせる音に掻き消えた。

 「あっ———まっ、待ってくださーい!!!」

 渾身の絶叫に、閉まりかけていたバスのドアが再び開く。そのことに安堵しつつも、さらにペースを上げる。バスに着く頃には息も絶え絶えとなって、立てたビニール傘を杖に縋りついていた。


 「あ…あの、このバスって、どこまで行きますか…?」

 「一番近い村だよ。そこが終点」

 息も絶え絶えの私に、人の良さそうな運転手が柔らかく答える。頭の隅にモヤモヤしたものを感じつつも、今はとにかく人がいるところに行きたくて、ポケットから生徒手帳———ひいては交通系ICを引っ張り出す。私が精算を済ませると、バスの扉が閉まって動き出した。

 精神的にも肉体的にも疲弊していた私は、足を引きずるように運転席から二つ後ろの席に倒れるように座り込む。他に客はいないようで、私の無様な姿を披露することはなかった。


 座ってしまえばどっと疲れが押し寄せてきて、バスの心地良い振動も相待って次第に瞼が重くなる。

 数分もしないうちに私の意識は闇に落ちていった。


 —————目覚めた時、更なる異変が起きていることも知らずに。


 ◇


 水底から浮かび上がるように、徐々に意識が明瞭になってくる。体に伝わる振動に、そういえばバスに乗っていたなと思い出し———ぞわりと全身を襲う悪寒に従い立ち上がる。

 疲弊していた精神も肉体もすっかり回復しているというのに、このバスはまだ走り続けていた。しかし外からは青い月の光が降り注いでおり、実はそこまで時間が経っていないのかと思って運転席を見て———己の感じた悪寒が正しかった事を知る。


 運転席には、誰も座っていなかった。


 伽藍堂のシーツと、ひとりでに動くハンドルが気味の悪さを加速させる。

 私は一体、何に乗ってしまったのか。

 バスの形をしているのなら、少なくともバスの機能はついているだろうと、下車ボタンを押そうとして、さらなる異変に気付く。


 バスが、随分と古くなっているのだ。

 塗装がところどころはげており、今まで座っていたシーツも破れたり中身が飛び出している。試しにボタンを押してみたが、停電したそれは予想通りうんともすんとも言わなかった。


 少しでも運転席から離れたくて、一番後ろの席を目指す。床がところどころ抜けており、うっかり踏み外さないように下を向いて歩けば、途中でカーテンのようなものにぶつかった。バスにカーテン?と疑問に思いながら見上げれば、吊り革を吊るすためのパイプに、黒い糸のようなものが———人間の髪の毛が、束のように吊り下がっていた。


 「—————っ!!!!!」

 声にならない悲鳴をあげて、その場にへたり込む。

 何が起きているかわからない。

 自分自身がどうなるのかもわからない。

 今はただ、このバスが止まってくれる事を祈って、己の膝に顔を埋めた。

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