月の王女

月の王女


みんなの呼ぶ声が聞こえる。まだ、立って戦わないと。

力の入らない手足を踏ん張って、崩れた足場で身を起こした。クロコダイルに引きずり落とされて、一瞬意識を失っていたみたい。早く外にいるサンジさんとトニー君を呼びに行かないといけないのに、どうしても体がふらついた。

海王類すら喰らうバナナワニが、もうすぐ目の前まで迫ってるのに。

「あ……」

その時だった。懐から、ガラスの小瓶が転がり落ちたのは。

「…ルフィたちが一緒なら、お前自身が戦う必要はねえ。だが…あいつらが動けねえ時、単独行動をしなきゃならねえ時…どうしても"力"が欲しいなら、こいつを使え」

後戻りは、できねえが。

そう言って、ローさんが渡してくれた掌におさまるくらいの小さな飴色の瓶。

詳しいことは飲めば分かるって教えてもらえなかったけど、きっとトニー君が戦いで使う薬みたいに力を高めるようなものなんだわ。

「ビビ~~っ!!!」

バナナワニの唸り声の中に、ルフィさんとウソップさんの、必死に私を呼ぶ声が聞こえる。そう、そうよ。

今までずっと助けてもらったんじゃない。見殺しになんてしてたまるもんか。

私の体なんかよりよっぽど大きな顎が開いて、ずらりと並んだ牙が近付いてくる。

大丈夫、まだ間に合う。

「え…?どうしてバナナワニの動きが…」

「ビビー!!お前なんかしたのか!!?」

小瓶の蓋を開けて広がったのは、甘い、匂いだった。

私を呑み込もうとしていたバナナワニが、地鳴りみたいに響く唸り声を引っ込めて後ずさる。

「…あいつ、怯えてやがるのか?」

「この臭い…まさか…」

瓶の中身は、アラバスタの夜空みたいに綺麗な、泡立つ血。

頭から血を流して冷えていた指先に熱が灯る。恐怖はもうなかった。

目を離せなくなりそうなくらいに美しく色を変化させるそれに口を寄せて、一気に飲み干す。なんて、甘くて熱いの。

ああ、そうか私は。


頭のどこか奥に、星が瞬いた。


背中に翼が生えたみたいに体が軽い。全身の血は沸騰したみたいに熱いのに、深くに冷たさをもって敵を見据えている。

太陽に、あるいは月に照らされた砂漠を飛ぶペルはこんな気分なのかもしれないなんて、とりとめもないことまで浮かんでは消えていく。

「…ビビ?」

ナミさんの呟きがワニと水の立てる騒音の中で不思議に届いた。そんなに心配しないで。怖いことはすぐに終わるから。

水に混じった赤が染めていく敷石の上で、熱に浮かされるまま体が踊る。怯えた爬虫類の魂が、主を喪って次々と流れ込んで来るのを感じる。連なる冷たい刃の輪は、始めから身体に備わっていた機能のように私に寄り添って。

声が聞こえるの。流れるこの熱の中に、たくさん。

アラバスタを、この国を救おうと立ち上がった人たち全てを愛し守れと、熱く冷たい歴史の刻まれた血が叫んでる。

「みんな、もう少しだけ我慢してて」

負っていたはずの傷はきれいに癒えて、ちっとも痛くなんてない。

だから早く、みんなを助けないと。

「すぐ——終わるから」

そうして、"私たち"の国を救うのよ。


戦争が終わったその夜。

私は、アルバーナの戦いで亡くなった人たちが集められた一角を訪れていた。

パパ、ううん、お父様の許可を貰って向かった場所は、冷たく静かな空気で満たされている。地下の崩れた葬祭殿だけれど、民の為の安置所は崩落の後もきれいに形を留めていた。

小さく雨音だけが寄り添うそこでひとりひとりの傍らに立ち、祈りを捧げて流れた血を杯に注いでいく。

みんなみんな、アラバスタの為に戦った。

そんな彼らの遺志を継がないままこの国を治めることなんて、してはいけないと感じたから。

アラバスタを愛しその手に剣を取った全ての意志に、感謝と敬意を。

平和を願ったあなたたちの想いと夢は、私がきっと守り抜きます。

最後のひとりに祈りを捧げて、安置所の重たい扉を押し開いた。

外はもう、朝に変わっている。

涙は流れなかった。

砂漠の陽を臨む冷たく熱い血の中に、たしかに流れる遺志を感じていたから。

日差しの照らす場所に、一歩ずつ足を踏み出していく。

遠い太陽だけが、王宮に戻る私を見送っていた。



みんなにお別れを告げてから、また時が経った。

徐々にではあるけれどかつての活気を取り戻しつつある王宮を、今夜は青い満月が見守っている。

肌を刺すような冷たい砂漠の夜はもう、私を拒むことはない。

イガラムには心配されたりもするけれど、旧い血に宿る声を聞いたあの日から、本当に少しも寒くなんてないの。

どうかどうか、みんな安らかに眠っていて。

歴史が幻と呼ぶ者たちも、私の中で確かに声を上げているから。

暗い夜を照らす星々の光を見上げ、夢のような冒険の日々を思い出す。

ローさんの手に渡った血は今頃きっと、静かに示してくれているのでしょう。

あなたの差し出した手が、千年の旅の果てに、冷たい月の血を目覚めさせたのだと。






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