月のような君へ3

月のような君へ3


※前回の続きにして一応完結編

※相変わらずふわふわ知識の産物

※モブがだいぶ自我強め

※謎丸のかほりがする藤丸立香



 正雪の住居から現在のマンションに引っ越してから、早一月。学校からここまでの道のりにも、随分慣れてきた。

 叔母と養子縁組をした私の生活は、あの家にいた頃とは一変していた。


 出かける時にも帰ってきた時にも、必ず叔母は声をかけてくれる。使用人にすら距離を置かれていたかつてとは、比べるべくも無い生活。寒々しいだけの広い家より、かつての部屋一つ分の広さしかないようなマンションの一室の方が、ずっと暖かくて居心地が良かった。


 学校では時々兄とすれ違うが、相変わらず視線も合わないし話もできていない。だが、それを除けば、学校でも随分息がしやすくなったと思う。

 幼馴染の橘乙女は相変わらずだが、クラスメイトからは『前より話しかけやすくなった』とよく言われる。そんなに変わったつもりはないが、常に自分の中で張り詰めていた何かが無くなった事は確かだ。


 世間ではかつて父親だった人の汚職だの賄賂だので大荒れのようだが、叔母曰く『あの愚弟のことはもう他人でいいのよ』とのことで、ニュースで聞く以上の情報は知らない。

 ………私と兄についての情報は、ニュースでは一切取り扱われていないようだということくらいしか、知らない。

 叔母は何か知っているかもしれないが、未成年の私に教えることはないだろうと、何となくわかる。聞くなら相応の覚悟が必要だろう、とも。


 今はただ、与えられた温もりを享受している。それが許されている。

 ………だから、これ以上のわがままは良くないと思った。会いたい人がいても、我慢するべきだろうと。あちらはただの女子高生より、ずっと多忙なのだから。


 すっかり慣れた動作で、エントランスの自動ロックを解除する。エレベーターに乗り込んで、自宅のある階層に到着するまで数十秒。エレベーターから降りて、奥の角部屋のドアを開ける。叔母はフリーランスという奴らしく、仕事も大抵自宅でやっているので、玄関に鍵がかかっている事は稀だ。


 「ただい———ま、帰り、ました……」

 特別大きな声を出したわけではないが、徐々に声が小さくなってしまう。


 ———家に、叔母以外の誰かがいる?

 出かける時も人を家に呼ぶ時も、叔母はいつも事前に連絡をくれた。今日も特に連絡はなかった。

 なのに、叔母が誰かと話しているような声がする。

 玄関に立ったまま、耳をそば立てる。叔母の声は、怒鳴ったり仕事中の平坦さのある声ではなく、どこか弾んでいるようにも聞こえる。

 だが、よくよく聞けば叔母の声しか聞こえない。

 どうすればいいか分からず、混乱のまま玄関に立ちすくむ。


 そうやって私が固まっていると、私の帰宅に気付いたのか、叔母がリビングから顔を出した。———その手には、スマホがあった。

 私を見た叔母は、ニヤリと笑うと人差し指を口の前で立てた後、ちょいちょいと手招きする。静かに来いという事らしい。

 何が何だかわからないが、とりあえず叔母の指示に従い、学校指定のローファーを脱いでリビングに向かう。


 「それじゃあ、代わるわね」

 それだけ電話相手に告げると、叔母はリビングに入ってきた私に、通話中のスマホを差し出してきた。戸惑いのまま受け取り、スピーカーに耳を当てる。


 「———もしもし」

 『———タケル?』

 「イオリ、さん……!」


 驚きのあまり、ひゅっと息を吸い込む。そんな状態で発声した名前は、妙なイントネーションになってしまった。

 恥ずかしい。

 すごく恥ずかしい。

 けれどもそれ以上に、彼の声を聞けたことが嬉しかった。


 『ああ、いや、呼び捨てで構わない』

 「あ、はい。えっと、あの、お久しぶりです」

 『ああ、久しいな。調子はどうだ?姫さんとは上手くやれているか?』

 「はい、叔母上には、この間動物園に連れて行ってもらって———」


 緊張していたはずの呂律は徐々にほどけていって、話すつもりのなかったことまで話してしまう。私の近況報告などつまらないものだろうに、優しく相槌を打ってくれる声に、言葉が止まらない。


 伊織と話ができている。

 ———楽しい。

 伊織が話を聞いてくれている。

 ———嬉しい。


 今までにないほど話をした。これほど喋ったことは、記憶の中では初めてだったかもしれない。

 心臓がトクトクと、いつもより早い鼓動を刻む。なのに胸の裡が暖かくて、心地いい。もっとこの時間が続けばいいと思う。


 『———そうか。楽しそうで良かった』

 「………あの」

 もっと話していたい。できれば、直接会って話したい。

 だが相手は現役の医者だ。医療業界が多忙であるという話は、噂程度だが私も知っていた。そんな人に、私のわがままを言ってもいいものか。


 チラリと、私と伊織の通話を見守っている叔母を見やる。少しでも嫌そうな顔をしているなら、このまま大人しく電話を切ろう。

 そんな私の思いとは裏腹に、叔母はにこやかに私を見ていた。私の視線に何か気付いたのか、満面の笑みでグッドサインを出された。

 何となく背中を押された気分になった私は、そのまま勢いで捲し立てる。


 「あの!———また会って、話がしたいです。なので、連絡先を、教えてくれませんか………?」

 数秒の沈黙だったと思う。私にとっては、永遠のように長い時間だった。全力疾走で家を飛び出した時のように、バクバクと心臓が早鐘を打つ。荒れそうな呼吸を、深呼吸で意図的に落ち着けた。

 『………電話だと、仕事の関係で出られない可能性が高い』

 「———………」

 予想は、していたのだ。一回りも歳が離れた小娘のわがままに、大人の伊織が付き合う必要など一切ないのだから。全身を包んでいた熱が端から覚めていくような心地だった。


 『会って話をするのなら、LINEの方が都合をつけやすい。今から俺のLINE IDを教える。問題ないのなら登録して、メッセージを送ってくれ』

 「はっ、えっ、ら、らいん?うむ、わかった!」

 実は何もわかっていない。驚きすぎて咄嗟に肯定しただけだ。

 ラインは正雪に教えてもらって初めて触れたツールで、本格的に使い出したのは叔母の養子になってから。登録されている人も叔母と乙女くらいで、メッセージを送るくらいしか使い方を知らない。


 でも、伊織が私に会って話してくれる気があるということをじわじわと実感して、また身体が熱くなる。

 急いで鞄からノートと筆記用具を引っ張り出し、伊織の伝える文字の羅列を復唱しながらメモしていく。自分のスマホを引っ張り出すが、どうすればいいかわからずもだもだしていたら、見かねた叔母がやり方を教えてくれた。

 にこやかな叔母の視線がむず痒い。言葉にし難い恥ずかしさを感じながら、伊織にデフォルメされた柴犬のスタンプを送る。すぐに既読となり、ゆるい絵柄の猫か犬かよくわからない可愛い毛玉のスタンプが返ってくる。


 『俺も予定が空けば連絡しよう。…また』

 「ああ…!また会おう!」

 スピーカーから通話終了を示す無機質な音が響く。震える手でゆっくりとスマホを下ろし、スマホの電源を切る。自然と上がる口角を抑えられない。


 「ちゃんと言えたじゃない」

 「うん………」

 どうやら、叔母には私が伊織に会いたがっている事は筒抜けだったようだが。

 とにかく今は、幸せな気持ちで一杯だった。


 ◇


 「それで、今度のバレンタインは伊織にも渡したくて」

 「ならば、ここのチョコクランチはどうかしら?甘すぎず、高価すぎない、ちょうどいいものだと思うのだけれど」

 「む……、そうか、あまり高価な贈り物は好ましくなかったな………」

 「この学校に通っていると、ついつい一般的な金銭感覚を忘れてしまいがちですものね」


 くすくすと笑いながら、真剣に贈り物のチョコを検索するタケルを見る。

 今までは親愛も友愛も慈愛も、恋愛さえごちゃ混ぜになっていて、その境界線を知らなかったはずの人。

 幼い「好き」しかわからなかったはずの人。

 愛されることをよく知らなかった人。


 ———それでもあたしは、そんな彼女に恋をしたのです。

 誰よりも努力する背中が好きです。

 美味しそうにご飯を食べる顔が好きです。

 優しくて不器用な心の有り様が好きです。

 精一杯にあたしへ愛を返そうとしてくれるところが、どうしようもなく好きです。


 不毛な恋であることは、幼い時からわかっていました。

 あたしは傾いた家を建て直すために、大和の家に差し出されるための娘。実質橘家の生贄のようなもの。私がミコト様の妻となることは、生まれる前からほぼ決定事項でした。


 それでも、私の気持ちは縛ったら変えられる程、軽いものではなかったのです。

 色々なことでがんじがらめになっている彼女を、少しでも楽にしてやりたい。

 歯を食いしばって立つ彼女を支えたい。

 血を吐くような思いで家に帰る彼女を助けたい。

 いつだって、彼女の味方でいたかった。


 だからこそ、彼女を救い出した伊織さんには、感謝しているのです。

 ………悔しい気落ちとか、嫉妬とか、そういう感情が無いわけではないけれど。

 あたしじゃあ絶対にできないことだって、それくらいはわかるから。

 あたしは彼女の心の支えにはなれても、現状を打破する手立ては持っていないのです。あたしだって所詮は、一介の学生で、ただの子供でしかないのだから。


 タケルの横顔を見る。

 恋を知った、女の子の顔。

 あたしの知らないところで、恋を知った人。

 あたしの知らない人に、恋した人。

 ———あたしが今でも、燃えるように恋している人。


 あたしはきっと、この恋を胸にずっと生きていく。彼女にも、他の誰にも伝えることなく、人生の終わりまで。

 失恋したって恋は恋。思うだけなら自由なのですから。

 何よりあたしは、それでも良いと思えるほどに、あなたに恋しているのです。


 「……うん、これにしてみる!これなら、男性人気も悪くない!」

 「せっかくですから、今日の放課後、一緒に会に行きましょう?」

 「そうだな、行こう!」


 ようやく大空に自由に羽ばたけるようになったあなたは、いっとう美しくなりました。

 今はただ、その笑顔を見られる幸せを噛み締めているのです。


 ◇


 世の中には、天才と呼ばれる化け物がいる。

 僕の双子の妹は、まさにその天才だった。


 「あっ………」

 「………」


 昼休みのことだった。

 どうしても一人になりたくて、クラスの取り巻きを適当にあしらって、人気の無い裏庭のベンチにぼんやりと座っていると、今は戸籍上はただの親戚となった妹が歩いてきた。すぐ横の自動販売機の影になっているせいで、僕がいる事に気付かずノコノコと近寄ってきてしまったらしい。


 何か言おうとして、何も言えずに押し黙る。暗い顔で俯く様は、あの家にいた頃と何も変わっていない。


 ———家族だからこそ、許せないものだってあるよ。

 ………そうだな、家族だからこそ、許せない事だったんだろう。


 「座ったら?」

 「え……」

 「いい加減、言いたいことがあるなら言ったらどう?」


 驚いた顔のあいつは、少し迷うそぶりを見せて、一人分の間を開けてベンチに座った。二人で一つのベンチの両端に無理やり座っている姿は、側から見ればずいぶん滑稽だろう。

 しばらく沈黙が流れる。なんだよ、という思いより、そうだろうな、という気持ちの方が強かった。こいつは今まで、家族の気持ちを汲み取れたことなんて一度もないのだから。

 ………それができれば、あんな親や僕みたいな兄のことなんて、とっくに見切りをつけていただろうに。


 「お前さ、なんであそこまで頑張っていたわけ?」

 「え……。そうすれば、お父様やお母様に褒めてもらえると思って…。『自慢の娘だ』って、認めてもらいたくて…」

 「はぁ?お前、あんな薄っぺらな家族ごっこがしたかった訳?」

 「う、薄っぺらって…」

 「薄っぺらだろ、ドラマで家族を演じている役者の方が、よっぽどちゃんと家族しているよ」


 驚くあいつの顔を横目に、馬鹿じゃないの、と吐き捨てる。

 あいつは天才で、生まれながらの強者だった。だからこそ、凡才や弱者の気持ちなんて汲めるわけがなかった。

 僕はまごうことなき凡才だ。才能では天才の陰さえ踏めず、努力でも秀才に比肩できない。

 そんな僕があの家で妹に優っていたものなんて、男であるというただ一点のみだった。


 「僕をあいつらが褒めていた理由なんて、男の実子が他にいなかったからだよ。個人の努力とか、才能とか、そんなもんは二の次だった。お前が男だったら、お前の方が出来が良いからお前の方を褒めた。それだけの話だよ」

 「そんな、事は…。だって、お父様もお母様も、いつも兄様を自慢の息子だって……」

 「お前、まだあのクズ共のこと信じてるの?本当に馬鹿だな」


 呆然とした顔の妹に、怒りが込み上げてくる。

 本当に馬鹿だ。

 無償の愛も、献身も、理解者も。

 お前だけは、得られていただろうに。

 ———お前だけは、乙女に愛されていただろうに。


 橘乙女。僕と妹の幼馴染。

 僕がずっと、好きだった人。

 僕ではなくて、妹に恋した人。


 他の何かならまだ耐えられた。

 双子だからこそ、兄が妹に負けることもあると納得できた。

 でも。だからこそ。


 誰より一心に愛されていながら、それをそうとも知らず享受するだけのお前が、何より憎らしかった。

 僕の欲しかった唯一無二を手に入れておいて、何一つ持ち合わせていないような顔をするお前が大嫌いだった。


 妹だけいない食事会で、どこぞの会社のパーティーで。

 僕は何度も乙女と会ったけれど、いつだって彼女の心は妹のところにあった。

 彼女にとって僕は、幼馴染の知人以上の人間ではなかったのだ。


 僕だって振り向いてもらおうと努力はした。

 努力すればするほど、妹との間にある超えられない断絶を感じた。

 僕は妹のようにはなれない。

 妹の隔絶した輝きを愛する彼女には、決して振り向いてもらえない。


 「『家族だからって好きにならなきゃいけない義務はないし、家族だからこそ、許せないものだってあるよ』………か」

 「え?」

 「藤丸さんが言ってたんだよ。………ああいう大人も、いるんだな」


 少し前に言われた言葉を復唱するだけで、不思議と煮えたぎるような怒りも底なしの憎悪も萎んでいく。

 藤丸さんは、俺の大人に対する不信感を少しだけ軽くしてくれた人だ。本人には全くそのつもりはないのだろうけど、あの人が僕の劣等感も憎悪も肯定してくれたからこそ、僕は妹と話をする気になったのだ。


 誰だって、負けて悔しい事はあるとか。

 好きな人に振り向いてもらえなければ悲しいとか。

 良いやつだとわかっているから、余計に嫌いだとか。

 同じやつに、『好き』と『嫌い』を同時に抱いても良い、とか。


 無理に『良い子』にならなくても、僕をちゃんと見てくれる人がいると思うだけで、随分呼吸が楽になった。妹に向き合うだけの余裕ができた。


 「言っておくけど、僕はお前が嫌いだから」

 「は、えっ、何故!?」

 「そういう無神経な所、本当に嫌い」

 「む、無神経だったのか!?」

 「そもそもお前、僕が何を思ってあの親にヘラヘラしてたかなんて、考えた事ないだろ」

 「そっ、それは……!!………、ない、かも……はい………」

 「そんな事だろうと思った」

 「そういう兄様は、私が何を考えていたか分かると言うのか!?」

 「お父様とお母様に認めてほしい、頑張ったら褒めてほしい、また兄様と遊びたい、兄様と昔みたいな仲良し兄弟に戻りたい」

 「ぐふっ……」


 図星を連打されて撃沈した妹を鼻で笑う。こいつは全部顔に出るんだから、分からない方がどうかしている。

 「そ、そこまでわかっていて、私を無視していたのか……!?」

 「顔色だけ伺って、こっちの心情をまるで慮る気がない奴なんて、鬱陶しいに決まっているだろ」

 「うぅ………」

 再び撃沈した。こいつ、昔から口喧嘩では僕に勝ったためしがない事、忘れちゃいないだろうな。


 喧嘩しているなぁ、と思う。一体何年ぶりだろうか。本当に久しぶりだ。

 ………久しぶりに、対等な兄妹に戻れた。

 僕にとって、タケルを嫌う決定的な理由は乙女だけれど。

 きっかけはきっと、対等な兄妹ではいられなくなった事なんだろうなと、ようやく気付いた。

 言ってなんてやらないが。

 僕にだって、兄としてのプライドがある。


 「……それでも」

 「ん?」

 「それでも私は、兄様が好きだ。また仲良くしたいし、一緒に遊びたい」

 「僕はゴメンだね」

 「………兄様は、ずっと私が嫌いだったのか?」

 「………」


 こいつも極端だなと思う。僕も人のことは言えないが。こんなところばかりよく似ていて、全く嫌になる。

 「昔は好きだったよ。でも、十年あれば人は変わる。少しずつ嫌いが増えて、今は嫌いに比重が傾いてる」

 「私は、そんなに嫌な奴になっていたのか…」

 「お前は相変わらず、呆れるほど良い奴だよ。嫌な奴になったのは、僕の方」


 タケルはずっと、幼い頃の正しさと感情を持ったままここまで来た。純粋無垢で清廉潔白なまま、大人になろうとしている。世間の悪意とか理不尽とか、そういうものに触れておきながら、変わらないまま良い奴だった。

 そういうところも腹立たしい。僕だって、正しいまま大人になりたかった。


 「………私は、そういう兄様の優しいところが好きだ」

 「はぁ?」

 「だから兄様とまた仲良くしたいし、遊びたい。昔のような関係に戻ることを、諦めたくない」


 じいっと、揺るぎなく僕を射抜く瞳を見つめ返す。随分と図々しくなったものだ。………顔色を伺ってビクビクしているよりは、ずっとマシだけれど。

 「あっそう」

 随分前に空になっていたペットボトルを、ゴミ箱に捨てて立ち上がる。突き刺さる視線が、いまだに僕を見つめていることを、如実に語っていた。

 「好きにすれば?」

 振り返ってそれだけ言い捨てて、教室に戻るため裏庭を後にする。

 「……頑張る!私、また仲良しに戻れるように、頑張るぞ!」

 裏庭からで出る直前、背後からやたら弾んだ声が追いかけてきた。


 単純なやつだ。でもまぁ、少しぐらいは付き合ってやろう。

 双子といえども、僕の方がお兄ちゃんなんだから。

 僕の意地とタケルの意地、どちらが勝つかの、長い兄妹喧嘩の始まりだ。

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