月と野犬

月と野犬


その人と出会ったおれが最初に受け取った印象は、荒くれ共を相手する海兵にゃ不釣り合いなお育ちの良さと、現大将の養子って立場に必ずついて回るだろう雑多な悪意への鈍感さだった。そう冷静ぶって分析していた負けん気だけ一丁前なクソガキを押し付けられたのも、その悪意の一部だったんだろう。

「じゃ、今日からよろしくな」

人畜無害な笑顔に安堵した様子の同期連中を眺めながら、お守りが必要な類の上官じゃなけりゃいいがとおれは内心、どころかあからさまに渋面をしてヒナに足を踏みつけられた。

蓋を開けてみりゃ、その人―ロシナンテさんはとんでもねえドジだった。不幸中の幸いと言っていいのか世話を焼きたがる部下に不足はなかったが、いつでも派手な音を響かせてはあれこれフォローをされているような男だった。

おれはといえば、支部勤務時代と変わらず事あるごとに命令違反をやらかし同期にも上官にも噛み付いていた。”野犬”の通り名すら、心まで”首輪付き”になるくらいならばと揶揄を無視し続けるうち馴染んだものだ。

そんな、何度目かの謹慎明けの日のことだ。

「スモーカーは良い海兵になるよ」

顔を出した執務室で、あの人は唐突にそんなことを言い出した。性格的に当てつけって線はねえだろうが、安い同情や気休めを受け取ってやるつもりはなかった。

「…何を根拠に」

「はは、そう怒るなよ」

だってお前、正しいって心から納得できたことしか死んでも選べない性質だろ。

舌打ちにいつもの能天気な笑顔で返されたその時のおれは、きっと馬鹿みてェなツラをしていたろう。

無茶苦茶言うなと上官には何度も言われてきた。これで腕っぷしがなかったらとても庇いきれないと、ヒナの奴にはいつだって溜息を吐かれていた。

―一体何がそんなに気に入らないの?

何がそんなに気に食わねえか、今度会ったら教えてやるよ。クソッタレな命令の全部に、おれが噛み付いてきた理由を。

そうだ、おれはただ、正しくありたかっただけだ。海兵を志した時のおれが信じたモンを、たった一人だろうが貫き続けていたかった。それだけのハナシだ。

顔を上げた時にはもう、世間話でもしてたツラであの人は書類を捌いていた。いつも通りどこか愛嬌ってモンが伝わるようなそんな所作に、おれは初めてそれまでとは違う意味を考え始めた。

ついでに今まで受けてきた、本部とは名ばかりみてェなやたらと軽い処分の理由も。

そいつはただのクソガキがいっぱしの海兵になるための一歩、つまり、敬意って奴の始まりだった。


それからおれは、あの人の背中をよくよく観察するようになった。

腕っぷしの強い人間なら本部にゃ溢れるほどいた。それでもおれがここに呼ばれたのは勘の良さ、鼻が効くという一点のためだ。偉大なる航路の片隅で見込まれたそれを、二度も腐らせるつもりはねえ。

そうしていりゃあ気付けることはいくつもあった。

ドジは治らねえと肩を落としながらも、他人を巻き込む類のものはしでかさねえこと。戦闘中にドジることはないこと。任務の直後はタバコの本数が増えること。光には弱えがやたら夜目が効き、血の匂いに酷く敏感であること。

そしてぼんやりした目で、時折人を、特に血を流した連中を追っていること。

視線は人間の質をよく表す。

昼行燈とは思えず追っかけたその中身は、おれが想像していたようなモンじゃなかったのかもしれねえ。そんな発想にまで辿り着いた日にゃ、薄ら寒ィ思いをしたもんだ。

だが同時に、ロシナンテさんは間違いなく正義の側の人間だった。

普段の態度からは想像もできねえくらいに魂と結びついた思想には、センゴク大将譲りの正義の盲目を許さねえ厳しさと、取りこぼされる命への慈悲があった。

そいつを端々から理解できてしまうからこそ、おれもいつの間にか”些細な”ドジをフォローする側に回っちまったわけだが。それすらももう、悪ィとは思えなくなった自分がいた。


その日、珍しくあの人は任務を渋っていた。

どうにかこうにか代わりの人員を見繕おうとして失敗し、灰皿にはタバコの残骸が山と積み上がっていた。おれ達にとっちゃ初めてのシャボンディの見回り任務だ。いつになくピリついた上官の様子に、不安に近いイヤな空気が立ち込めたままで船は水面を進んで行った。

空に浮かぶシャボンと遊園地に人間屋、アンバランスでゾッとしねえ吹き溜まり。

そこでおれが目にしたのは、この世界の”支配”の縮図だった。

ああ道理で、人を守る海兵が揃いも揃って理不尽に慣れきった顔をしやがる訳だ。

このクソッタレ共が野放しにされている限り、あらゆる歪みが消えて無くなることはねェ。

「ヒナ憤慨。…外で問題を起こすなら、自分で責任を取れる立場になってからにしてちょうだい」

奴隷を甚振る連中を見て飛び出しかけたおれを制したのは、その頃既に悪魔を身に宿していたヒナだった。言外に"ロシナンテ少佐にこれ以上迷惑をかけるな"と含みと圧を持ったそれに、何も言えない自分が死ぬほど悔しかったのをよく覚えている。

「奴隷が逃げた?」

「おれが探してきます」

「待て、スモーカー…」

だから艦に待機していたロシナンテさんの制止も聞こえないフリで、報告を聞くなりおれは奴隷が逃げ出したという地区まで走った。衛兵どもの喧噪で、場所はある程度特定できる。おれが第一発見者になれるのなら、そのまま逃がしてやってもいいと今考えりゃ無謀にも程があることを考えていた。

「待て!!」

独りで諸島の端まで逃げ出していた奴隷の前に飛び出したおれは、隠し持っていた銃に迎えられた。

頭に血が上って相手から見た己すら失念していたことに、そこで一気に冷えた頭で思い至る。まだ悪魔の実を食ってすらいなかった頃の自分だ。

間に合わねえ。

「やめろ」

ぴたりと、凍りついたように奴隷の動きが止まる。声の主は落ち着き払った様子で、惚けたそいつのすぐ側へと近付いていった。

怒りも焦りも、もはや奇妙に凪いで遠い。さっきまで見ていた連中の命令がママゴトのように感じられる、魂の芯からの支配。

背に蹄を刻まれていないおれですら、確かにその片鱗を感じ取っていた。

「…………ごめんな」

その言葉で、ボソボソと縋るように声を溢していた奴隷は、安堵の長い息を吐き切り糸が切れたように倒れた。

死んでいる。

「無事か?」

次いで向けられた赤い瞳に、おれは咄嗟に言葉を返すことができなかった。いつも通り、柔らかな声色と細められた瞳。血膿にも構わず奴隷の死体を抱え上げた男が、おれを見下ろしていた。

「やっぱりおれも、母上の子だなあ」

心臓を絞るような苦しい声は常ならぬものだ。そんなことまで理解しているクセに何も言えなかった自分を、おれは今も許せねえ。

たかが生意気なクソガキ一人を救うために全てをふいにする覚悟を見せた一人の海兵は、許せなくてもいいんだ、そう言って報告用電伝虫の受話器を持ち上げていた。

「あんたの"事情"に首突っ込む気はねえ」

ようやくそれを言えたのは、任務明けに訪れた執務室でのことだった。

目を見開いたあの人が、泣きそうな顔で不格好に笑う。

それからおれは、あの人が誰より正しくあろうとする、その理由を暴き出すことを止めた。

このクソッタレな世界で、どうせあんたは今も人に手を差し伸べることを止められねえんだろう。凪の海を渡る船の甲板からは、"奇跡の血"なんてシロモンを礎とした島が見えていた。

SWORD入隊後に知ったあの人の最後の任務に、頂上戦争で見た支配と凪の力、そして中将になり伝えられた血に依る能力の複製。

その全てが、医療と弔いと、忌み者達の街を指差している。

夜の明けねえこの海に、自由と意思とを手放せねえおれ達を呑み込むように。






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