月が昇っても闇は消えず

月が昇っても闇は消えず


頬に触れる。

柔い子供特有の肌をなぞり、陶器にも似た滑らかな白を通ってまろい顎へ。

顎下を撫であげて細い喉を通り過ぎ、なだらかな鎖骨の間を過ぎればぼんやりとした視線が刺さる。

「…なに……」

弱々しい声は寝起きだからか、それともその命の灯火が尽きようとしているからか。

問いかけを無視して胸元で留めた指でとん、と肌を叩く。

薄い肌と骨に護られた心臓が彼を生かそうと力強く脈打っているのがわかる。

そっと小さな手が指を握った。

「…へへ、なんだよ」

くすぐったい、と掠れた声が笑う。

けれど細められた目には諦念が染み付いている。

もうじき白に呑まれていなくなる事を疑えない程に進行した病に抗う事よりも命ある限りの破壊を求めた子供は、その為の力を与えてきた『恩人』になされるがままにその身を委ねていた。

彼が横たわるのは指の主のベッドだ。

薄暗い寝室で行われるそれは彼がまだ生きている事の確認。

頬の柔らかさでそれは生者である事を知り、白の範囲が広がっていないかを確認し、心臓の鼓動を確かめる。

隣で寝転びながらいつものように同じ手順で行われた確認作業に寝起きの頭が睡眠を求めて瞼を落とそうとする。

「ロー」

うとうととし始めた彼の耳に心地よい低音が響く。

返事をしようとした声は細い首に巻き付いた糸に遮られた。

「ロー」

響く声に身体が震えた。

「俺をおいてどこへ行くんだ?」

開いた口に潜り込んだ糸が舌に絡みつく。

無理矢理開いた目に映るのは彼と同じ色の髪をした、彼と真逆の色の目をした男。

指先で触れられていた胸元を掌で覆われる。

「俺の『心臓』が、俺から離れてどこに行けるって言うんだ?」

小さな体は男の巨躯にすっぽりと覆われ、窓から降る月の光が遮られる。

落ちる影で男の表情は見えない筈なのに、男に手を伸ばした彼は確かにそう言ったのだ。

――どうしてあんたが泣いているんだ、ドフラミンゴ。

糸でうまく動かない舌で、封じられた喉で、確かに。


「……チッ」

ドフラミンゴは眼下の光景に舌打ちを零した。

海賊たちが騒いでいる。

それだけならば彼が気に掛けることも無い。

だがそこにいるのは自らの右腕として育て、ハートの席に座るべき男。

頂上戦争で見てから二年、トレードマークの帽子とどこで手に入れたのか知らないが大太刀を携えたトラファルガー・ローの姿があったのだから気にするなという方が無理というものだ。

ロシナンテにつれられてファミリーを抜け、そこから二年前まで会う事の無かった三代目コラソンとなる筈だった子供がそこにいる。

自分の隣にいる筈の存在が、他の誰かの隣にいる。

麦わらのルフィが馴れ馴れしくローに近づき、それを咎めながらも許している事が腹立たしい。

糸を飛ばしたのは無意識だ。

外れた首輪をつけ直す様にその首へと忍び寄った糸は、直前でルフィの手が掴みとり焼き切られた。

だがルフィにその自覚はないのだろう。

掌に掴んだ筈の何かが消えたように感じているのか首を傾げている。

そしてドフラミンゴにとってそれは驚くべき事だった。

無意識であったとしても彼が放つ糸は強靭な耐久力を持つ。

決して掴んで千切られるようなものではないし、掴んだだけで焼き切れるなどあり得ない。

サングラスの奥で鋭い目がルフィを見下ろす。

「麦わらのルフィ…」

何かを言い合い、呆れたように溜息をついたローがその肩に頭を預けるのを見てドフラミンゴの中で何かが蠢く。

それは自分のものだ。

自分が育て、傍に置くために磨いていた右腕だ。

ドフラミンゴの『心臓』が他人に懐くなど、許される筈がない。

衝動のままに放った糸は先程のものより強靭なもの。

だがそれも何気なく伸ばされたルフィの手によって千切られる。

覇気を纏った手に掴まれた糸は呆気なく地面に落とされて終わる。

ローを起こしていないかと伺うルフィの視線は確かに彼に向けられているのに、そこからドフラミンゴへ何かが視線を向けている。

格下である筈の男から向けられた何かにドフラミンゴは悪寒を感じとり、しかし一瞬で消えたそれに警戒すべき男であると認識する。

「フッフ、流石にローが気を許すだけある」

喜色に見える表情とは裏腹にその声は冷たく固い。

雲に掛けていた糸を引き帰路に着くドフラミンゴの胸中はよくわからない感情でぐちゃぐちゃだ。

けれど決めた事がある。

ファミリーにいた頃ヴェルゴに戦闘訓練と共に頼んでいた躾は間違いなく効果があった。

それは最初に飛ばした糸に対する反応で読み取れた。

ヴェルゴへは恐怖を、それを甘やかし手当てをするドフラミンゴには照れと敬愛と安堵があった。

将来の右腕に信頼を向けられるようにと仕向けた飴と鞭は形を変えてまだ彼の中に残っている。

だがそれでは足りなかった。

だから今度はドフラミンゴ自身が躾を施す。

死に際まで痛めつけ、それを優しく甘やかす。

大人になったのだ、飴は甘いだけでは足りないだろう。

自分から与えられる全てに依存するようになればいい。

ロシナンテにも、ロジャーにも、ルフィにも、誰にだって渡さない。

トラファルガー・ローはドフラミンゴの心臓だ。

「お前の自由も、意志とやらも全て俺のものだ」

そう呟いた言葉に含まれた感情が何かなど、ドフラミンゴ本人にも理解出来なかった。

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