とある世界線での最良のパートナー

とある世界線での最良のパートナー



「なあ凛、本当に大丈夫か?」


 誰もが避けてきたその話題に、とうとう口火を切ったのは、あの絵心でさえ「最良のパートナー」と言わしめた潔世一だった。

 今日一日で幾百本もの美しい放物線をゴールに向けて描いてきた青年、糸師凛は、チラリとそのターコイズブルーで一瞥した後、またゴールへと一人向き直る。

 尋常じゃない汗に息も酷く乱れている姿。どう見てもオーバーワークだった。

 にも関わらず、水分すら碌に摂らずにぶっ通しでシュート練習に打ち込む姿は、いっそ狂気すら感じさせる。


 潔世一は、いやブルーロックス、そして世界中のたくさんの人々はそのわけを知っていた。本人からはなんの言及も無いが、明らかに某出版社が投下した文春砲によるものだろう。

 本当か嘘か、それはかの兄弟が隠していた凄惨な過去を白日の元に晒したのだった。ほえほえと気の抜ける笑みを浮かべる兄とツンとした氷を思わせるクールな弟の知られざる裏側は、世間から猛烈に叩かれ、同情を浴び、玩具にされている。それがどれだけ彼らを蝕むのか、外野からは想像すらできない。

 そして潔は知っていた。何らかのトラウマがフラッシュバックして崩れ落ちる凛に、彼に刻まれた古傷の跡。時折真っ黒な目で遠くを見遣っていたことも、U-20代表戦で何度も兄を視界に入れた途端俯いて拳を握り締めていたことも。

 殆どが本当のことなのだろう、とアタリをつけて潔は呼びかけ続けた。このままでは過重トレーニングで凛が潰れてしまう。


「なあ凛、流石にそろそろ練習終わろうぜ…?お前の身体が持たねえよ」


 反応はない。激しい運動を繰り返しているのに青白い頬からさらに血色が奪われただけだ。


「おい凛!!こっち向けっての!!」


 痺れを切らし肩を掴んで無理やりこちらに向ける。凛は踏ん張りがきかず足を縺れさせた。抵抗の意思はあるが疲労の極致で肉体が動かない、といったところか。


「うるせえよ…お前に何が分かる…、俺から兄ちゃんを奪ったくせに!!」


「……は?」


 初耳である。U-20代表戦後、冴が普段よりトーンを下げ、あたかも凛が発したかのように残した言葉。それは凛を多大なる誤解へと導き殺意を尖らせる結果となったが、残念ながら潔がそれを知ることはなかった。

 突如として謂れのないことで怒鳴られ目を丸くする潔だが、そんなことでへこたれるような精神性は持ち合わせていない。最良のパートナーの名は伊達じゃないのである。


「冴がどうとかは俺は知らないけど…でもこのやり方じゃダメだってことは凛ならわかってるだろ!」


「俺は早く強くならなきゃなんねえんだ…お前は黙ってろ」


「いやオーバーワークはやめろって前にも言ったよな!?お前の足が壊れちゃ本末転倒だろ!?」


 繰り返される言葉の応酬。広大なトレーニングルームにぽつんと立っている二人の言い合いに終止符を打ったのは、体力の限界を迎え座り込んでしまった凛だった。

 浅い呼吸と止まらない脂汗。潔はちくちくと肌を刺す人工芝に同じく足を投げ出し、凛の背中をさする。いつになく弱った監獄のエースと目線を合わせ、心配そうに顔を覗き込んだ。


 凛の眼は、こちらを見ていなかった。


 翡翠を濁らせ黒くなった虹彩。焦点の合わない瞳孔。生理的なものか感情由来のものか、薄く涙が滲んでいる。凛がたまにする眼。


「黙れよ潔…、俺のせいで兄ちゃんは汚されて、ぐちゃぐちゃにされたんだ」

「おかしくなった兄ちゃんを、どうにもできなかったんだ」

「挙げ句兄ちゃんが心を動かしたのはお前だ、潔」


「もう兄ちゃんを、苦しませたくねえんだよ」



 ピリリと、冷たい空気が頬を撫でる。それが空調の不具合でないことを、潔は知っていた。

 ハリネズミのように毛を逆立て、周りを寄せ付けず孤高を保っていたトップが絞り出した独白は、潔の言葉を失わせるには十分過ぎるほどの劇物だったのだ。

 そして理解する。あの文春砲が事実だったということ。目の前の後輩と尊敬するMFは、その虐待にずっと耐えてきたのだということを。

 まさしく、住む世界が違った。

 それでも潔は重い口を開く。凛の心に深くまで巣食った負の連鎖を断ち切るように。


「俺は、お前がどれだけ苦しい思いをしたのか、理解することはできない」

「だから、思ったことをありのまま言うよ」


 結局凛の心を変えられるのは凛だけだ。周りがどうにかできるものじゃない。


「なあ凛、お前は冴の認識をぶっ壊したいんだろ。何もかもをぐちゃぐちゃにする破壊者、それが糸師凛のはずだ」

「俺はそんなエゴイストを喰って強くなる」


 相互で喰い合う歪で健全なライバル関係。進化を重ね、立ち止まることなく走り続ける。

 それが、好敵手として認め合った二人のあるべき姿なのだ。


「お前を、信じてるからな」


 本来のエゴを再び呼び起こすことができた凛ならば、きっとまた立ち上がるだろう。焦燥に暮れて自滅するほど愚かな男ではない。気づいているはずだ、このままではいけないのだと。そして更なる覚醒のピースを掴み取るのだろう。

 潔世一は信じている。糸師凛が、また糸師冴に手を伸ばすことを。いつかその手を届かせ、冴の腕を引いて世界一へと駆け抜けることを。

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