暁光に微睡む兎
初夏の昼下がり、妻の部屋を訪れると床に伏した妻の手元には手紙の束があった。枕に近い畳には小さな木箱があり、そちらは蓋が開いている。
旦那様、と音がした方に首を向けて律儀に呼ぶ妻に苦笑して静かに戸を閉める。変えたばかりの真白い障子紙のおかげで部屋は明るいが、妻にそれが解るかどうかは伊織には判じかねた。
「ああ。……調子はどうだ、正雪」
床に伏している正雪の瞼は軽く閉じられている。開いてみても、その目が伊織を、どころかこの世の何を見ることはない。
「大事ない。昼の時分に手紙と荷物が届いたところだから、中身を改めていた。……寝ているままで行儀が悪いところを見られたのは、少し恥ずかしいな」
胸元に置いた紙を抑える手は真白い包帯でぎっちりと巻かれている。怪我の類ではなく、対外的には彼女は皮膚の病であると伝えてあった。
解いてしまえば、その言の通り罅のいった肌が現れる。それを見せてこれを伝染してしまったら事だからと云って、正雪は人を遠ざけ、彼女に会いに来た人間で常々賑わっていた部屋が今は水を打ったように静かになってしまった。
しかしそれを病でないと、正雪自身も、また伊織も、よく理解していた。
目だけではない。肌だけでもない。見た目にそうと現れないだけで彼女の身体は外も内も限界に差しかかっている。
元よりヒトではなかったのだから、こうなるのも道理なのだろう――。
伊織の口癖を真似た妻の言葉に何一つ云い返せなかった夜のことを、伊織は今も鮮明に覚えている。
「荷物の紐も完璧に解けている……。器用なものだな。これは?」
「白雲木の枝だ。いい匂いがする」
藤色の紐でくくってひとまとめにされて、小さな白い花が無数についた枝が正雪の枕元に置いてあった。今朝取ってきたのだそうだ、と嬉しげに告げられた名前は次男だった。そういえば昔から細かいことによく気の付く性質であったなと伊織は息子の顔を思い出す。
「こっちの手紙には香が焚きしめられていて、またいい匂いがする。あの子が自分で練り合わせたのか、少し知らない匂いで興味深いな」
ずいぶん前に嫁に出した長女の名を出し、妻は嬉しそうに頬を緩めた。
「目が見えなくなっても鼻はまだ利くと教えたら、すぐに届いたんだ。私達のこどもは、皆優しいな」
「む。……その物云い、おまえは自分で文を書いたのか?」
「旦那様、私を侮らないで頂こうか。私は、自分がどこにいるのかちゃんと理解している。この屋敷を頭の中に描き、家具をひとつずつ置き、私をそこに置く。足さえ動けば、この屋敷の中をひとりで歩き回ってみせる自信があるぞ。文なぞまだ書ける」
「流石だな。だが文くらい俺を呼べ。代筆なぞすぐにしてやる」
「いや、遠慮する。娘たちが嫌だと云うだろうし」
「な……。そんなに嫌われていたか、俺は」
「ん、女同士の積もる話に嘴を突っ込んだら、そうも云われるかもしれないな?」
少し身を起こしたいと笑いながら妻が云うので、腕を伸ばして背中を支える。布団に己も座り、胸板に彼女の背を預けさせて座椅子代わりになると、正雪はふふっと吐息で笑った。
「なんと豪華な座椅子だろう」
「おまえにだけだ。堪能してほしい」
云いながらかさりと滑り落ちた紙を拾い、彼女の膝に乗せてやる。手紙からふわりと香る匂いは、確かに伊織にはまるで馴染みがないものだった。
「代読は必要か?」
「まさにそれをお願いしようとしていた。でも、少し後でいい。今は……少しでいいからこうしていたいな」
伊織の背に頭を預けた正雪が力を抜く。それでもかかる重みは見目に反してぞっとするほど軽い。
見た目ばかりは食べ頃でも拾えば軽い、中身のない木の実のようだ。
稼働限界なる奇妙な言葉で正雪は自分の状態を評した。伊織には耳馴染みのないその言葉を聞くのが好きでは無かったが、今回ばかりは静かに耳を傾けながら彼女と己との違いについて考えていた。
肉で出来た絡繰が何だ。人の身とて捌いてみれば骨と肉、胕(はらわた)などと幾多の部品から出来ているのに、眼前の彼女と一体なんの違いがあろう。
「伊織」
体を支えている伊織の腕を愛おしげに撫ぜる手に、はたして感触はあるのか。体の状態を読ませぬ笑みで、女は夫を呼ぶ。
「そんなに辛そうな顔をしないでほしい。その顔をさせている身で云うのも申し訳ないが」
「……解るのか、俺の顔が」
「直截は見えなくても、幾らでも伝わるものだ。昔は解らなかったものも、今は良く視える。魔術など使わずとも……ずっと見てきた貴方であるなら手に取るように解ることもある」
時間をかけて伊織の頬に伸ばされた彼女の指先は少し冷たい。温めてやろうと柔らかく握ればそれよりずっと弱い力が返された。
「……私は幸せだ。あなたのような人に連れ添うことができた。こんな幸福が陽射しの如く己に降る日があるのだと、生まれた時には想像もしなかった事だ……ありがとう」
優しい微笑みで、正雪は感謝を告げる。
「伴天連の教えでは、死んだ人間は天国と云う場所へ行くのだそうだ。仏の教えでは、はてどうだったかな」
「閻魔の裁判を経て、地獄か極楽のどちらかに向かうと聞いている。――おまえなら極楽に行くだろう。俺が保証しよう」
「だと良いな。私を造ったひとは伴天連の人であったが、私は帰依しなかった。逝くならば、あなたと同じところがいい。……しかし許されるだろうか……。造られたモノが行く地獄があるなら当然そこに行くとは思うのだが」
正雪の顔が動き、瞼に覆われた眼がにらりとそこに在る机を見る。今は整頓されて何も置かれてはいないが、彼女はかつてそこに積み上げられていた本を懐かしむ素振りだった。
「本当は、私があなたを見送りたかった。……私は今でこそこうして伊織と話しているが、いつ五感の全てを失うかわからない。きっとあなたはそれでも私を生かそうとするだろうな……。では、今が丁度良い機会か。一つ頼みがある」
「なんだ」
「私の身体の如何は任せる。どう扱おうと私は気にしない。もし、眠ったまま目覚めなくても気を病まないで欲しい。私は何をしてもそこから目覚めることはないだろう。起きない女のことをいつまでも気にする必要はない」
妻の残酷な言葉を伊織はじっと聞いていた。後どれだけの言葉を彼女から聞くことができるのか、彼女に聞かねば皆目解らぬ己の無知が疎ましい。
「ただ……もし、そう、もしも。何かの間違いで私がまだ呼吸をして、この世に残っていたとして。であるのに伊織が先に死ぬようなことがあれば――その時は、誰かに私の息の根を速やかに止めるよう云い置いてくれ。私は、わたしは。許されるのであれば……そのまま黄泉路を辿るあなたを追いかけたい。近い時間に死すれば、少しは迷わずにあなたを追って行けるだろうから」
「……迷う、か」
「すまない。死んだ後も逢いたいなど、迷惑だったかな」
「真逆、そんな事があるわけが無いだろう。……考えたこともなかっただけだ。俺も逢いたい。おまえに逢いたいよ、正雪」
腕の中のぬくもりは未だ冷えない。だが、いつかこの身体が冷たく動かなくなる日が来ると伊織は常のように理解していた。
理解だけをしていた。
「どうしても先にゆくか、正雪」
「……そうだな。私は先に逝く他ないようだ。最後まで添えぬ不甲斐ない妻ですまない」
「謝らずとも良い。仕方ないことだ。俺こそすま、」
そこまで、と聡い妻の指が伊織の唇に触れる。
包帯のない爪先に歯を立てた。かしりと爪と歯が鳴り合わせる音がひどく遠い気がする。気性の荒い男ならばこの優しい指先を苛立ちのあまり噛みちぎってしまうのやもしれぬ、そうどことも知れない頭の片隅で益体もなく考え、ふと思い至る。
「……では、俺と約束をしないか」
「うん?」
「俺が正雪の後に死したならば、その時は俺がおまえを追いかけよう。逆の立場ならそのつもりでいたのだろう?」
「……いかにも名案と云う雰囲気があなたの全身から伝わるのだが……あの、私の話を聞いていたか?私はホムンクルスだから死後の世界があったとして同じ所に行くかどうかは」
「だから追いかける。何、地獄は兎も角極楽はまあ直ぐには行けぬだろうがどうにかなるだろう。伴天連の方にも地獄があると云うなら案外地続きやも知れん。……見たことも知ることもなかった場所なら物見遊山で向かうとしよう。再会した時の良い話の種になる」
「うん……うん? え、えぇ……いいの、かな?」
「己が妻に逢いに行くのに良いも悪いもない。待っているといい、俺は必ずそこに行くと誓おう」
ぽかん、と暫く惚けた表情をしていた正雪は、やがてくすくすと笑いだした。伊織の胸に身を預けたまま珍しく声を立てしばらくの間笑っていた妻が、不意に顔を上げると瞼を震わせる。
昔日、舶来の玻璃のように美しく澄んでいた蒼玉は今ではぼやりと濁っていた。
焦点を結ばないはずの瞳が、しかし今は真っ直ぐに伊織を捉えていた。伊織はそれに己の外見ではなくその内側の精神、或いは魂を観られているような心地がしたが構わなかった。この言の葉に嘘偽りは微塵もない。
「――――嬉しい」
空から落ちる雪華の一片が如く正雪はささめいて、雪解けたように目から音もなく一粒の涙を零した。
「ああ、その言葉だけで私は大丈夫だ。例え我が身が無明の闇に落ちるとも、そこを果てなき暗闇とは思うまい。この――」
覚束無い手つきで伊織の手を取った正雪は自分の胸へと夫の手を導いた。
「胸の中に光がある。この光がある限り私はいつ何処であれど俯くことはない。眩むほど輝きはしないが、だからこそ私はいつでも穏やかな光を省みることができる。中天に登る、望月のように。あなたが言の葉に乗せてくれた音を忘れても、この光景さえ描けなくなっても……きっと、我が魂は忘れることなく覚えていよう」
花が綻ぶように正雪は微笑み、その細すぎる体躯を伊織は五体で包むように抱きしめた。
「――宮本伊織殿。あなたをお慕い申しています。この魂が燃え尽き果てるその時まで、ずっと」
もしまた、この世ではない何処かで会えたのなら、と伊織の耳元で正雪は小さく口を動かした。
「その時は、伊織。あなたを抱きしめたい。今の私にはもう、あなたの背中は広すぎる……」
ふ、と正雪が零した吐息に隠しきれない疲れが滲んでいるのを見て取って、伊織は慌ててそれまで大事に抱えていた妻を布団へと寝かせた。それまで掴んでいた彼女の薄い手のひらも布団の中へと入れてやる。
「多く喋って疲れただろう。今日はもうこのまま寝るといい」
「……しかし」
「では、暫しの間ここにいよう。思えば代読もまだだったからな。聞く間に寝てしまってもいいぞ」
手紙の一枚を手に取った。かさりと音を立てて開くと、見覚えのある字が並ぶ。娘の字だと思って暫く目視で読み進めれば、内容が見えてきた。
「……これは、恋文の……相談……か?」
「先に釘を刺しておこう。父としての意見は却下とするからそのつもりで。……さて、読んでしまったからにはこの際だ、あなたの場合はどうするのか問おうか。うん、私としても大変興味がある」
「いやそれは……勘弁してくれ……」
空いた片手で額を抑えた伊織の懊悩を読み取ったのか、妻は穏やかに笑っていた。