【晴晋】移り香
「おっ丁度いいとこに。これから飲むつもりでね。ついでだし君も来るか?」
夕食からの帰り、振り分けられた部屋へ戻る最中のことだ。食堂からくすねただろう肴の皿を片手に、酒瓶の詰まった袋を騒がしく鳴らしながら晋作はそんなことを言ってきた。
一も二もなく首肯したのははぼ無意識だった。そんな俺の何が面白いのか、にたりと趣味の悪い笑みを浮かべた晋作は、なら君んとこの酒も飲ませてくれよ、とこちらの胸を叩いて鼻歌混じりに廊下の角へ消えていく。何だったんだと思う間もなく配布された端末から通知音が鳴り、ストーム・ボーダー内の地図が一点を示し始めた。
その部屋は、ボーダーでは数少ない畳張りの部屋だった。
「先にやってるぞー」
指定された部屋に踏み入れた途端、ほのかな煙たさが鼻孔をくすぐった。和室にただひとつ置かれた灰皿にコンと灰を落として、晋作はほら、とこちらに杯を渡してきた。和机の上の彼の杯にも水気はない。暇つぶしの煙管は呑んでも酒は入れないのは彼なりの気遣いなのだろう。
珍しい場ではある。割り切って二人で飲む時はそれぞれの自室のことが多いのだが、晋作曰く、雑に寝落ちしたいならやっぱ畳だよなとのこと。腰を下ろした時の気楽さを考えれば理解できないこともない。
互いの杯にみずから持ち込んだ酒を入れてやる。当世の甲斐で作られる蒸留酒は俺が生きた時代のものではないが、晋作が飲ませろと言ったのはそれだろうと目星をつけたのは当たりだった。注がれた琥珀色の酒精を目に、紅に染まる瞳をぎらりと煌めかせて、彼は機嫌よく杯を重ねてきた。
「それにしても」
「んー?」
「お前、香を変えたか?」
そこそこに酒精も回ったところで本題に入ると、晋作はまあね、と手元で空の杯を揺らし始めた。横並びの位置取りはそのままに、それなりに酔いが回ったのか、彼は既に西洋かぶれの赤染めは脱ぎ捨てていた。残念だと思う一方で、そのくらいの信頼は持たれていることにほのかな嬉しさはある。
だからこそ、その変化が気になったのだ。
「君もやるだろ?時節に合わせ、場に合わせ、人に合わせ、気分に合わせる。ま、嗜みだよ嗜み」
「ああ。日頃からお前のこの手の趣味の好さは疑いようがない。
が、それでもひとつ筋は通った選びだっただろう。……この香は、その筋とはいささか外れている」
「うわ、きみ、いつも引くくらいに僕のこと見てんだな。ちょっと怖いぞ」
「お前に贈られたそれをお前が大切に纏うなら、俺はどうしたらいい」
「めんどくさいなこの酔っ払い!わかったわかった、ほら!」
拗ね混じりに晋作の肩にぐりぐり額を押し当ててやる。と、すぐに彼は懐から小瓶を取り出した。俺の目の前で二、三回揺らし己の首後ろの中空に噴きかけ、そのままか細い指を当てている。その指もすぐさま俺の鼻元へと移された。
骨ばった晋作の指には、今し方振りかけた香が濃厚に移っていた。入りの鮮烈な華やかさの割にその鋭さは長く引かず、代わりとばかりにどしりと重みのある麝香が存在感を主張する。趣味のいい、率直に好ましい香りだった。
「これは自作!自作だっての!……こないだアイツらと飲んだときにさ、絡みに来ただろ、謙信公。で、『晴信、香の趣味変わりました?』ってやつ、あれ僕はぜんっぜんわからなかった。わからなかったってことは、つまり、つまりは、だ。
あ~~!!!思ってたよりクッソ恥ずかしいなコレ!」
こちらに一度たりとも視線はよこさないまま、晋作の指は鼻元を越えて俺の頬の上を踊っている。それでも覚悟が決まったのか、こちらに背を向けたまま、彼はぶちぶちと白状し始めた。
「コレな、君んとこの名産、水菓子と蒸留酒のモチーフ。どうせ移すんならせめて君に馴染み深い香りにしてやりたいって思ったんだよ。
……この高杉晋作にここまでやらせたんだ、何か言うことあるんじゃないか?」
半ば拗ねの入ったジト目が肩越しに向けられる。それを見た途端に、我ながら馬鹿みたいに我慢が効かなくなった。
直接香を纏っただろう赤髪を捕まえて吸い込む。肺いっぱいに含んでもまだ飽きがこない。もっとと急かす気持ちに逆らわず、腰ごと晋作を引き寄せた。
「ちょ……!こらおい!ここまでしろとは言ってないぞ!」
腹を押さえ込む腕をいくら叩かれても、そんなものは児戯ですらない。晋作の首筋に鼻をうずめて、空いた腕で片手を押さえ込む。指を絡め取ってすぐに、びくりと彼の肩が揺れた。
鼻で息をする度に、抱き寄せた体も自分でさえも熱がどんどん高まっていく。その高まりに合わせて、香りの方向性がまた変わる。甘いが甘いだけではなく、かといって突き放すような苦さがあるわけでもない。後を引くようで、手放しだけは潔く、だからこそ手放すことを躊躇させる。まるでこの男の気性そのものだ。俺が好むと思ってこの香りを作り上げるあたり、勘がいいのか自覚がないだけなのか。
「ああ、いいな。ずっとこうしていたくなる」
「そりゃどうも!ふっ、……ちょ、おい、息くすぐった……は、晴信!」
絡めた指がどんどん汗ばんでいく。その汗が晋作のものなのか俺のものなのかはとうにわからない。ただ、無為に肌を重ねるよりは、よっぽど充足感は感じられた。
気が済むまで香りを堪能した頃には、晋作はくったり力を抜いて寄りかかったまま、ろくな抵抗もせずはふはふ息を弾ませているだけだった。目に入るところすべて、耳も首元もはだけた背中もどこもかしこも赤く色づいていて、どうにも目に毒だ。やりすぎたかと思う反面、そもそもこの場に呼び出したのはこの男だと思い出す。どこまでが想定内で、どこからが想定外だったのか、それを判ずることができるのは彼ひとりだけだ。
「も、もう……気が済んだ、かよ」
恨みがましさいっぱいの声が腕の中から聞こえてくる。自分でやらかしておいて、省みることのないこのふてぶてしさこそが晋作の魅力のひとつだ。ひとまず再度抱きしめてやって、この部屋の刻限を聞き出すことにした。