春は栄光の始まり

春は栄光の始まり



爽風に乗る沈丁花の香をはっきりと聞いた時から、アップトゥデイトは王者になった。

息を整え、一歩、また一歩と芝を踏み締めるたびに近付く大歓声。掲示板に釘付けになる人々のざわめき。つられてアップが目線を向ける。勝ちタイムの真上に堂々と点灯する、赤い『レコード』の文字。

それが意味することを理解した瞬間、喜びが身体中に溢れて。


「や、やった……。やったあーー!」


長い、それは長い道のり。

メイクデビューから初めてのG1、条件戦で燻り続けた臆病な日々、気持ち一新にと障害へと踏み入れ、そして今日。JG1覇者を見事に捩じ伏せ、ついに頂へと至ったのだ。

「アップ、おいアップ! よくやった! よくやったなあ!!」

「林さん……! はい、僕やりました!」

その長い道のりだったのはアップだけじゃない。ターフに入りアップに駆け寄る彼も。アップを指導し続けてきたトレーナーもそうだった。

何度勝利が、栄光が。目の前でこの手からこぼれ落ちていったことだろう。歯噛みし下を見て堪えたことだろう。

けれどそんな日々も悪くなかった、必要なことだったのだとやっと思えるようになったのだ。アップは目の前に広がる大障害コースを見据える。


怖くて仕方がない赤レンガ、大竹柵を。勇気を出して飛び越えて。

ダートか芝かと迷走していた日々を。正しく交互に横切って。

長い長い迷路のようなバ生を。日本一難関なコースで抜け出した。


達成感と安心と。それともう一つ。

「林さん、僕……」

アップは自身のトレーナーと向き合う。

「僕、勝ちたいです。……冬の、大障害を」


一つ手に入れればまた一つ欲が出る。

まだこの景色を見ていたい。自分を祝福する笑顔に囲まれて、おめでとうをシャワーのように浴びて。

きっとまたそこに至るまでの道は今まで以上に厳しいものだろう。何度も挫け、何度も葛藤するだろう。

だが、大きな成功を得たアップにはわかる。自分はそれを夢見てもいいのだと。

大障害で勝つ。JG1制定後誰も成し得なかった同年春秋制覇の偉業。年度最優秀障害バの誉を。

アップは目を閉じ胸に手を当ててみる。

心臓がまだ叫んでいるように拍動して。いや、これは秋の待ち遠しさからくるものか。

肩にかけた優勝レイが風に揺れ、マントのようにたなびく。

再び目を開けて。大障害コースに誓った。再びここに戻ってくると。


そして名実ともに、障害王者へ、と。



***



最終コーナーを曲がり、直線で先頭を捉え勝利を確信した時。オジュウチョウサンは王者になった。

のめり込むように最終障害を飛越、1番人気を一気に抜きさりゴール板を駆け抜けて、思わずオジュウは口角を上げる。

この4250mを走り切った後でもまだ体に余力は残っているようで、すぐに五感は正常に戻った。一気に視界も聴覚もクリアになり、抜けた空は曇のくせにやけに高く見えて。

掲示板を見ずともわかる自らの偉業にオジュウは拳を強く握る。そのまま腕を高く上げるとスタンドから歓声が轟いた。

新王者の誕生、新たなる障害のエースの出現。祝うそれを噛み締めながらオジュウはウィナーズサークルへと踏み入れる。


「オジュウ、おめでとう!よくやった!」

真っ先に駆け寄ってきたのはトレーナーで、次に職員たちが優勝レイをかけてくる。首に回すよりは片方にかける方が性に合うので付け替えると「お前らしいな」とトレーナーが苦笑い。

「4000mを走り切った後とは思えない余裕さだ、もう一回走ってくるか?」

「あんまり調子乗ると噛むぞ」

「冗談って、ちょ、コラ!」


茶番を交えつつも撮影した口取り。そしてつつがなく終わった表彰式後にオジュウはレースコースを振り返る。


それは夢破れてから始まった。

平地でまともに走ることができずタイムリミットがいつのまにか来て障害競走へ。

一時期身を置いたクラブではある人は「センスがいい」、ある人は「おかしなやつ」だの意見が分かれ。身体はデカくなる一方精神は幼いまんま、頭だけは誰に似たのか良かったからとりあえず基礎は理解して。

トレセンに戻った後もすったもんだがあり、今のチームとトレーナーの所に落ち着いた。

色々あった。ありすぎた。さっきまでオジュウが走って飛び越えた障害のように。

だが、そんな日々も悪くなかったのかもしれない。こうして一着を取れたなら。この路線の頂点へと辿り着けたなら。

そして、追いつきたいあの背中に近づけたのなら。


「シン。勝つぞ──大障害」

決意のこもった声がターフに吹く風に流れていく。

「……そうだね。今日はいなかったからね」

その名を出さなくても分かる名にオジュウは何も言わない。

前年のJG1春秋覇者、そして年度最優秀障害バ。

去年の大障害で焦がれたその背中を、オジュウはまだ追い越していない。

「……長沼のオヤジに脚みてもらってくる」

オジュウはターフに背を向け歩き出す。

身体に飛越による傷は殆どなく、脚の痛みもない。傍目から見ても歩様も特に問題なしと判断されそうだが、一応念には念を入れたいところ。

……という理由もあるが。

「"絶対王者"、ねえ」

それは、アップトゥデイトのとある記事にあった四文字の言葉。

『絶対王者の座を守り抜きたい』

現体制以降の春と秋、同年のJG1を制したのはアップトゥデイトのみ。加えて片方はレコードのおまけ付き。なるほど、アップトゥデイトにとっての絶対とはそういうことらしい。

となれば。


「俺が"絶対王者"になれば、」

──あいつはどんな顔をするだろうか。


そんな事を考えている顔なんて、誰にも見せたくなかったから。歪む口元を隠すように手で押さえ、くくっと一人で嗤う。

大障害でアップトゥデイトを倒す。そして、"絶対"を見せつけてやる。名実ともに、障害王者に。

そして2人目の春秋制覇は。だって、たったふたりだけしかいないから。それはつまり。


「おそろいってことだよなァ」





***


「この季節になるとね、たまに夢で見るんです」


中山レース場内バ場名物、赤レンガと大竹柵。

まだ開門して間もない時間、その迫力を前にして呟くアップにオジュウは耳を傾ける。

「スタンド前に戻ってきた時の歓声とか、林さんの喜んだ顔とか。優勝レイを首にかけた時の肌触り、遠い花の香りまで。何もかもが鮮やかすぎて、嬉しくて、誇らしくて……」

「このままずっと夢を見ていたいってか」

「……うーん、それはちょっと違うんですよね」

アップは右手に持ったモカソフトの先端を口の中に頬張る。つられて、オジュウも手に持っていたフライドチキンをかじる。噛むほど出てくる熱い肉汁は朝の肌寒いこの時間に特に染みて、こういうのもいいもんだとオジュウは澄みわたる青空を見た。


「次も頑張るぞ、もう一度勝つぞ! って気持ちになるんです。あんなに道中辛くて大変だったのに。次のレースが楽しみで仕方なかった」

「気持ちはわかるっちゃわかる」

「ですよねー、君も初めてJG1勝った時もそんな感じだったんですね」

「あー、うん……まァ、そうだな」

僅かに視線が斜め下に行くオジュウにアップは首をかしげる。内に抱えていたやましいことなどアップは知らないから、素直にそれを言うのは避けたかった。またひとつチキンをかじる。

「君もこのレースが初G1制覇ですもんね。で、僕と同じように中山大障害も同じ年に制覇……なるほど、僕たちっておそろいなんですね」

「ゴホッ! ……ッおまえ、なに、急に!」

「え!? そんな変なこと言いました!?」

肉片が気管に入りかけすんでのところで阻止。咽せたせいで若干目尻に涙が溜まり、思わずアップを睨んだ。変なところで急所を突きやがって、と出てきそうになった言葉を引っ込め、アップがカバンから取り出した水筒を受け取って喉に流し込む。

大丈夫ですか? と心配気に眉を下げる元凶にオジュウは少し意地悪を言ってみたくなった。


「おそろい、なあ。そんなこと言って、今日のグランドジャンプを勝ったヤツが今年の大障害も勝って、そいつもおそろいになるかもしれねーぞ」

「まあ、それもそうですけど」

アップはそれから考え事をするように口を閉ざす。会話が無くなり、今までは気にしていなかった背後の遊具で遊ぶ子供たちの声が急に近く聞こえた。

言いすぎたか。そう思い、オジュウが口を開きかけたその時。

「……でも今は」

アップがとん、と呟いた。

次の言葉を聞きたくなって、思わず顔をアップの方に向く。目線が合う。

オジュウの目を真っ直ぐ貫くその柔い笑顔に、オジュウは何も言えなくなって。


「僕と君の、2人だけですよ」



「そういうキザなセリフホンットに似合うよなお前」

「えっ、え〜? キザなんですか今の」

「自覚がねーのがすげーよ……ったく」

「そんなつもりなかったのに……あ、どこ行くんですか?」

「下降りる。次のレースのバ券買う」

オジュウが赤レンガと大竹柵を背にして歩き出すとアップも駆け足で追ってくる。

オジュウの手の中にあったチキンは既に紙だけ、腹の具合もまだ余裕がある。何処かで軽食を調達してもいいかもしれない、と考えつつ。

「ついでになんか買うけどおまえは……おい、食ってたソフトクリームはどこ行った」

「もう食べちゃいました。何か食べるならすぐそこのラーメンとかどうですか? ランキング1位でしたよね」

「ラーメンって、嘘だろ? 却下だ却下。ただでさえ行列やべーのに無理」

「うーん残念……じゃあフードコートに戻りますか。でもその前にバ券、ですよね」


長閑な日差しを背中に感じつつ肩を並べて階段を降りる。話す。笑う。

そしてふとオジュウは思うのだ。


もうあの頃のように、必死に追いかけることにこだわらなくても、と。







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