映画

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糸師凛には兄が二人いる。

しかし、凛に兄について尋ねれば真っ先にあげるのは次男である冴の名前だった。

当然長男である凑も凛にとっては大切な兄であり、家族である。

しかし、それ以上に凛にとって凑は自分の兄である前に冴の兄であると感じていた。

歳が離れている以上、一緒にいる時間は少ない。

必然的に冴といる時間が長くなった。

凛が冴に甘えるように冴は凑に甘えていたし、凑が冴の面倒を見るように冴は凛の面倒を見た。

凑がサッカーを趣味程度にしかやっていなかった上、ポジションがGKだったのも理由の一つかもしれない。

優しく頼もしい兄ではあったものの、凛が成長するにつれ、凑には甘えることも迷惑をかけることもほとんどなくなっていた。


それが変わったのは冴と決別したあの日。あの、雪の日以降のことだった。


裏切られ、昂った感情のまま床に叩きつけたトロフィーや賞状。そして、凑が撮った写真。

壊したその瞬間は興奮で何も気にならなかった。

しかし、少し落ち着いた後部屋を見に行けば散乱していたものは全て片付けられていた。

家を探したが見つからず、もしかしたら捨てられてしまったのかもしれない。

今更、トロフィーと賞状への執着はない。


けれど、凑が撮ってくれた写真は大切なものだった。

大会で優勝した後や練習風景。

写真を撮った後は暗くなるまでシュート練習に付き合ってくれた。

そういえば、アイスを初めて奢ってくれたのは長男の凑だったはずだ。

いつのまにかその役割は冴に変わっていたけれど。


写真だけではない。

凑の作ってくれた思い出を、壊してしまった。

きっと壊したことには気がついているだろうが、凑は何も言ってこない。

何か言わなければとずっと思っているのに気まずくて、それに触れることもできなかった。


謝れていない、今もまだ。



「はわ......」


凛がリビングへ行くとそこには間抜けな顔でクッションを抱きながらテレビを見ている凑の姿があった。

無愛想、仏頂面がデフォルトの兄弟の中ではまだ、プラスの面での感情が顔に出やすい男である。

その上暴言無しでコミュニケーションを取れるし、礼儀正しく敬語も使える。仕事が絡むと唯我独尊の偏屈男に早変わりするという点はあるものの比較的常識人に育っている。

そんな彼がぽわぽわした情けない声を出しながらテレビを見ていた。

テレビには先月放送されたスポーツ番組の録画が流れており、画面には彼が推してやまないクリス・プリンスの姿があった。


(何回目だよ、この録画見るの...)


凑がクリス・プリンス同担歓迎強火オタクであることは家族どころか同業者やサッカー選手内でも知られているほどである。当人からも認識されているのだと聞いたことがある。

当然凛もそのことは知っている。凑本人が楽しいならいいと思っていたもののこちらが頭を悩ませている今浮かれた様子を見ると無性に腹が立つ。

最も悩みの原因は過去の凛自身の行動であり、凑は寧ろその件の被害者であるが、この甘ったれの末っ子は知ったこっちゃない。

苛立ちのまま、兄の座るソファの横に音を立てて座り、無言のまま画面を切り替え、DVDプレイヤーに入れた映画を再生する。


「え、あの......俺見て」


戸惑ったような声を出す兄に視線をやることもなく画面に流れ始めた映像に意識を向けた。

哀愁に塗れた凑の声は流れ出した映像と共に流れ出した音楽に掻き消される。

凛が流したのは、少し前に公開され話題になっていたホラー映画だった。

この監督の過去作には面白いものが多く、評判も高かったが大会前で練習も忙しく、映画館まで足を運ぶ余裕がなかったため見損ねていた。

SNSなど情報収集と身内間の連絡程度にしか使わない凛はネタバレを踏むこともなかったため、家で見ようと数日前に近所の店でレンタルしていたのだった。

稀に見る豪雨で練習は中止。警報も出ているため外を走るわけにもいかない今日は映画鑑賞の絶好の機会だった。

横から聞こえる凛の名前を呼ぶ凑の声を無視していると立ち上がって部屋を出ていこうとする気配を感じた。

その瞬間凛は視線は画面にやったまま、凑の服を掴みソファに再度座らせる。

ええ、と小さく声を漏らした凑だったが抵抗する気は無いのか再び立ちあがろうとはしなかった。

何故声を掛けて、テレビを使わせてもらわなかったのか、出ていく兄を引き留めたのか。

それは凛自身もわかっていなかったが、抵抗せず、自分の考えのまま動いた凑の姿に気分が良くなりフンと鼻を鳴らした。


「今の人父さんに似てたな」



「あ、父さん死んだ」



実の父親に失礼なことを言いながらも凑は文句を言うこともなく、映画鑑賞に付きあった。

ボソボソ独り言を言っていたが自宅での映画鑑賞だったこと、それほど頻度も多くなかったことから特に凛の気に触ることもなかった。

視界の端で口を開けて映画を見る凑がちゃんと話を理解しているかは疑問だったが。


そういえば、と凛は記憶を辿る。冴がスペインに行ってすぐの頃に凑が映画に連れて行ってくれたことがあった。

そのとき見たのもホラー映画だった。鑑賞中横目で見ると、変化は大きくなかったものの肩を震わせたり、目を見開いたり凑が人並みに怖がっていたことを覚えている。

だから凛は凑がホラーがそれほど苦手でないことは知っていたが、それ以上に好きでないことも知っていた。他のジャンルならいざ知らず、無理矢理付き合わせるには酷なジャンルであることも気づいていた。

そこまで考えて、ようやく自分がやっていた行動がかなり子供じみた行為であることに気づいた。

関わりの少ない凑への凛の精一杯の嫌がらせであり、甘えだった。


(これでも、怒んねぇのかよ)




豪雨は酷くなる一方だった。


朝から祖母の元に出掛けていた母は大事をとって一泊してから帰るという。

因みに、先程凑の発言によって映画内で勝手に殺された父は現在出張中である。


映画を見終わるとすぐに凑は夕飯の支度を始めた。

家にあった肉や野菜を適当に炒め、これだけじゃ足りないだろうと昨晩の残りの煮物と酢の物を引っ張り出してきた。

酢の物は無言で兄の器に全部移したが、少し呆れた顔をしただけで咎められることはなかった。むしろ、代わりにこっちで栄養を取れと言わんばかり煮物の白菜や人参を分けられた。

ここまで寛容だと罪悪感が募ってくる。

それでも自分が始めた手前引けず、食事を続けた。

凑も凛も口数がそれほど多いわけではない。食事の時間は無言になることは珍しくはないのだが、今日だけは妙に気まずく、凛は終始居心地の悪さを感じていた。


食事が終わる頃、凑の携帯に電話がかかってきた。廊下に出ていく凑の後を追い、会話を盗み聞いた。


「こっちは雨がすごい。母さんも帰ってこれなくなったらしくて。外?出るわけないだろ、危ないのに」


電話の相手は誰かなど分かり切っていた。おそらく冴が練習の合間の休憩時間にかけてきているのだろう。

よく考えれば時間はバラバラではあったが凑はここ最近はほぼ毎日電話をしている。

仕事の電話だと思っていたがこれまでの電話も全て冴だったのだと凛は気づいた。

それが妙にイラついて。


だからそれは先程までの嫌がらせのような我儘の延長だった。


「いや、だから出ない。カメラが壊れるだろ。...そうじゃない?」


「......兄さん。ちょっと、いいか」


「ん、凛。今電話してるからあとで」


「今、じゃねぇと駄目なんだけど」



凑は昔から適切な距離感というものを意識していた。凑と凛は年も離れていたうえ、凛は非常に冴に懐いていた。弟二人の中に割り込むのは鬱陶しがられるだろうと考え、一緒に何かすることは少なかったと思う。もちろん、不仲というわけでない健全な兄弟仲ではあったが。

とはいえ結局のところ凑は弟には甘い。

幼い頃からそれなりに甘やかしていたのが良い証拠だ。

何より、末っ子はいつも歳の近い冴にべったりだったので。

珍しく甘えてくる弟(側からそうは見えなくとも)を可愛がりたい、優先してやりたいと思ってしまうのは自然な訳で。


「冴、悪い。あとで掛け直す」


『あ?兄貴、待てって____』


声を荒げたせいか冴の声が聞こえたことで凛は自分の考えが間違っていなかったことを知り、凑が自分を優先してくれたことを理解した。


「んで、どうした?凛」


電話を切り、こちらの顔を覗き込むように見てくる層の姿に凛はほんの少しの優越感を感じた。

そして優越感とは別に胸の奥底から何かが湧き上がってくるような感覚を覚える。言葉に出来ない妙なもやもやした何かを感じるが不思議と不快感は無かった。


この、優しい兄はどこまで許してくれるのだろうか。自分を見てくれるだろうか。






因みにこの後、凑はうっかり折り返しし忘れた上、そのまま寝落ちたために携帯が冴からの大量の不在着信で埋まった。


また、これ以降凛による凑への試し行動はどんどんと増えていき、再会後、凑にべったりとなった凛とその姿を見た冴による、サッカーとは何も関係ない兄弟喧嘩が行われることになる。


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