星野アクアの敗北
「アクアくんはベッドではクソ雑魚って決まってるのになあ」
どうしてかなあ。
水を受け取りながら、かすれた声であかねが言う。口元は楽しそうに笑っている。
「なんだそれ」
「ふふ」
その声では明日の仕事に差し支えるかもしれない。しかし俺の心配をよそに、あかねは眉を下げて話を続ける。
「えっと、アクアくんのこと調べてたら、そういう書き込み見つけちゃって」
「…あんま変なの見るなよ」
「ごめんね」
空になったコップを受け取る。ついでにインターネットにのめり込みやすいあかねに釘を刺しておく。
あかねはテレビにも引っ張りだこだ。対して俺の方はもう大きく売れる気がない。
したがって、世間の星野アクア像の大半は、今ガチでの「さわやかアクアくんが番組でガチ恋見つけちゃいました」の物語だ。アイそっくりの姿に照れる俺の顔はショート動画として番組アカウントにも上げられた。(ディレクターの意趣返しだと俺はにらんでいる)
だとすれば、「あかねちゃんに敵わないアクアくん」の極論として、そういうコメントが書き込まれても不思議ではない。
不思議ではないが。
「それで?」
「え?」
「実際はどうでしたか、黒川あかねさん」
コップを置いてから手をマイク代わりに向ける。
俺の変わらない表情にあかねはキョトンとしてから、問われた内容にぷくりと頬をふくらませた。
だが、すぐに答えがないのはまだ余地がある。
目を見つめながら、もう片手で肩に触れる。
彼女の方へ少し顔を傾ける。あかねの瞳に俺が映っている。
「アクアくん…は」
俺の向けた手にあかねの指がかかり、ぎこちない動きでマイクを包み込む。
「すごく大事にしてくれて」
「自分のことより、私の心地よさを優先してくれて」
「だから私もアクアくんに、そうしたいんだ」
「それから?」
「ええっ」
あかねらしい、やわらかな宣言。
しかしここはベッドの上だ。普段なら満足したところを、もう少し追いつめてみる。
「そ、それから…えっと、クソ雑魚ではないよ?」
「ふーん」
「いつも…きもちいいよ?」
「疑問形かよ」
「…おしりより胸の方がスキだよね」
「お前もだろ」
「私がなでると嬉しそうにしてる!」
返事の代わりに肩に置いた手を、背中へまわす。するりと背筋をなでられたあかねは、耐えきれず身体をふるわせた。
トントン、と指先で急かす。
「えっと、ね、あせってるわけじゃないのに会話よりも先に、すぐトロトロにさせてくるよね。だから私、いつも他のこと考えられなくて」
「うん」
「アクアくんのことだけに、なっちゃうから」
「ああ」
「触れるのはきっと好きだよね。慣れてる感じ」
「でもさわられるのは本当に好きな相手しか無理なのかな。潔癖ではないけど、甘え下手なの」
「でも、だから、甘えてほしい。私にさわりたいって思ってくれるなら私ずっとアクアくんのことだけでいいって、いつも…んっ」
あかねの瞳が輝く。
いや、あかねの瞳の中に俺がいる。俺の瞳の反射をあかねも受けている。
あかねはアイドルじゃないから、マイクの持ち方もてんでなってない。絡みあった指先がひたすら熱い。
あかねがゆっくりと目を閉じる。星が見えなくなる。
……安心したのは、なぜだろう。
「あかね」
「な、なに」
「明日の予定は?」
間をあけてたどたどしく告げられた内容に頷く。ひとつ、来季のドラマ撮影が挟まっているのだけがネックか。
まあ何とかなる。暗躍は得意だ。
「アクアくん?」
「悪い。声、完全に出なくするぞ」
今日も黒川あかねには負けてもらう。
けれど敗北こそが愛だと、この物語の星野アクアは知っている。