明星、暁を求めて.0
きっかけはほんの些細なことだった。
硝太の父親も母親も仕事で家を丸一日空けることになり、『夜までアイお姉ちゃんの家で待っててね』と朝に言われたその日。
小学校が終わって帰りに同級生の家に遊びに立ち寄った時、不意にその友人が『特別にアニキのお宝をお見せしてやろう』と言い出したのだ。
何か良いものでも見せてくれるのだろうか、そう思って彼のお兄さんの寝室までホイホイついて行くと、友人は徐にベッドの下から何かを引きずり出してきた。
それは、漫画本だった――"決して未成年が読んではいけない類"の。
友人は、おねショがどうだの、兄貴は本当はミボー人が一番好きだの、何かを熱心に口走っていたのだが、当の硝太には内容が全く入ってこなかった。何故かというとその時彼は、眼前に広がる今まで見たことも無い新世界に入り浸り、我を忘れてページをめくり続けていたからだ。
その漫画の中では、小学生の男子が、大人の女性と裸で体をぶつけ合っていた。
女性の方は男子に尻を鷲掴みにされ、男子は女性の背後からはしたなく腰を振り、二人とも涙と汗で顔をぐしゃぐしゃにしながら蕩け合っていた。
だけれどもなんだか、二人ともとても幸せそうだった。
自分もアイお姉ちゃんと同じことをしたら幸せな気持ちになれるのだろうか、そんなことを子供心に彼は考えた。
友人の家を後にしてアイお姉ちゃんの家に着き、合鍵で玄関のドアを開けて中に入ると、すぐに彼は違和感に気付いた。
玄関には、アクアとルビーの靴はなく、代わりにアイの靴だけが揃えて置いてあった。二人がまだ帰宅していないのは別に変ではないし、アイが家に居るのも今日は仕事が午前で終わる日なのだから変ではない。
問題は、硝太が帰宅したのにアイがいつものように玄関まで出迎えに来ないこと、であった。
『……お姉ちゃん?』
不思議に思った硝太が家の中に入ると……。
『…………』
アイが、居た。
洗面台にもたれかかるようにして、ぼんやりと鏡を見つめていた。
鏡に映ったその瞳は黒い星を宿し、これまで硝太が見てきた中でもとりわけ、悲しそうなものであった。
『お姉ちゃん?』
心配になって、声をかけた。
すると、彼女はさっきまでの悲しそうな表情から一転、いつもの柔らかい笑顔になり。
『あ、おかえり硝ちゃん。ごめんね、お化粧落とすのに手間取っちゃって。お風呂、すぐ沸かしてあげるから』
瞳に輝く星を宿した、いつもの姉に早変わりした。
しかし、先ほどまでの彼女の姿を見ていた硝太はつい尋ねずにはいられなかった。
『……苦しい、の?』
『えっ』
隠しごとが大人にバレた子供のように、彼女が一瞬だけ困ったような表情を見せた。
『泣きそうなのに無理矢理笑ってるから、心配なんだ。お姉ちゃん、大丈夫?苦しくない?』
『……お姉ちゃんは全然大丈夫!硝ちゃんの考え過ぎだよ。私はいつだって強いから心配しないで?』
――ああ、また無理してる。
硝太には、今の彼女の辛さが手に取るように分かってしまった。
大好きな大好きな姉の、その心の奥底に秘められた深い哀しみを。
『お姉ちゃんはずっと何か我慢してるじゃん……さっきだって辛そうだったし……』
『そ、それは……』
バレていないと思っていたらしい。アイは目に見えて狼狽え始めた。
だが、その狼狽えさせている原因が他ならぬ自分自身であることも、硝太には耐えられなかった。
『お姉ちゃん!』
考えるよりも先に、硝太は動いた。
『えっ、きゃっ!』
アイの胸に飛び込み、そのまま背中に腕を回す。幼い頃は抱きかかえられていても首ですら一周できなかった自分の両腕が、今では彼女の体をしっかり包み込んでいる。
幼少期から大好きだった匂いと、晴れた日のお日様のような温かさを肌で感じる。
『しょ、硝ちゃん?』
明らかに戸惑った、上ずった声を出すアイ。
それがなんだかくすぐったくて、誤魔化すように早口で硝太が言葉を紡ぐ。
『辛いことがあったら何でも隠さず言って!僕にできることならなんでもしてあげるから』
『硝ちゃん……』
『お姉ちゃんには、いつでも心から笑っていて欲しいから』
包み隠さない、硝太の本音。世界で一番大切な姉への思い。
『……うん、ありがとう。硝太』
珍しく愛称ではなく本名で彼の名を呼び、アイもまたゆっくりと硝太の背中に手を回した。
柔らかいくすぐるような刺激に、硝太の肌がぴくっ、と震えた。
その時、硝太は思い出したのだ。
つい先程、友人の家で読んだ、あの漫画のことを。
あの漫画に出ていた女性と男子は、ちょうど姉と自分と同じくらいの年齢だった。
本来ならば理性がストップをかけるはずの提案。しかし、その時の彼は、"その行為"の真の意味を理解するにはあまりに幼すぎた。
そして、目の前で姉が困っているという状況が、彼の理性のサボタージュに拍車をかけた。
硝太は、アイの方へ向き直ると、こう告げたのだ。
『お姉ちゃん、してあげたいことがあるんだけど』