旧市街の大泥棒
「…灰血病」
口から勝手に出てきた言葉に、ローが弾かれたように振り返った。机の上に並んでた資料が、手に引きずられてバサバサと床に広がる。
目を一度ギュッとつぶって、開いて、ローの灰色の目をしっかり見た。灰血病は昔、ヤーナムでひどく蔓延した病気だった。
「分かるのか」
「うん…血が色を失くして、灰色になる病気だ。内臓や骨がだんだん弱くなって眠るみたいに死んでしまう」
レベッカが提供してくれた血の色を奪ったのは、赤目病を抑えるという”M"の丸薬。
おれの手元のシャーレを覗き込んだローは眉間にもの凄いシワをよせて、間違いないなと呟いた。
「ドクトリーヌから教わったのか?」
「ううん、だからおれが知ってる症例は一つきりで…治ったのは"奇跡"だったって」
「…ヒルルクだな」
腕を組んだローに、こっくりと頷く。おれはドクトリーヌに弟子入りする前に、ローに出会う前にヤーナムの名前を聞いたことがあった。
まだ怪我だらけのおれをベッドの上に乗っけたまま、ドクターが話してくれたんだ。昔ヤーナムって街に一人、死病を患った大泥棒がいたんだって。街を治める教会が嫌いだったその泥棒は島を出て沢山の病院を訪ね回ったけど、誰もその病気を、灰血病を治すことはできなかった。
その血を癒したのが、桜だ。
見たことのない息をのむ程の美しい風景だったと、本当は自分の目でそれを見てきたドクターは、満面の笑顔で身振り手振りを交えながら語ってた。
これが"奇跡"だ、でも立派な"医学"なんだと、この世に治せない病気なんてないと教えてくれた。
「チョッパー、お前ももう気付いているだろうが、赤目病はヤーナムの…獣の病に"よく似た"病だ」
目を伏せたローにまた頷きを返す。
赤目病の患者の様子は、おれが診た限りでも獣性の発露による典型的な症状だった。瞳の変化を初期症状とする肉体と精神の変容も、火を恐れるようになるところも。
そして、今分かったことがもう一つ。
「反対に、灰血病は神秘の発露…そうなんだな」
「…おそらくな。教会にも当時の資料は殆ど残っていなかったから、知り合いに聞いた話からの推測にはなるが」
「きっと間違いない。だってドクターの話してくれた患者を癒したのは"感動"だったんだから!」
神秘は心に、精神に深く感応してあらゆることを引き起こす。
強い強い想いは距離も時すらも越えて夢を渡るし、体をゴムみたいに変えたり、ただの青っ鼻のトナカイを人間の言葉を喋れるように変えたりできる。
「なら、これでハッキリした。姿を見せねえ"M"とやらは、地下遺跡に籠っている。あの偽医者は墓所に住まう精霊を薬の原料にしたんだろう」
「精霊の神秘は獣性に干渉するから、この丸薬で"一時的に"赤目病の症状を和らげることができるんだな。けどその先は…」
ドクターは、こうも言っていた。
その教会のヤブ共、怪しい薬をばら撒いて、皆獣に変えちまった。流石の大泥棒も、あの薬だけは例え死んでも口に入れんと誓ったくらいだぞ。
神秘は精神に感応し、あらゆる無理を通そうとする。
だけど普通の肉体じゃ、変化を受け容れられずに死んでしまうんだ。悪魔の宿る実を食べでもしない限り、どうしようもない。それを解決してしまったのが、ヤーナムの丸薬だった。きっと獣性に関わる何かを含んでいたその薬は、感応する力を得た肉体に可塑性を与えたんだろうと思う。
そうして沢山の人を、獣に変えてしまった。
「ドレスローザの状況は、かつてのヤーナムのそっくり"逆回り"だ。旧市街の灰血病は獣の呼び水となった。赤目の患者が神秘を宿せば…そこに生まれるのは、成りそこないの眷属だ」
”M"と名乗る医者は、今も地下に居るんだろう。
いや、きっと最初からそこに居たんだ。赤目病の原因になってるその場所に。
知ってたんだな。自分のやる事が赤目病を引き起こすことも、薬だって言って渡したこの真っ白な塊が、誰かの希望を奪うことも。
「……なんでそんなことができるんだ」
ドクターはこの世の全ての人間は救うことができるって信じてた。
だからあの日、一人でワポルの城に向かったんだ。
「医者だって、皆信じてたんだぞ」
お金があっても食べ物を手に入れることすら難しくなってしまったこの国の、たった一つの希望がお前なんだって、皆信じて、ずっとずっと踏ん張っていたんだぞ。
「何を名乗ろうが、クズはクズだ」
そう吐き捨てて、ローは鬼哭を手に取った。ヤーナムの医者として時に神秘すら扱う灰色の目は、青白いカンテラの光に照らされてほの白く光ってるみたいに見えた。
「行くぞチョッパー。おれ達の仕事を始めよう」