拙訳
【参考元】
南紀徳川史刊行会 編『南紀徳川史』第6冊,南紀徳川史刊行会,1961. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1225341
武内雅人,「「佐武伊賀働書」史料解題の改訂および補遺」,『紀州経済史文化史研究所紀要』(32),p1-26, 2011.12
佐武源大夫 佐武伊賀守義昌次男 生國紀伊
家譜
父の義昌は元亀の頃足利将軍義昭へ与力し武功を顕した。義昭凱旋の時騎手の相圓に扇を挙げるに風烈しく扇を半分に破しを将軍は感心して武の一字を給わりこれより竹を武と改めた。京都門跡の教如上人が鷺森へ入寺の後は義昌を頼って、その節の感謝のため鞍などを給わった。
天正丁丑年、雑賀表ヘ織田信長が向かった際には雑賀の城を持ちこたえさせ、和睦後は城を明け渡した。その後は浅野幸長より領知千石を給わり勤番なく鷺森領に住んだ。義昌の妻は幸長の姪である。幸長の嫡男である但馬守長晟が国替のため芸州へ移った際は義昌は跡取りの甚右衛門と共に芸州へ引越した。
(略)
思うに伊賀守義昌は入国前より土着の勇士とみえる。浅野家に仕え芸州へ移住し、御家なしとていえどもけだし龍祖御代御取調あるきは佐武伊賀働と題する一書がある。ご入国前の有り様を振り返る。悉く詳らかにかつ正しく源大夫の父として左の働書を揚る
①一五四九年 材木座の出入り
湊と岡の間で起きた材木座の出入りにて既に軍が始まり、毎日勇敢な者たちが罷り出ては矢軍を仕掛けていた。自分も岡に親戚が多くいたため、見物も兼ねて山へ上った。子どもの頃から弓や鉄炮が得意だったため、腰に十本ばかり矢を差したところ、ある時観阿弥やその他数人が先駆けした。岡では負人の太郎左衛門などが罷り出、今日の御城の水の手〈現在の鳶魚閣辺り〉の裏にて観阿弥は刀を抜き、袖を翳して太郎左衛門に切り掛かったが「鳥の舌」という鏃で胸元を射抜かれた。自分は以上のように毎日見物に出ていた。山の中腹にいたのでそれより下ったところで矢を四、五本射かけたがこれは戦の役には立たなかった。山を少し下ったのは志が低かったと言えるか。
その後両者は浜で合戦を繰り広げたが湊衆の数が多勢であったため手前ですぐに討ち果たされた。山にいた自分はそのまま駆け下り、岡の内へ退いたところで土橋平次の妹である五郎左衛門の女房と会ったため、自分は彼女の手を引いて逃げていった。えった村〈穢多村、岡嶋村?〉で五郎左衛門が頬を切られ重傷を負っていたため右手で掴んでいた女房の手を放し、代わりに五郎左衛門の手を引いた。新在家の口には早くも湊の者たちが罷り出て道を妨げていると聞いたため、遠藤を渡し荒内を通り中之島へ向かったそこには五郎左衛門の親戚が多くいるため、彼を引き渡して自分も帰った。十二の年のことであった。
②一五五五年 菩提谷と蓮華谷間の山分けの出入り
根来寺の内菩提谷と蓮華谷の間にあった山分けについての調停が決裂したため、蓮華谷が人数を出した。菩提谷も同じようにし、千手堂の前にある筋交橋の板の行桁を外していた。延命院の内ひげ良泉という者は行桁を渡って向かいの橋詰めに一人控えた。同じ延命院の淡輪二位という男も倣って渡り、自分は異なる行桁を渡っていたため淡輪二位と自分は同時に渡ることになった。敵方からは浄土院の内吉礼二位という者が罷り出て矢を射かけてきた
。後の人数も次々橋を越えていく。自分たちは先に渡っていたためそのまま攻撃をし、敵は堪らず逃げだした。後を追って突撃した先、あき地と言うところで敵は反撃に転じた。菩提谷の者どもが罷り出て鑓で攻めてきた。自分たちと兄弟は一所にいて突き合っていたところ自分は「鳥の舌」で踝を射貫かれた。矢はその場でかなぐり捨てたが、鏃はその場に留まった。自分の鑓の先には三善実体の首を取った往来左京という者がおり、自分と鑓で渡り合った。往来の袖に鑓先が掛かったためそのまま突き倒そうとしたが失敗した。その後弁財天の長板泉徳院が中巻を手に自分の甲を叩き割った。甲は十二枚の輪になっていたが四枚が割られていたためすぐに撤退した。泉徳院は自分を打ち捨てるとその上を飛び越し大福院大弐を切り倒し散々に切りつけ七、八箇所負傷させてから仲間を連れて撤退した。自分が通ろうとした行桁は武士で混みあっていたため五坊小路というところまで退いた。十八の年のことであった
③一五五六年 跡式の出入り
根来寺の内威徳院は千識坊の門住であり、また三宝院は杉坊の門住である。両人には跡式の出入りがあり調停を行っていたがすぐに決裂した。そのため三宝院の者どもが我々の門の際まで攻め入ってきたため。我々坊主の者共が門へと罷り出た。三宝院の中間で異名をとろという者が二尺七、八寸ばかりの刀を抜き担げ、三間ほどのところで盾を構えながら迫ってきた。最初の矢で楯を射抜き、二番目の矢も楯を射抜いて肩に刺さった。そこに三宝院のうち長尊という者が鑓を手に罷り出で我々の者と散々に突き合うところをこれも二間半ほどから具足の脇板と腕を射抜いた。また三宝院のうち太夫という者も鑓にて突き合っているところで手首を射抜き。三人を四本の矢で射抜いたところ、杉坊近き者が自分の居たところに攻撃してきたため眉の上を射抜いたところ、当たりどころが悪くて死んでしまった。糠屋小路のうち三福院という者であった。その後杉本のうち張右京という者が十文字の鑓を持って罷り出で、自分の矢を腕に受け、肘先を射抜かれ、肩にも受け、四箇所に矢が刺さったため撤退した。えんこう願泉は右腕を射貫かれ撤退した。大福院の大弐が籠手の鎖を射貫かれ撤退した。自分一人の矢で五、六人退けた。これは十九の年のことであった
④一五五六年 蓮華谷と西谷の出入り
西谷と蓮華谷もまた山分けの出入りにて双方西の山へ罷り出一戦に及んだ。自分の親方である福宝院は一番に罷り出て散々に鑓を突き合ったが鑓衾に切りすえられてしまった。首を取れば死んでしまうが根来寺の法度によってそのままうち捨てられた。自分も福宝院の弟子としてそばにいたところ瀧宝の内宗清という者が罷り出てきたため矢を放ったところ、兜のしころを射貫き頭へすやきしろが刺さり矢は抜けたが鏃が残ったが色々養生したため死なずに済んだ。同じく十九の歳のことだった
⑤一五五七年 和佐と岩橋の荒地の出入り
和佐と岩橋の荒地の出入にて既に合戦に及んだ。中の島の東の河原で道具揃えをするため平次方の者はことごとく罷り出、自分は土橋へ行き、平次が言うには「自分が道具揃えに行っている間、孫一の叔父である宗忠、眞鍋藏介、源左衛門の兄の源大夫と源左衛門の四人に内々留守を預ける」とのことだったので請け負った。自分は若輩者だったため、あちこちからやってきた勢力がほりさし物を持って集まっているところを延福寺の屋根から見物していたところ鉄炮の音が二、三回聞こえた。屋根から飛び降り船着場へ来たところ軽傷を負った者が川に向かってやってきた。そのまま船に乗って向かいに渡り、中の嶋の西の口へついたところ宇治の市場衆もやってきた。自分は堀へ飛びこんで大脇指を切り上げて上へあがったところに、土橋太郎左衛門が根来衆を七、八十人引き連れて自分の後を付いてきた。自分は中の嶋の生まれなので敵方に接近した。彼らは三叉路で陣取り鉄炮構えを儲けていた。自分のいたところは十七、八間ほど距離があった。自分は鉄炮で最初に平内次郎の胸を撃ち、その他喜四郎、五太夫、孫六など歴々の五、六人を鉄炮で撃ち果たした。敵が「このまま持ちこたえることはできない。道場へすぼめ」といっているところを確かに聞いた。そのまま自分は攻撃し、敵の構えを飛び越えて後ろを見ると畳の下から平内次郎を引出して首をとり、甲をとって相打ちだと言い捨てた。その朝道具揃えに行ったところ中の嶋の敵が攻撃してきて散々戦い、孫一の者が四、五人討ち取られた。孫一が比類なき働きを見せたことはよく知られているが、自分が来なかったら彼は面目を失うところであった
⑥一五六〇年 土佐遠征
自分が二三歳の時に土佐に下ったところ、長曾我部と吉良が争っており自分を奪い合っていろいろ揉めたが吉良殿が先に声をかけた上よき田畑を七十町くれたのでそちらに付いた。戦が始まり長濱という城を伊賀の者が奪い取った。すぐに吉良家中の者たちが長濱の戸の本というところで鑓を突き合ったところ、吉良は劣勢で百人ばかり討ち取られ撤退した。自分も同様に撤退し、其の後吉良の方から朝待ちをし長曾我部のものとも百人を討ち取った。自分も長崎新介という者、根来の阿弥陀院大弐という者を討ち取り、そのあと与三郎という者を討ち取り以上、土佐では三つの首を取った。しかし吉良はその後も劣勢となったため自分は撤退した
⑦〃 雑賀庄と南郷の紛争
当国の決まり事について争いがあり、三月三日に合戦が始まったため門徒中から人数を出して永正寺へ攻め入ったところ、敵方は寺の上の山に城を構えていた。自分は岡田ヶ峰へあがってそのまま追い立てすぐにそこは鷺森の勢力が鉄炮構えを丈夫にして持ち固めていた。自分は負傷したため残った者に指示を下して帰った
⑧〃 河内古橋の攻撃
榎並の内古橋というところで遊木新斎と根来寺の玉宝の二人が大将として城を持っていた。玉宝は孫一の従兄弟であったため人を遣って玉宝に寝返るよう言ったが断わられた。すぐに青田の中を攻めて300人ばかり討ち取った。自分も首を一つ取り、自分の下人である助丞という侍も首を一つ取った
⑨〃 河内・榎並の攻撃
山城井手という者が榎並の内に城を持っていた。大雨が降り洪水になったため大阪から船を出して井手の城を攻略した。水谷幸介の他河内の歴々が参上したためすぐに城は落とされた。其の時も自分は首を一つ取った
⑩〃 あおの城への攻撃
河内の内あおの城は方々から足軽に出て城を持っていた。阿波衆は十月廿日に彼の城に攻撃し城の際で一戦を交え、淡路のしつきなどが討ち死にした。同じく中之嶋六郎太郎が鉄炮で撃ち殺され既に亡骸は捨てられていたが、自分と根来寺のしこくちへ坊の内大夫という者と二人で引き返し六郎太郎の亡骸を引き取って瓜生野に運んだ。自分はその時重傷を負ったため堺に戻って養生した
⑪〃 河内、大海の城の防衛
大海と申すところは淡路安宅殿の知行であるため自分に預けられていた。森口の吉左衛門は荒木瀬兵恵衛の兄であるため、瀬兵衛は仲間に引き入れようとしたが失敗した。瀬兵衛の勢力が吉左衛門の城へ攻め入り、吉左衛門は力及ばず同心することとなった。すぐに兄弟の兵一四〇〇、五〇〇が自分の城に押し掛けてきた。自分の勢力は人数が少ないため一人も城の外に出ないよう命令したが、敵が引き返したところを見て後を追った者が出た。案の定敵方は反撃に転じ味方は逃げ出すこととなった。一の門では佐野関太夫という者が鑓で戦い討ち死に、残り十八人は城へ逃げ込むことができなかったため大阪の方へ去っていった。残り人数は二四、五人くらいか。櫓は自分が鉄炮五丁で請け負った。早速二の丸へ飛びこむのを、自分は次々と鉄炮を入れ替えながら発砲した。後で聞いたところによれば死者は百人ほど出たという。敵の首は十三取った。自分も軽傷を負っていたがそばで薬を込める者たちに報せることはしなかった。なぜなら自分が怪我をしたと聞けば彼らも気落ちする。十三の首やその後死んだ者の十の内、八人は自分の鉄炮によるものである
⑫〃 小つま村の戦闘
小つま村で根来衆が朝待ちをしていたため、自分は拵山へ河から向かって布陣した。福嶋の者どもが略奪にやってきたのを、根来寺衆がすぐに切り込み二十人ほど討ち取った。自分も参加すると、糸我左京という者が背中を見せて首を取っていた。その間は二十間くらいか。自分は鉄炮で左京を撃ち首を取ろうとしたところ、四、五人がやってきた。自分の後ろには馬が一騎と十四、五人がやってきたため自分はその場を引いて船に乗った。しかし相手が船際まで攻めてきたため鉄砲で一人を倒すと相手は退散した
⑬一五七六年 三津寺での戦闘
後に原田備中と号する半野九郎左衛門は大坂と木津の間を取り切り城を構え大人数を出そうとしていると、忍ばせた門徒から報せがあった。孫一と的場源四郎と相談したところ、間を取り切れば大坂は落ちるため夕方に100人ほど連れて罷り出、三津寺にて源四郎とともに番をした。その晩は早くも明けたが敵方の動きがなかったため引き返し、その途中で孫一にもあったので伝えたところ、敵方は夜が明けなければ出てこないだろう。先もとよりよく見分けるべきだと言ってきたため孫一と一緒に三津寺の方へ戻ったところ敵が出てきた。鉄砲を放つと九郎左衛門の勢力も鉄炮構えで陣取っていた。九ツ時分まで戦ったが大坂方の鉄炮が非常に多く出てきたため八ツ時分に敵方は敗走した。敵は一〇〇程討った。其の時も自分の鉄炮で討った相手の首を取りに行こうとしたところ宇治衆の者共がやってきてその首を取ってしまった。実に良い侍の首であった
⑭一五八一年 熊野での戦闘
新宮堀内左馬玄蕃は山身方を頼って数度謀反を試みたかがいずれも失敗に終わっていた。そこで自分に勘右衛門という人を出して戦術の相談に乗ってくれと頼みに来た。すぐに同心して古座表を焼き払ってから罷り下り、自分は新鹿に城を構えたところ。有馬からの遣いによれば「有馬の城を取られた。何事も無いように木ノ本まで引き取って堀内氏善と万事談合して手立てを講じよう」という。
有馬黒田氏も自分と同じく新鹿におり談合したところ、「とにかく氏善の言うようにすべき」という。その時自分は「木ノ本まで人数を出せば敵方は深く入ってくることはないだろう。猪の鼻に籠り道路まで出て戦をしかければ城の際まで引き出すことができる。そこを打って出るべきだ」と自分は言った。すると氏善は木ノ本まで引き取ることに同心せず、「もし負けたらどうするのだ」と言ったため「とにかくこれまで自分はそうしてきた」と言って自分のたて物さし物などを置いていき猪の鼻へ足軽を少数連れて出た。案の定人はおらず特に労せず追い詰め、城の際まで来たところ出てきた敵の首を一〇四個くらい取った。かくて尾鷲伊勢口の人数は散り散りになり、その内尾鷲の早助一党五人の内四人を捕らえ、一人を討ち取った。また林という者を生け捕りし身代金を取った。以後四人を籠に閉じ込めていたところ尾鷲の者どもが色々懇望して堀内のもとへ罷り今に至る。有馬玄蕃としては此度の手立ては不本意かつ無念なものであった。山身方として一行いしてくれと申しつけられ、山身方は有馬表へ出て大般若の東に働いている間、自分ら皆へいうには「こちらの人数を少しでも出す。自分たちの者も見合い合戦に出すべき」と言ったところ、三卿の衆が言うには「何事も源左衛門次第だ」と。自分たちも罷り出たところ、案の定自分へ切り掛かってきた。敵方は二〇〇人ほどいるように見えた。鉄炮であしらったところ接近してきたため鉄砲を投げ捨てて攻めていくと敵方は堪らず逃げだした。討ち果たした者の首を取っていたところ氏善のいた城に近づいたため自分の働き様に感心して鑓を褒美にくれた。また有馬三郷より具足を一式と弓と鑓などを賜った。それ以降有馬の城を山から持っていた。自分は有馬の城際へ番に出ると言って降伏勧告をしてから言った。「とにかく此の分では玄蕃のの本意を得られない」。山身方も玄蕃も有馬へ馬を繋がれ入魂なので困難だろう」。内から言うには「前から尾呂志殿、篠坊、入鹿殿が色々意見があるものの同心できていない。三人と談合して公事の手立てを任せることはできる」。氏善に様子を伝えたところ、然るべきことと満足していた。それから新宮へ罷り越した有馬の様子を伝えると家中もまた全員満足していた。その理由は一戦のことは源左衛門の才覚によって行うこと。また無事の手立ても任された。なかなか申し上げようもない皆言って、すぐに尾呂志へ向かい以上のことを伝えると彼が言うには「他のことの扱いに関しては同心できないが、源左衛門が万事の世話役を務めてくれるならば、前の意見を打ち合わせ入鹿、篠坊にも自分から話すためこれより帰ってほしい」とのころなので罷り帰り、三人が城を出るのを待ち無事に有馬の城を渡した。その他細々としたやり取りはあったが書かないことにする。氏善は阿田和に知行を無役でくれた
⑮〃
大又というところで新鹿の者どもが攻め入ったところ、初めてのことであったため手立ても知らず散々なことになった。新鹿まで罷り帰り先の戦いを無念に思っていたため改めて出陣したところ、先程勝った敵方がやってきて攻撃してきた。敵が近かったため自分の者どもは鉄炮を放つことが躊躇われ、十間ほど下がって鉄砲で一人打倒した。また自分と敵方の鑓を突き合い一人打倒した。自分が討った相手の首を三つ持って撤退した
⑯? 黒田のはなでの戦闘
黒田のはなにて敵方が城を作った。この城は敵方の手にある限り雑賀庄の者が耕作することができなかった。力ずくで取ろうと談合したところ、中の嶋の勢力は真っ先に鍬で城を掘り崩して奪い取るべきと申した。宇治と鷺森、岡の者が中手に入り、敵方が加勢したところ妨害し役割を分担して取り掛かった。案の定根来番手の衆が宮郷の者どもの勢力に加わって散々に戦った。其の時も自分は根来寺の大谷長泉という者を組内にて仕留めた
⑰一五七七or一五八二年 紀州攻め
小雑賀表へ筑前守様が出馬された時、自分は的場源四郎両人のものどもと大将を務め小雑賀の城を三二日間守っていた。和睦することとなり摂州軍が城に入ることとなったため、自分は源四郎を置いて城を出、荒木摂州と筑前守様へお目にかかり御体申し上げたところ筑前守様は「近々中国へ出馬する故、鉄炮3000丁揃えて味方すれば知行を存分に遣わせよう」。そう仰った後、打飼袋より美濃柿と大栗二つを下された。「是は尾張の名物である。さてさて此度はよく城を守ったものよ。其の手柄は申し分ない」とお褒めいただきそのまま御上路になった。孫一が我が子を人質として出すため、自分は山の峠まで送ってから罷り帰った
⑱一五八二年 淡州阿州での戦闘
淡州阿州へ渡海した時、勝瑞に陣を敷いていた。敵方一円に武者も出さぬ間、若い衆が色々策を講じたがうまくいかなかった。ある時八ツ時に人数を出し、幸いにも淡路衆が出てきたととるものもとりあえず攻め入ったところ敵方の人数を討ち入ったところだったため淡路衆は状況が悪くなって八十人ばかり討ち死んだ。その時田村川まで足を出しのき、然る処に安宅菖蒲介が河際より取って帰してきた。彼は自分の寄親であるため同じように引き返し鑓で一人を突き倒した
⑲一五八六年 南部川の一揆
当国が大納言殿の知行であった頃、日高郡南部川の百姓どもが一揆をおこした。自分の内の者である木本甚大夫が首を一つ取った
⑳一五九八年 山路の一揆
同じ群の山路の百姓たちが一揆をおこしたとき、大納言の人数にて一揆を撃ち果たした。その時も自分は手前で首を四つ取った。また桑山法印父子三人の手前で首を六つ取った。
【怪我メモ】
自分は戦も嗜んだため軽い傷を負ったことも記しておく
・十八歳の頃、菩提谷七番にて鑓を突き合い甲を叩き割られ、踵に矢を受けた
・阿州(阿波・徳島県)で太刀による傷を負った
・頬骨に鉄炮玉を受け、今も残っている
・阿州のあおの城で桶側の袖に鉄炮玉を受け、今も残っている
※河州の誤り
・腕に鉄炮玉を受けた
・左の中腕が鉄炮玉で打ち抜かれた
・膝元が鉄炮で打ち抜かれた
・踵に負傷した
・後頭部に鉄炮玉を受けたが、これは重傷だった
・具足の下がりが打ち抜かれた
・腿に攻撃を受けた
(以上の書置は他の家の者には見せず、自分が死んだら子孫たちの間で見るように書き留めておく)
『佐竹伊賀申状写』(一五八一年?)
廊坊城を長いこと留めていることについて高川原は無念に思われ、また兵糧を運ぼうと警護船三十艘ばかりで那智浜宮の南へやってきた。自分ははじめ城から罷り出て敵を散々に退け、それ以後は城中弱り、磯部というところで敵方が出てきたところを包囲した。その時新宮歴々、自分の者も打ち死んだ。すぐに目的通り廊坊城は陥落し、彼ら那智山六人の跡職のことも半分はこちら(実報院)が受け取ることとなった