手を握る。#早瀬ユウカ
少しだけ肌寒さを感じる、ある冬の日の夕方。
シャーレのオフィスで、ユウカと一緒に溜っていた仕事を片付けていた。
「よし、っと。これで緊急度の高い用件は全て片付きましたね」
仕事を一段落させたユウカがふう、と伸びをする。
ここのところのユウカは、ほとんど毎日のようにシャーレの仕事を手伝いに来てくれている。
いつも私の至らないところを助けてくれるユウカには素直に頭が上がらないけれど……今回に限れば、単に彼女の世話焼きな性分だけが理由というわけでもない。
むしろ、彼女の方から「しばらくシャーレの仕事をお手伝いさせてください」と頼み込んできた、というのが実情だ。
「まったくもう! しばらく私がいなかったからって、いくら何でも先生は仕事を溜め込みすぎです。しっかり反省してくださいね!」
“あはは……いつもごめんねユウカ”
「せーんーせーいー? 本当に分かってます!?」
じっとりとした視線で睨んでくるユウカになすすべもなく平謝り。ただ、もちろん彼女が本気で怒っているわけじゃないことだって分かっている。
ユウカが怒って、私が叱られて。彼女が初めてシャーレに来た時から変わらない、いつも通りの冗談交じりの掛け合い。これが私とユウカの関係性、私たちにとっての「当たり前」で。
だけど今は、そんな、なんてことのない「当たり前」のやり取りができるというだけで、嬉しかった。私も……きっと、ユウカだって。
私たちが……ううん。ユウカが、その「当たり前」を取り戻すまでには──
本当に、本当に大変で……ユウカも、みんなも、頑張って、頑張って、頑張って、頑張ってきたのだから。
∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴
──ミレニアムに大激震を巻き起こした「あの事件」から、一月あまりが過ぎて。
既に事件の事後処理も粗方終わり、ミレニアムも以前の落ち着きを取り戻しつつある。
事件の主犯や実行犯には相応の罰が下され、彼らによってばら撒かれた動画データもヴェリタスの尽力により、ミレニアム学外への流出は辛うじて食い止められた。
様々な事情を……特に関係者の心情面を考慮した結果、あの事件の顛末はミレニアムの学内のみで内々に処理され……対外的には「なかったこと」として扱うことになった。
だから今では、あの一件はただの、質の悪い白昼夢。みんながそう思おうとしている。
そして……
あの事件の中心人物であり、その最大の被害者だったユウカもまた、あの事件が齎した爪痕から少しずつ立ち直ることができている……と思いたい。
……事件直後の彼女の様子を思えば、こうしてまた笑顔を見せてくれるようになったことが、どれほど喜ばしいことか。
それでも……完全に全てが元通りに、なんて行くはずもなくって。
「ところで先生……この部屋、エアコンの効き悪くなりました? ちょっと寒い気がします。上着がもう一枚欲しいくらい」
“……ごめんね。少し設定温度を上げて来るよ”
心底寒そうに、ぶるぶると震えるユウカ。でも……確かに今日の気温は肌寒いけれど、そこまで凍えるほどの寒さじゃない。
……きっとそれも、彼女に残った「きずあと」の一つ。
変わってしまったもの。元に戻らなかったもの。
たとえば、ユウカの服装。
以前はミニスカートから健康的な太腿や生脚を惜しげもなく魅せていたユウカだったけど、あの日を境に外出する時には必ずデニール数の高いタイツを穿くようになったし、スカートの丈だって以前と比べて大分長くなった。
……もっと直截的に言えば、肌の露出を極端に嫌うようになった。
ユウカ自身は「最近ちょっと肌寒くって」なんて言って誤魔化していたけれど……その心境の変化が何に起因しているのかなんてことは考えるまでもなくって。
それに。
「えっと、それじゃあ先生……今日の分、なんですけど」
“……分かった”
今日の仕事を全て片付けた後、私とユウカはオフィスの休憩スペースで向かい合っていた。
……ユウカと「こういうこと」をするようになったのは最近だけど、やっぱりどうしても緊張してしまう。そして、それはたぶんユウカの方も同じなんだろう。
「では、先生……本日も、ちょっとお時間いただけますか?」
ユウカは覚悟を決めたような表情を浮かべ……私の目の前で、身に着けていた「それ」を脱ぎ捨てた。
……いつも右手に嵌めていた、黒の手袋を。
そうして素肌を晒した右の掌を、握手を求めるように私へと差し出してくる。
“それじゃあ……始めるよ。ユウカ”
「……はい。いつでもどうぞ」
ユウカが頷いたことを確認すると、私は差し出されたユウカの右手へと自らの右手を重ね……ゆっくりと、彼女の手を握った。
努めて優しく、慈しむように。
繊細に、壊れやすい硝子細工にでも触れるように。
傷ついてしまったものを労わるように。
「……っ」
彼女の手に触れた瞬間、ユウカの体がびくりと震える。
拒絶と嫌悪。そして……明確な、恐怖。
“ユウカ、やっぱり……”
「……大丈夫、です! 先生……このまま、つづけて、ください」
彼女を止めようと投げかけた言葉は即座に否定されて。
ユウカはぎゅっと目を瞑り、何かに耐えるように身を震わせて……それでも逃げようとはしなかった。
震えるその手で、私の右手を強く、強く、握り返していた。
……決して、絶対に、離したくないと言わんばかりに。
そんな姿を見てしまえば……私も、止めようなんて口にすることはできない。
そしてそのまま、私とユウカはお互いの手を握り合いながら、お互い一言も発することなく、ただじっと向き合い続ける。
………………、………………、………………、
十秒、二十秒、三十秒……チクタクと時計の秒針が時を刻む音だけが響き渡る、静かな、だけどひりつくような緊張感の漂う時間。
そして──その終わりもまた、突然で。
「……っ、はっ!! はぁ、はあ……!」
ぱっ、と、
唐突に、繋がれでいた手がユウカの方から離される。
「……ぅあ……はっ、はっ……は、ぁっ……」
そのままユウカはよろめき、背後のソファに崩れ落ちるように座り込んだ。
呼吸が荒い。目の焦点が合っていない。まるで吹雪の中で凍えているかのように全身が震えて、青ざめている。
──あの事件以来、ユウカがシャーレに通うようになってからずっと続けてきた、もう何度目になるかも分からない行為と、その結末。
何度も何度も、嫌というくらいに思い知らされてきた。今のユウカを前にして、私にできることなんて……ほんの少しも無いってことも。
そんな自分の無力さが、ただ悔しかった。
“……セリナ、お願い”
「はい! ……大丈夫ですか、ユウカさん?」
私がそう呼びかけると、私たちの傍に影のように控えていた桃色の髪の生徒……トリニティ救護騎士団の鷲見セリナが、急いでユウカの元へと走り寄る。
「ユウカさん、頑張りましたね。……まずは呼吸を整えましょう。さあ、ゆっくりと息を吸って、少しだけ息を止めて、それからまたゆっくりと、ゆっくりと吐いて……」
冷静なセリナの指示に従い、ユウカは震える体を掻き抱いて、何度も、何度も息を吸って、吐いて……少しずつ、ほんの少しずつ、乱れた呼吸を整えていく。
「……確かにユウカさんは頑張ってます。でも、少し頑張りすぎです!
お気持ちは分かりますけど、無理をしすぎるのはむしろ逆効果ですから。今度からはもう少し余裕を持ってストップをかけるようにしましょう」
「……うん。そう、ね。……ごめんなさい」
ユウカ自身も無理をし過ぎた自覚があったのだろう。窘めるようなセリナの言葉に素直に反省の色を見せる。
……当然のことだけど、同性であるセリナに触れられたからといって、ユウカが取り乱すことはなかった。……私とは違って。
本当に、セリナがいてくれてよかった。
“お疲れさま、ユウカ。……大丈夫?”
ユウカが落ち着いたのを見計らって、彼女に労いの言葉を掛ける。……それ以上のことができない自分を少しだけ呪いながら。
第一、どの面を下げて言葉を掛ける資格があるというのだろう。……今のユウカがこうなってしまった元凶は、他ならない私なのだから。
「……あ、はは。平気ですって先生。これくらい大丈夫です。……それより」
ユウカは力無く笑って、私と繋いでいた手とは反対側の手……左手にずっと握っていたスマホの画面に視線を落とす。
そこに表示されていた幾つかの数字の羅列。それを確認したユウカの顔が、ぱあっと花咲くように明るくなる。
「あ……やった! やりましたよ先生! 1分29秒! 新記録です! えへへ!」
先程までとは打って変わったような満面の笑顔を浮かべながら、ユウカはスマホの画面を私に見せてくる。
そこに表示されていたのは、何の変哲もないストップウォッチアプリの計測時間。
計測されていたのは──私とユウカが手を繋いでから、離すまでの時間。
“やったねユウカ! ……ユウカは本当に、偉いよ”
本心からの言葉ではあったけど……私の内心は複雑だった。
ここまで頑張ってきたユウカを純粋に讃える気持ちが半分と、もう半分は……
憔悴し、青ざめた顔で、それでも心から嬉しそうに微笑むユウカの姿が……あまりにも痛々しくて、見ていられなかったから。
──1分29秒。
それが、今のユウカと私が触れ合っていられる時間の限界だった。
∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴ ∴
──あの事件以来、ユウカは異性と接触することに対して極度の恐怖心を抱くようになった。
男性に触れると──場合によっては近寄るだけで、呼吸の乱れや悪寒が止まらなくなる。酷い時には、そのままフラッシュバックを起こして一歩も動けなくなることすらあったくらいだ。
見知らぬ人だけではなく、親しい知人であっても……私でさえ、例外ではなくて。
「……典型的なPTSDの症状です。決して目には見えない、だけどあまりにも深い傷跡が、ユウカさんの心にはまだ残っているんです」
とはセリナの弁だ。
……セリナには今、こうして時々シャーレで行われるユウカの心的外傷のケアに協力して貰っている。
もちろん彼女が属する救護騎士団の団長であるミネも了承済み……というより、元々この協力関係はミネの方から持ち掛けられたものだ。
発端は少し前、町中で「発作」を起こしたユウカを巡回中のミネがたまたま発見し……悪質な薬物中毒者であると誤解して直ちに「救護」を行おうとした出来事だった。
結果的にすぐに誤解は解けたものの……事態を重く見たミネは、すぐさま救護騎士団の主導によるユウカの後遺症の治療プログラムをミレニアムに打診してきた。
キヴォトスの技術の最先端を標榜するミレニアムではあるものの、こと医療分野に関しては経験豊富な実働部隊を有するトリニティやゲヘナには人材やノウハウの面で一歩及んでいないのが実状だ。
だから、ミネからの打診はミレニアムにとっても渡りに船と言えた。
……ただ、政治的な問題を考えた場合、トリニティの一部活である救護騎士団が大っぴらにミレニアムの生徒であるユウカを支援するわけにもいかない。
たとえ救護騎士団が純粋な善意からユウカへの治療を申し出ていたとしても、トリニティ内部の派閥の勢力図はハナコをして伏魔殿と言わせしめるほどに複雑怪奇だ。
ミレニアム首脳部の一角であるユウカが精神的な疾患を抱えており、それをトリニティの救護騎士団が治療しているという事実が公になれば、その事実をミレニアムに対する交渉のカードとして利用しようと考える派閥も現れかねない。
最悪の場合、今後のトリニティとミレニアムのパワーバランスにも影響を及ぼす可能性すらある……とのことだった。
だからこそ、当事者であるユウカとミネ、そして私も交えて慎重に話し合った結果、いくつかの方針が決定された。
第一に、ユウカの治療はトリニティ=ミレニアム間の外交上の取引ではなく、あくまで救護騎士団の一般的な救護活動の範疇として扱い、患者の素性や状態に関しては決して外部には漏らさないこと。
そして第二に、救護騎士団からユウカへの治療行為に際しては、トリニティにもミレニアムにも属さず、政治的にも中立かつ信頼のおける第三者機関である「シャーレ」の先生……つまりは私の立ち合いと監査を義務付けること。
以上のような経緯から、救護騎士団からはユウカの治療担当としてセリナが派遣され、私の立ち合いのもとシャーレでのユウカの治療および経過観察に当たることになった。
そうして行われるようになったのが、ユウカに対してのシャーレの当番という体裁を取った「診療」であり……さっきまでの私とユウカの行為の正体だった。
「ユウカさんの心が弱いとか、強いとか、そういう精神論でどうにかなる問題じゃないんです。もちろん先生に非があるわけでもありません。
譬えるなら、一種の心のアレルギー反応……アナフィラキシーショックのようなものと言えるのかもしれません。
……想像を絶するストレスに晒されたユウカさんの精神的な防衛機構が、ユウカさんの心がこれ以上傷つくのを防ぐために、その元凶となった『異物』に接触した時、それを全力でシャットアウトしようとする。
その結果として精神と肉体のバランスが崩れ、ユウカさんの心や体を蝕んでいるんです」
セリナは沈痛な面持ちでそう語っていた。
目に見える怪我や病気じゃないから、薬や手術でどうにかなる問題じゃない。だから……ゆっくりと時間をかけて、少しずつ克服していくしかない。
その治療法をセリナから提案された時、「相手役」として私を指名してきたのはユウカの方からだった。
ユウカはセミナーの会計として数多の研究の統括とその予算管理を一手に担う立場にあって、その立場上、学内ではなく学外の人間……時には大人の男性と接さなくてはならない場面も少なくない。
今はまだ、ノアやミレニアムの皆のサポートで何とかなっているけれど……最悪の場合、会計の座から退くという選択肢すら考えなければいけなかっただろう。
それでも責任感の強いユウカは、自分に課せられた職務を投げ出せなかった。
自分を蝕むトラウマを、ユウカは少しずつでも克服しようとして……その協力を私にお願いしてきたんだ。
今回ユウカと私が行っていたのは、いわゆるエクスポージャー療法。心的外傷の治療に用いられるアプローチの一種、なのだそうだ。
ユウカのトラウマの元凶となった事柄へと、ユウカ自身が耐えられる範囲であえて身を曝して向き合うことで、少しずつ耐性をつけていく。
たとえば、一人で外出すること。たとえば、異性と触れ合うこと。
こうしてユウカがシャーレに赴いて、私という異性と間近で接して、手を握って……それら全てが、彼女に対する「治療」の一環。
ユウカが私を指名してくれた理由は、本当に単純なことで。
ユウカにとって、最も身近で信頼できる大人の男性──警戒しなくていい、怖がらなくていいって心から思えるような相手。それが私だったから。
彼女からそんな風に想われていたことを知れて素直に嬉しいけれど……今のユウカの状態を見れば、とても喜ぶことなんてできない。
最初のうちは、ほんの数秒間触れ合うだけで限界だった。
それを思えば十分な進歩だって言えるけど、それでも……
ただ、ほんの数分足らずの間、手を握るだけ。
それだけで、この有様だ。
こうして苦しむユウカの姿を目の当たりにするたびに思い知らされる。
何一つ、元通りになんかなっていない。私は結局、彼女を救えてなんかいなかったってことを。
私は……どうしようもなく無力で、役立たずだ。
苦しんでいる生徒を目の前にしていながら、何も、何一つとして、助けになんてなってあげられない。
生徒のための先生を標榜しておきながら……なんてザマだ。
彼女が負った傷はあまりにも深くて。私じゃどうすることもできなくて。
……もしかしたら一生、元通りになんてなれないのかもしれない。
それでも。
“……ユウカ”
「先生?」
今の私にできることは、ただ……
彼女がそれを望む限り、ずっと彼女の手を握ってあげることだけで。
そうして何度でも、何度だって、伝えてあげることだけで。
大丈夫だよって、怖くないよって。
警戒しないでもいい、怯えなくてもいいんだって。
ユウカが心の底からそう思えるようになるまで。安心できるまで。
ユウカがまた、私を信じてくれるまで、ずっと。
私だって、ユウカと一緒に頑張るから。
だから──
“もう少しだけ──ユウカの時間を、私に預けてくれるかな?”
「……当たり前、じゃないですか」
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