手ぶらでエクストリームな帰寮をした話

 手ぶらでエクストリームな帰寮をした話

 やどんの人

 11月末になると、熊野寮は異様な雰囲気に包まれる。熊野寮祭。1週間、寮生が自分たちのやりたいことをやってバカ騒ぎする。そんな熊野寮祭の中でも、一際目を引くバカな企画がある。エクストリーム帰寮。知らない場所に飛ばされ、そこからスマホも財布も使わずに歩いて帰ってくるというのが趣旨の、非常にシンプルな企画。参加者は事前に寮からの直線距離を指定し、それに沿った形で運営側が場所を決定、車で輸送、置き去りにするのだ。距離は15kmから5km間隔で細かく指定することができる。スマホや財布は禁止とは言ったものの、運営はtwitter等での実況を推奨している。参加者の生存確認を兼ねているのだろう。Twitterあるいはインスタ映えの観点から見ても、途中での買い食い等もシンプルにウケそう。積極的な金銭利用もすべきなのであろうか。説明が長くなってしまったが、このような狂った企画が恒例企画として毎年開催されている。そして自分はそんな企画に「やどん、やる?」「うん」といった二つ返事で参加することになってしまったのだ。当日の深夜、出発の4時間ほど前の出来事である。

 当初自分はパーカーを着て参戦するつもりであった。当然であろう。ヤドンの着ぐるみは室内用であり普通の人間であればそもそもそれを着て外出しようなどとは思わない。しかし自分は着てしまった。ある悪い後輩の「やどんさん、着ぐるみ着ないんですか」という一言によって。深夜、スマブラ大会終わりで疲れ、浮かれていた自分の判断能力は著しく鈍っており、この言葉を聞いた瞬間、「まあ、いっか」と思ってしまったのだ。車に乗り込んだ自分の持ち物は着ぐるみのみであり、本来あったほうがいい財布や携帯の類いは一切含まれてはいなかった。着ぐるみを着込んだ自分の手持ち無沙汰を慰めるのは、支給品の食パンと10粒ほどしか残っていない龍角散のど飴だけであった。

 ほとんど眠れないまま夜が明け朝日が車内に差し込んできた頃、自分は降ろされた。見たこともないダム湖で。ここはどこだろう。記念撮影をさせられた。運転手達がスマホで現在位置を見ながら爆笑している。ほどなくすると車が遠ざかって行った。とりあえず現在位置を確認せねば。どうやら青土ダムというらしい。聞いたことがなかった。だが案内板からここが滋賀県であるということだけはわかった。わからないので来た道を戻ることにした。すると目を疑うような標識が目に入った。

“鈴鹿スカイライン”

「鈴鹿?もしかして、サーキットの鈴鹿?」

思わず目が眩んだ。どうやら滋賀と三重の県境で降ろされたらしい。甲賀市であることはわかっていたが、広大な甲賀市の奥深くの辺境で降ろされるとは。長い戦いがはじまる。そんな予感がした。実際長かった。来た道を戻る。そうすれば案内標識に出くわして幹線道路に出られるだろう。そう思っていた。甘かった。いつまで経っても幹線道路に出ない。そんなとき自分はある一つの事実に気づいた。辺境のくせにやたらとトラックの往来が多いのである。「もしかして、これらのトラックは全てダムに用がある工事用のトラックなのではないか。これが来た道を辿れば幹線道路に出られるのではないか。」予想は的中した。程なくして、国道一号の存在を表す道路標識が現れたのである。思わず「うおおおっ」と叫んでしまった。一人で。山中の道路沿いで。やどんの着ぐるみを着たまま。こうして着ぐるみの男は人里へと下山することに成功した。6時半頃にスタートしてから、2時間ほど経ってのことである。

 めでたく国道1号へと降りて来た自分は、この国道に沿って行動することを決意した。ちなみに補足すると、国道1号とは東京から大阪までを結ぶ国道であり、旧東海道とほぼ同じルートになっている。つまり、これを辿るだけで京都まで辿り着くことができるのだ。もしこれの早期発見に失敗していたら、無事では済まなかったであろう。それほどまでにこの発見は決定的なものであった。まず地名を確認した。土山。これまた聞いたことがなかった。まあでも国道1号だし、どっち方向かさえわかれば大津あたりにまで出られるだろう。そう考えて大津と書いてある方向へと歩きだした。しかしここでアクシデントが発生した。ほぼ徹夜状態で山の中を歩き回った自分の体が既に黄色信号を発信していたのである。そこで一旦バスの待合室のベンチで休憩することにした。するとほどなくして、体がベンチに横たわっていくのを感じた。次の瞬間にはある程度眠気の取れた状態になっていた。どうやらベンチに横たわって小一時間ほど寝落ちしていたらしい。体力はある程度回復したが、日の出ているうちにできるだけ距離を稼ぎたかった自分としては、大変なロスである。だが同時に、手ぶらで失うものが何もないから、どこで寝ても問題ない、という新たな発見をすることができた。まあ、着ぐるみを着ているという重大な問題があるのだが。

 一般に田舎の人は都会の人よりもあたたかいというよくわからない認識がある。当時の自分も例外なくその認識をもっていた。そこで次なる問題「もし歩行困難な事態になったらどうしよう」という問題に対処するための方策を練ることにした。一番手っ取り早いのが、ヒッチハイクであろう。やどんの着ぐるみの不審者を乗せたがる奇特なドライバーがどれだけいるかは甚だ疑問であるが、一人ぐらいおるやろ。そう考えて、ヒッチハイクのための準備も念のため行うことにした。そこで、朝から何か作業をしている鉄工所のおばちゃんに声をかけることにした。

「すいません、A3の紙を一枚いただけないでしょうか」

 おばちゃんはすごく怪訝そうな顔をした後、無言で家の中へと入っていった。そりゃあそうであろう。こちらは全身ピンク色なのだ。普通こんな不審者とは関わりたくない、あるいは距離を置きたくなるだろう。しかし反応は意外なものであった。別のおばちゃんが出てきて、「ちょっと待ってね」と言って鉄工所の事務室のような建物へと入っていったのである。

「はい。これ」

「いいんですか!?ありがとうございます!!あ、すいません、何か書くもの、油性ペンとか貸していただけませんか?」

「はい」

「ありがとうございます!助かりました!」

「何に使うんですか?」

「ヒッチハイクです。今から歩いて京都まで帰るんですが、一応ヒッチハイクできるように紙も用意しておこうかなと思いまして」

「・・・はあ。大学生の方ですか?」

「はい、そうです」

「京都の大学?どこの大学ですか?」

「京都大学です」

「えっ京大・・・そ、そうですか。」

「はい。では、ありがとうございましたー」

「何か食べ物食べてる?」

「ロクに食べてないです」

「じゃあちょっと待ってて」

程なくして、おばちゃんはポカリの缶とKitKatをくれた。この支給品が自分の命を救うことになるのだが、それはまた少し先の話になるであろう。

 開始から5時間ほどが経過した11時半頃、一台のパトカーが目の前で停まった。二人の警察官がこちらに向かって歩いてくる。

「君、こんなとこで何してんの」

「今から京都まで歩いて帰るんです」

「は?」

「・・・いや、さっき通報があってね、こんなとこ歩いてたら危ないから、とりあえず降りなさい」

 どうやら歩道ではないところを歩いていたらしい。それで通報されたのだろうか。いや、理由はもっと他にありそうだが。

「君、身分証は」

「ないです」

「じゃあ、財布は」

「ないです」

「携帯は」

「ないです」

「は???」

「持ち物はパンと龍角散と、さっきもらったお菓子だけです」

「えっ、その、なんなん?なんで、そんな格好でそんなことしてるん?」

 そこで自分は警官二人に事情を説明した。自分が京大生であること。これはあるイベントの企画であること。二人は終始困惑していた。

 説明が終わると警官の一人が本部へと報告をはじめた。「こいつ何ももってなくて」「歩いて京都まで帰るとか言いだしてて」「京大らしいけどなに言ってるのかさっぱりわからんくて」という声が聞こえた。もう一人の警官に所持品を見せた。どうやら龍角散がウケたらしく、「龍角散笑笑」「いやwwほんまにww龍角散wwていうかwwなんやっけwwヤドンかwwww」と言いながら爆笑していた。困惑する先輩らしき警官、ゲラゲラ笑う婦人警官に見送られながら、歩行を再開した。「適当なお店で電話借りて、迎えにきてもらいなさい。そんなふざけた格好で、京都まで歩くなんて無理やから」という注意のみであり、お咎めなしであった。

 それからはひたすら歩いた。ただ歩いた。無心で歩いた。いや、実際には無心ではなかったかもしれない。体力と精神力が削られていることだけは確かであった。特に「大津まであと35km」の標識が与えた絶望感はなかなかのものであった。ひたすら道沿いを歩きながら、コンビニを見つけてはマップルを立ち読みし、ポカリの空き缶に洗面所で水をためて飲む。所持品はKitkat龍角散食パンのみ。所持金は60円(お金は食料費や最悪死にかけたときに電車に乗るための運賃になる、つまり生き延びる確率を上げる重要な物資であるため、道中自販機を見つける度に下をくぐっては硬貨がないか探していた。これはその末に手に入れた60円である)。これで何ができるというのか。甲賀市を抜けて栗東市へと到達したときには、もうすでに身も心も疲弊しきっていた。昼下がりの、スタートからおよそ8、9時間ほど経った頃のことであった。しばらくすると、国道1号から歩道が消えた。交通量が多すぎてとてもじゃないが歩けそうにない。迂回路も見当たらない。仕方がないから引き返して大幅な迂回をした。結果国道1号を見失って迷子になってしまった。脚が棒のようになり、太陽が傾きかけてきた夕方においての迷子である。まさしく泣きっ面に蜂であった。このころから自分は、可能性としての「死」を認識するようになった。おそらくkitkatや食パンによって補給したカロリーが尽きかけていたのであろう。気温の低下に伴い体温の低下も深刻なものになっていた。着ぐるみで柵を越え、草むらをかき分けながら、太陽だけを頼りにひたすら西へと歩いた。

 草津駅に着いた。時刻は17時ちょうど。辺りはすっかり暗くなり、足は既に歩行が困難になるほどの状態に陥っていた。しかしもう日は落ちた。太陽による方向確認もできないから、次迷子になったら本格的にやばい。ヒッチハイクもできない。京都まで帰るためには、歩くしかない。まさしくエクストリームな状況。ここにおいて、自分は国道1号のトレースを中止、近江大橋を用いたショートカットを決意した。この状況下でのショートカット。相当リスキーなことである。もし下手にショートカットをして迷子になった場合、「死」を迎える可能性が大幅に上昇するからだ。それでも決意した。それほどまでに体力的に限界であったからだ。だがここで一つ問題が生じた。体温の低下が深刻なものとなってしまい、体が思うように動かなくなってしまっていたのだ。なんとかして体温を上げなければならない。しかし暖をとるものを買う余裕など当然ない。あたたかい建物に入って暖をとってもいいが、そんな悠長なことをしていては心が折れてしまい精神的に自力帰還不可能になってしまう。そこで自分で発熱する一番手っ取り早い方法、かつ京都への帰還に役立つもの、として「走る」という行動をとることにした。歩くことすら困難なこの状況下において走る、ということが伴うリスクは計り知れなかった。しかし、これを思いついたときには、同時に「これをしなかったら、死ぬ」という自覚が芽生えていた。そして身体の細部にまでこの自覚が行き渡ると、それまで石のようであり、もはや自分のものであるという感覚すらなくなっていた脚が、途端に軽くなったのだ。おそらく、アドレナリンか何かの脳内物質による作用なのだろう。体が動くようになったことに対する歓びとともに、次止まったら体が動かなくなって死ぬな、という冷静な分析が脳裏に浮かんだ。幸い、おばちゃんのくれたポカリ缶のおかげで、水分は潤沢であった。「走る」ことによる脱水症状の心配はなく、近江大橋までの5km、精神的抵抗なく走り出すことができた。

 近江大橋に差し掛かった頃にはすっかり日が落ちて夜を迎えていた。体温の十分な上昇を確認した自分はそこで「走る」ことをやめ、近江大橋をわたりはじめた。琵琶湖を渡っているという高揚感が足取りを軽くしたが、本当の地獄はこれからであった。

 大津を越えると上り勾配の道が続いた。山科という町は山と山に挟まれている。つまり、この極限状態において山を2回、上り下りしなければならないのだ。精神の均衡を保つため「歩いて帰ろう」を口ずさみながらひたすら山道を歩いた。走る街を見下ろして。

 しかし精一杯の抵抗むなしく、地下鉄御陵駅を越えたあたりの最後の山登り、ここを越えたら左京区だ、というところで、体が再び動かなくなった。頭もなんだかぼーっとしてきた。視界がぼやけ、どんどんあたりが白くなっていく。

「あれ、今おれなにしてるんだろう・・・?」

 そう思いながらだんだん意識が遠のいていく。だがそこにおいて奇跡が起こった。なぜかはわからないがKitKatが一つまだ残っていることに気がついたのだ。生き延びたい。ただその一心でかぶりついた。すると若干視界が明瞭になり、歩く活力が湧いた。坂を登りきったら蹴上の疎水。ただただ登った。しばらくすると見慣れた景色が目に入った。京都盆地の街の明かりである。これが見えたときの歓びは、筆舌に尽くしがたいものであった。

 このような行程を経て、自分は約14時間半、約75kmを歩き青土ダムから熊野寮まで歩いて帰った。寮に帰りついた自分の姿は痩せこけ変わり果てていたそうである。帰寮後先輩方からいただいたうどんはコンビニうどんと思えないほどの絶品であった。

こうして着ぐるみの男は、色々な意味(だいたい悪い意味)で伝説となったのである。


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