慣れない仕事②
33人間、最初から持たないモノに対しては羨望以上の執着は抱かない。
しかし、元々当たり前にあったモノを失う苦痛は時に純粋な痛みを凌駕する。
それは五感だったり、故郷での日常だったり。
ありふれた家族の愛であったり。
潮時だ。
目の前の、椅子に拘束された身体を崩れる一歩手前で揺すり続けている男を見てそう思った。涎と涙で顔は濡れに濡れ、ボタボタと汚らしい音を立てている…はずが全くの無音の状態で、膝上のシミが広がっている。互いに唯一まともに機能している嗅覚はまだ不快感を拾っていないが、そろそろ時間の問題かもしれない状況。
音もなく立ち上がり、後ろに待機している部下に手で合図を送る。首肯が返ってきたのをしっかり確認するとこの部屋で機能していた能力をすべてリセットして、渾身の力を込めて革靴で床を踏み蹴った。
バァァァン!!と大きな音が鳴った。自分と部下は身構えることができたそれは、先ほどまでまともに働いていなかった故に異常に過敏になった相手の鼓膜を襲う。
「ギャアアアアアアアアア!!」
耳障りな絶叫と共に男の身体が跳ねた。かろうじて保っていたバランスは呆気なく崩れ、男が縛られた椅子と共に床に倒れた。その時もけして小さくない音が出て、なお男に容赦なく追撃する。
「うああァ……」
言葉になっていないうめき声。痙攣する男。
背中越しの部下に振り向かず話しかけた。
「後は任せる」
「了解しました。口を割らない場合は」
「また呼んでくれ。気は乗らないが2回目を…」
「っっひィ!!はなす!!はなすから!!!もういやだ…やだああああ…」
男は子どものように泣きじゃくっている。やつに食い物にされた子どもたちも同じように周囲に助けを求めたのだろうか。意識せず自分の顔が歪んだのがわかる。
「………この様子だと問題ないかと思われます」
「だな。じゃあ頼んだ」
「はっ!!」
進み出た部下が手慣れた乱暴さで男の身体を掴み上げた。それを一瞬だけ目に写して部屋を出る。
正常に戻りかけている耳が拾うボイラーの音が、頭をガンガンと揺らしている。
この感覚だけは、何度経験しても慣れない。
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ロシナンテが自室に戻ると、朝に医務室に呼ばれていったはずのローが静かに読書をしていた。
「おかえり」
「……おう!ただいま!」
反射的に明るい声と笑顔が出たことに自画自賛する。とはいえ正直なところ、今はあまりローと顔を合わせたくはない。いつ見せられたものではない表情をしてしまうか自信がないからだ。
そんなロシナンテの心境を知ってか知らずか、ローはこちらに近づいてきた足をふと止めた。考え込むように俯く姿に首を傾げていると、子ども特有のふっくらした指がピ、と入ってきたばかりの扉を指す。
「シャワー浴びてこい」
「へ!?いきなりなんだよ」
「えっと、なんか臭い」
突き付けられた言葉に慌ててスーツの臭いを確かめる。実際先ほどまでボイラー室に近い部屋にいたからやや油の臭いが移っているかもしれないが、不快感を感じる程度ではないはずだ。
「この後仕事ないって言われてんだろ」
「なんで知って」
「いいからすっきりしてこい!」
「うお!?」
体格差があるため背中に手が届かないので、ローは足を強引に引っ張った。子どもとはいえそこそこの力をいきなりかけられるとバランスを崩しかねない。大きく傾いた身体をなんとか立て直しながら、首を傾げたロシナンテが着替えを抱えて部屋を出ていくのを、ローが神妙な顔で見つめていたのを知る由もない。
港に停泊中のため使用する水に制限はないので存分に汗を流して戻ってきたロシナンテが見たのは、部屋に置かれた2つの椅子だった。それ自体は別におかしくはないが、配置の場所がややおかしい。窓に向いて前後にぴったり並んでいる。これでは前はともかく後ろの椅子には座ることはできない。
その横に立つローが持っていたのはタオルだった。海軍のシンボルがついているそれを両手で広げる。
「髪ふいてやるよ」
「へ!?いや別にそのままでも勝手に乾くし…」
「風邪ひくだろバカ」
座れ、と椅子を指して言う言葉には有無を言わせぬという迫力があった。おそるおそる座ると同時にタオルが頭にかけられる。ローが後ろの椅子に乗り、タオル越しのロシナンテの頭を両手でガシっと掴んでかき回す。
時々首まわりを揉んだり叩いたりすると、ロシナンテからは気の抜けた声があがった。
「ああ~そこそこ」
「オヤジくせェ」
「うっせ。ここまで身長伸びるとだいたいのもんを見るのに下向かなきゃいけないんだぞ。めっちゃ首にくる」
「悪かったな」
「そう思うならおれが見上げられるくらい大きくなれよ~」
「……なれたらな」
そうはならないことを知っているとは言えるはずもなく、ローは以降黙って目の前の髪に集中した。自然とロシナンテからも声が上がらなくなり、しばらく髪とタオルが擦れる音だけが部屋に響いた。
ローが再び口を開いたのは、概ね乾ききったというところであった。
「おれの父は医者だった」
唐突な話題にロシナンテの首が上がる。下向いてろという意味を込めて頭を押さえて、ローは話を続けた。
「時には難しいと言われた手術を何時間もかけて成功させて、町の人からはいつも感謝されたり讃えられたりしていた」
「いいお医者さんだったんだな」
「ああ。そんな父が誇りだった。どんな手術も父がいれば絶対成功すると、そう思っていた」
言葉の端に常に付く過去の表現について言及する者はいない。
「でも、ある日言われたんんだ」
「ん?」
手を動かしながら、ローは過去へと思いを馳せる。まだ自分が白い幸福の中にいた頃の、朧気ながらも消えずに残る記憶。
あれはたしか、町の人から父への感謝の言葉と共に土産を持たされ、それを渡したときだった…と思う。そして先ほどの言葉と同じようなことを父に伝えると照れくさそうに笑いながらも、今よりも小さなローの頭を撫でて言った。
『どんな医者も一人では手術を成功させることはできない。患者の容態をモニタリングしたり、医療器具を常に万全の状態で用意したり、そういった裏方の仕事をする人がいないと、手術は始めることすらできないんだよ』
当時、同年代の子どもよりは博識だったとはいえまだ幼かったローに、その言葉を完全に理解することは難しかった。それでもその言葉は記憶に残り続け、後に何度も反芻することになる。優しい父の眼差しと共に。
『世間の人が見て讃えるのは大抵執刀医だけだ。でも、本当に素晴らしいのはそういう裏の仕事をしている人たちであることを忘れてはいけないよ、ロー』
「………いい、父上だったんだな」
「うん」
乾ききった後もタオルはのせたまま、ローはロシナンテにマッサージを続けていた。顔はタオルがあるうえに伏せられていて後ろからは見えない。
固いな、とローは思った。肩だけでなく身体全体と、その表情が。そしてそれは遠い昔にどこかで見たことがあるような顔だと思い記憶を辿ると、いつかの2人旅にたどり着く。行く先々の医者に匙を投げられていた頃、彼が次の病院の情報をあさっている時によく見せていた顔。今思えば、彼も半ば暴走していたのだと思う。それを一番嫌悪していたのはおそらく彼自身だった。ここまでしても好転しない状況と、それをできない自分への怒り。その行為自体がローの心を温め溶かしてくれたのだということには、最期まで気づかなかったのかもしれない。
マッサージの手をとめて、両腕を目いっぱい伸ばして彼の頭を抱える。タオル越しの抵抗はなかった。
「なあロシーさん、あんたの力は戦闘とかにはほぼ使えないしすげェ地味だけど」
「急にイタイとこグサグサついてくるのやめろ!気にしてんだよ!」
おどけるように明るい声が返ってきたが、それをかき消すようにローは静かに言った。
「でもおれはあんたの力、優しくて好きだよ」
瞬間。ロシナンテの一切が止まった気がした。
ローは腕を緩めない。身を乗り出して背中にもたれかかる形になっているので、今は少しだけ早く脈打っているその拍動を聞く。しばらくして、ロシナンテが大きく息をはいた。上下する背中がローを揺らした。
「……はは……そっか、うん……」
背中が揺れる。ロシナンテの呼吸に合わせて……だけではない。
ローは自分の身体を揺する。小さな妹を抱えてよくやっていたときのように。大丈夫だと伝えるために。何がかはうまく言えないけれど。
「ありがとうな」
「ん」
それが何に対しての言葉なのかも聞かず、ローは短くそれだけを返した。
一つだけ、彼の力を『残酷だ』と思うことがある。
それは自分にとっては死ぬまで消えない傷として残るのだろう。
当たり前にあったモノを失う苦痛は時に純粋な痛みを凌駕する。
それは五感だったり、故郷での日常だったり。
彼が当たり前のように注いでくれた愛を、返すための時間だったり。