慣れない仕事①
33この能力を身に宿したとき、センゴクさんに釘を刺されたことがいくつかある。
一つ、自分にカームをかける時はできるだけ人がいる場所ですること。
一つ、サイレントを展開する時はできるだけ中に自分以外の人がいる状態にすること。
自分のドジを見越してのことだったのだろうとわかる。音の遮断とは情報統制の一種なわけで、自身から出せず出せても周囲に伝わらないとなると助けてもらうことすらできない。
当初こそ律儀に守っていたけれど、心身ともに成長した今では特に意識はしていない。自分のドジを自分でカバーできず海軍将校などできないのだから。稀に部下の手を煩わせることがあるのは、まあご愛嬌だ。
ただ、今でも一つだけ、常に意識していることがある。
一人の人間に、カームとサイレントを同時に使用してはならない。
「スワロー、今時間ありますか?」
「は?」
ローが大尉に声をかけられたのは、ロシナンテ隊付きの初老の軍医について医務室のの整理をしていたときだった。どうにも整理整頓が苦手らしい軍医に請われ医療品のリストアップをしていた手をとめ、訪ねてきて早々にそんなことを言ってきた男を見上げる。妙な笑顔に少々警戒しながら先ほどの問いに答えた。
「これがひと段落ついたらできるが…なんだよ」
「お茶に付き合ってほしいんです」
「はあ?」
今度こそ、ローは素っ頓狂な声を上げた。
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食事時ではないということもあるのか、いつもであれば数名の海兵がいるものだが今の食堂にはローと大尉しかいない。大半が現在停泊している町に出ており艦自体に人があまりいないのが理由だろう。
大尉の前で淹れたばかりのコーヒーが湯気を上げている。当人が遠征時にわざわざ持ち込んでいるこだわりの物らしく、砂糖やミルクといったものは見当たらない。一方ローの前には同じく湯気を上げる緑茶があった。こちらは食堂に常設している物だ。
「付き合ってくれてありがとうございます」
「いや、別に……というかあんた飲みすぎだ。過剰摂取は身体を壊すぞ」
「私にとっては燃料なんですよ。飲まない方が仕事に支障をきたします」
「中毒者かよ」
医者の観点から苦言を呈しつつも、ローにとってはそれ以上口を挟む理由はないので無理に止めはしなかった。一口飲んで、男はずいぶん長い息を吐きだした。
それはただコーヒーを味わっているという反応ではないことをなんとなく察する。遠慮してやるほど心を配ってやる義理などないので、すかさず斬りこんだ。
「で、あんたが燃料いれないといけなくなるほどお疲れなのはなんでだ」
それは暗にこの奇妙な茶会の理由を問うものでもあった。
ローの言葉に大尉は微笑みを返す。そこに喜びや愉快さといった感情は読み取れない。
「本当に素人とは思えない観察眼ですね」
「医者の仕事は患者の異常を把握するところからだからな」
「いい医者になりますよ。真面目に中佐付きを検討しませんか?」
「考えておいてもいい」
「ぜひお願いしますね」
わざとらしく話題をそらすのはこの男にしては珍しいとローは思う。コーヒーを無言で飲み進め、ようやく話が始まったのはローの茶が猫舌にも飲めるような適温になった後だった。
「スワロー、あなたは外傷を治す外科医志望のようですが、心理学には興味はありますか?」
「……まあ、それなりには」
「では、『感覚遮断』を聞いたことは?」
唐突に出てきた単語を、ローは頭の中の知識を総当たりして検索する。ふと昔、毎日のように読み漁っていた医学書の中にあった単語がヒットした。
「五感——つまり感覚に対する刺激を極力減少させること、であっているか」
「その通りです。適度に利用すればリラクゼーション効果も期待できますが、過剰に施すと精神状態に負の影響を及ぼすものでもあります」
「人間が正常な精神を保つためには、外界からの適度な刺激を受け続けなければならない…だったか」
「はい」
人間に限らず、すべての生き物は外界からの刺激に常に曝され続けている。そしてそれは生きていく上で必要な情報であると同時に、大小様々な脳への負荷となっている。それらを意図的に遮断することで思考に集中できたり脳を休ませることも可能になる。座禅や瞑想というものが典型的な例だろう。
しかし、遮断しすぎるとかえって生き物の精神は乱れる。普段無意識に取り込んでいる情報が圧倒的に不足すると、それらを補おうと他の感覚が過敏になってそこからの刺激が大きな負荷になったり、自分の現状を正確に認識できないことによる恐怖から幻聴や幻覚を体験したりするようになる。
後者の例を挙げようとなると一気に不穏なものが陰を落とす。たとえばカルト教団での信者への洗脳、あるいは…
「ですが、人間の五感すべてを完全に遮断するのは意外と難しい。一部に絞るとしても、対象によって難易度はまったく異なります」
どうですか、と勧められたチョコレートは少々苦みが強かったが疲れた体に沁みた。そういえば、味覚が鈍くなることも小さくないストレスになるのだとどこかで見た記憶がある。
「視覚は目隠しをすれば、嗅覚は鼻孔を塞いでしまえばいいのですが、触覚は皮膚そのものにかなりのダメージを与えない限りまず不可能ですね。あとは…」
「聴覚」
発言を遮るようにローが答える。机越しに睨んでくる子どもに動じることもなく、大尉は静かに、物騒な雰囲気を隠さず微笑んだままだ。
「音は物体の振動で伝わる。空気からも壁からも、自身の身体からも。完全に近い遮断さえ、真空状態でもない限りまず無理だ」
「そう…本当に博識ですねあなたは。なので、もしそれを完全に、しかも条件問わず任意で遮断できる『技術』があるのであれば———」
「尋問、あるいは拷問の分野においてかなりの需要があると思いませんか?」
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適材適所という言葉がある。
個々が持つスキルを最大限に活かせる事案に従事させることは組織として基本の動きである。
報告を聞いた大尉は、その場に彼も同席するように手配したことを心底後悔した。
感情のコントロールにやや難がある己が上官は普段の言動に反して苛烈な面を併せ持つ。それは一歩間違えれば市民へ向けられてもおかしくない境遇ではあったが、養父の教育が功を奏しそれは実現しなかった——彼と同じ境遇にいた者は残念ながらそうはならなかった…いや、そうなってしまったようだが。
しかし、ある意味ではそれが彼のスイッチを固定した。世界に起こる理不尽に対して、罪なき市民が傷つき涙を流すことに対して、彼の感情はたまに暴発する。
今回とある町で捕らえられた男は、犯罪者としては実に小物としか言いようのない存在だった。しかし、奴の『商品』が子どもであることと、その『流通ルート』に対して未だ口を割らずにいるということを報告されたとき。
彼の靴音がやけに大きく響いたことに、大尉の背中が僅かに冷えた。
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すでに互いのマグカップは空になっていた。しかし大尉もローもそれを片すことも席を離れることもしない。
「しかし、この『技術』の運用については一つ注意点があります」
「………」
淡々と続く話を、ローが何を思って聞いているのかは大尉には掴めない。しかし構わずに進めていく。その裏にある願いをこの子は読み取ってくれるだろうという確証があったからだ。でなければ子どもにこんな話題を振るわけがない。
「最終目的は情報を引き出すことなので、疲弊しつつもまだ話すことはできる程度…『かろうじて壊れていない』という状態で止めなければなりません。そのタイミングは対象自身や環境によって異なりますから、使用者が途中で目を離すことは推奨されない。まあ、その『技術』の一つが使用者が内在していないと展開されないようなものなのであれば、そもそも離れることができないわけですが」
ローの表情に動揺が走る。すぐにそれは、苦虫を噛み潰したように歪んだ。きっと自分もあの部屋を出るときに同じ顔をしていたのだろうなと大尉は思う。
艦の底部にある小さな部屋。身体を拘束され、分厚い目隠しで視界を閉ざされ、そして彼の能力で自分の出す音も周囲から聞こえる音も一切を遮断され、涙と涎を溢れさせながら小刻みに震える小悪党。椅子に腰かけ、内部でけして音を出さないように自分にも能力をかけて、その光景を無表情で見ている彼。
「適材適所とはよく言ったものです」
大仰な道具は必要ない、相手に外傷を与えることもない、この上なく効率的な尋問。実行可能なのは、現在の技術では彼の能力のみ。そこに彼自身の性質は考慮されていない。
「…………ああ。なんともクソったれなことだ」
「同意します」
ローはカップを持って席を立った。返却口にそれを返すと、席には戻らず入口へと向かう。これ以上話す気はないとでも言うように。
大尉は動かず、背後にいるであろうローに短く言葉を投げる。
「任せてもよいでしょうか」
それだけだったが、それで十分だった。
「………構わない。が、勘違いするなよ」
「あんたに請われてやるんじゃない。おれがやりたいからやるんだ」
②へ続く