慇懃
「─────っ、やっと終わった…………」
人理修復を成し遂げた人類最後のマスター。
彼は此度の微小特異点『戦国爆走高道・MAKAI』に関するレポートを書き終え、榻背に凭れる形で背伸びした。
今夏、行われたサーヴァントサマーフェスティバル…略称サバフェスにて滞納していたレポートの処理を追われた負の実績を持つ彼は同じ轍は踏まないとして、敏腕編集者クロエからのメモを元にレポートを書いていた。
今魔川大将、東海道、北海道、西海道、南海道覇王との大連戦もとい素材集めに東奔西走した疲労、超五稜郭の力で強大な存在となった海道覇王ウジサネとの対峙による気疲れもあるが、それも今回の騒動を簡潔に纏める事とレポートの滞納に比べれば恐るるに足らない。
幾多もの特異点、果ては異聞帯を踏破してきた彼にとってはマスターとしての業務と並行して行う職務の完遂が出来ず、所長に悲しい目をされる事が何よりも辛い事なのであった。
「………ふぅ」
レポート提出のボタンを押した事を確認した後にディスプレイの電源を切ると、椅子から立ち上がり再び大きく伸びをして、肩を回す。
首も凝っている為、動かしたいのだが以前、廊下でした際に偶然にもその様子をナイチンゲール女史に見られ、叱咤された事でしないように気をつけている。
彼女の事、首の折れる音を自室で響かせてしまえば壁を突き破ってきそうで怖いというのもあるが、壁の修繕費(QP)を払うのが面倒だという世俗的な側面もあっての思考である。
ふとデジタル時計を見れば深夜二時。職員の一部は勿論の事、生前の習慣が染み付いている一部のサーヴァントも就寝している時間であり、かく思う彼も寝るに十分な時間。
だが睡魔は今の彼を襲う事はなく、逆に目が冴えている気さえする。身体を休める為にも睡眠は摂るべきなのは彼も承知しているが、仮に今、寝台に横になったとしても寝付きが悪くなるだろうと直感的に理解し、また直ぐに寝なくとも彼自身に悪影響が無いのは他でもない彼が分かっていた。
こと睡眠に関して、彼は特異な体質であった。
どれだけ長く短く眠ろうと日中に影響が無く、また東雲が昇ろうとしている時まで夜明かししていようと一度寝てしまえば何の支障も無く、日中活動が出来る───────体質という表現では生温い、病魔の類。
カルデアに来訪する以前の彼はこの特殊能力について自覚しておらず、人理修復の折に勤めていた医者から告げられた。
医学的に解明できない文字通りの身体の神秘とその医者からは告げられ、その医者がいなくなった後、彼の体質について知っているのはサンソンを始めとするカルデア医療班と常時バイタルチェックを行っている職員のみである。
彼にとっては隠す程の秘密ではないのだが、夜、それも就寝時となると日々傍にいるサーヴァント達もマスターのプライベートも守ろうという理解もあって、部屋には行かなくなり、最近では通風口に魔術障壁、部屋に防音設備と艦内の強化をした事もあって更にその秘密を知るサーヴァントは減っていた。
無論、それは新参のサーヴァントの話であり、既に古参のサーヴァントであればそんな彼の秘密も一つの常識となっている。そしてその秘密を個人の物としたいサーヴァントも(誰とは言わぬが)多く居る。
そうして彼の体質についてはカルデア七不思議の一つとして彼の知らない間に数えられていた。
一応、野宿にて寝る機会もあるにはあるが、突然のワイバーンやキメラ、悪霊などといった緊急事態に起きる事が殆ど、見張りは同行したサーヴァント達に任せて眠っている事が多いのだから、やはりというべきか、彼の体質について知る機会は少なかった。
◆◆◆
寝ようと思えば寝られる。だが最低でも数十分もあれば彼にとって睡眠は事足りる。
故に彼にとって夜とは『夜更かしをする時間』という意味合いが強い。こうしてレポートを書いていたのもその一貫であり、殆どの場合はライブラリの閲覧をしたり、地下図書館にて借りた本の返却期限までに読み終えたりと時間を消費している。
実際、次にする行動としてシャワーを浴びた後に本でも読もうかと思っていたのだが最近は忙しかったのもあって借りていなかった事を思い出した。
一応、本と言えば本ではあるが刑部姫(アーチャーの方もアサシンの方も)、ジャンヌ・オルタ(バーサーカー)の執筆を手伝った時に貰った薄い本はあるが、このような夜半に読む気分ではない。
さてどうしたものか─────────とベッドに腰掛けて、天井を見つめること数秒。
「……………行くか」
やおらに彼は立ち上がるとポールハンガーに掛けていた灰色のジャケットを羽織る。
ミス・クレーン、ハベトロットの工房謹製のこの衣服は普段ならある衣服を着用した際の圧迫感というものが皆無であり、先程と同様の解放感を彼に与えてくれる。
また防寒防暑防風といった環境に配慮している為、レイシフトの際には魔術礼装の上に羽織る程には彼のお気に入りであり、勝負服と化していた。
部屋の電気を消し、廊下へ出ると上着を着ているというのに不思議と肌寒さを感じた。本来ならば12月上旬。夜は特に寒気が本格的になるのを身体が覚えていたのだろうか。
足元の照明が等間隔に並び、消灯した通路を形作る様からは日中の騒々しさが嘘のように感じられる。食堂へと向かう廊下の方に耳を欹(そばだ)てれば酒盛りでもしているのか、微かに聞こえてくるは話声と笑声。
ただ今の彼は食堂に用は無い。酒宴もたけなわという所に割って入る程、肝が太くないというのも一理あるが、既に自室から退出した時点で彼の目的は決定しているようなもの。食堂へ行く選択肢自体、最初から彼の頭の中には無かったのである。
(…………)
『彼女』の部屋へと向かいながら、現在まで続く彼女との関係性を彼は思い返していた。
切欠はそう、些細な事だったと彼は考えている。
◆◆◆
彼の自室は就寝時間と設定している午後9時までは施錠しておらず、サーヴァント、職員問わずその出入りを自由としている。
故に彼が微小特異点の修復や種火の回収やらサーヴァントの強化素材集めでいない時にはレクリエーションルームと並ぶ、サーヴァント達にとっての憩いの場とされている。
誰が決めた訳でもなく在籍するサーヴァント達が多くなっていく度にその暗黙の了解は生まれたが部屋の主たるマスターはそれを咎める事もなく、自然体での交流を深めていく為に必要な事だとして部屋を解放している。
そんな事情もあって誰かしらサーヴァントが彼の部屋には滞在している事が多い。そして彼と彼女の関係性も其処から始まった。
借覧に夢中となり、二つの呼吸音が部屋に染み入っていく中で彼は──────
『童貞、捨てたいなぁ』
と呟いた。ぽつりと零した、時間にして秒にも満たなかったその言葉は場の空気を一変させた。
意図して出した言葉ではなかった。ただ本を読みながらぼんやりと考えていた事が空調で暖かく、静かな空気の中で淀みなく漏れ出ただけ。つまるところ彼の意識の緩みと隙間風を通す襖と同等に開けていた口が原因であった。
今、後悔するのは無駄だと当時の彼は直ぐに思考し、反応した彼女へ淡々と詭弁を弄する事を決めた。ここで慌てふためいては揶揄われてしまうのは一度もこのような失言をした事がない彼でも予見できる。
ならば取るべき行動はこの場の空気を先程までの平穏なものに戻す事。今までに培ってきたコミュニケーション能力を発揮する為に彼は口を動かそうとして。
機先を制したのは彼女の方だった。
曰く、私で良ければお相手いたしましょうかと。
その言葉の意味が分からぬ彼ではなく、文字通りの意味だと即座に理解する事は容易であったが、吞み込むには数秒の沈黙を要した。
そしてそれ以前に手を出したら問題なのでは─────という至極真っ当な反論を彼は述べようとしたのだが、それを遮るように彼女は言葉を紡いだ。
「マスターとしての任務に追われ、また責務に負われる日々の中では溜まるものもあるというのは理解しています、ですから」
「ま、待って欲しい。別にそのような手段に頼らなくとも…」
「確かに現世ではこうして解消法は沢山ありますが……あくまでもそれは一時しのぎでしかないのは他でもない貴方が分かっているのでは?」
「…………」
◆◆◆
口答は、出来なかった。
自分に嘘はつけない。つきたくない。それさえ否定しまえばきっと、自分の何かが壊れてしまうと感じていた。だから返答はせず、閉口を以て、応えた。
サーヴァントとは男女問わず、魅力的且つ蠱惑的な者だと彼はマスターとして今日まで思っている。一時の主従関係といえど、その垣根を越えた関係性になりたいと思った事も人理修復の際には呑気に思っていた頃もあったが、
人理漂白、そして人理の壁の踏破をする為の旅路を歩んでいる現在ともなり、接する時間と数が増えると、その美的感覚も性的好奇心も麻痺してきた。
だからそういった欲も薄れていくだろうと漠然と、確証もなく結論付けていた。
確かにその結論は正しかったと日を追うごとに実感した。そんな事を考える暇が無い程、多忙な日を送っている事もあってその確実性は上昇していった。
一日の『大半』はそうだった。だが日の終わりとなると独りとなる事もあって、周囲に向けていた意識も自分に向かい、脚下照顧……自分自身を見つめる事も多くなる。
そこで漸く彼は欲望を御していたのではなく、単に眼を逸らしていただけだと気がついた。煩悩を抹消するなど、聖人でもない凡人が出来ようはずも無かったのだ。
これ以上の愚行は存在し得ないだろうと、その時の彼は自分への嘲笑を禁じ得なかった。
以降、自覚したからかその欲望は肥大化している錯覚を彼は覚えている。端的に言ってしまえば飢えている。ふとした瞬間に過る。この女性ならばどんな表情を見せるのだろう、どんな嬌声を上げるのだろうと。他のサーヴァントや職員達と話をしている際でさえ頭の片隅にはある始末で、そんな自分に嫌気がさした事もある。
夜半に彷徨い、本を読み耽り、ライブラリの閲覧に投じるのも目を逸らし続けてきた獣欲と向き合い、そして押し殺すのも兼ねていた。
また彼が無自覚とはいえ己を中心に回っているといっても過言ではないこの組織で、不義を働く訳にはいかないという思考になっているのもあるだろうが、
隠し事はいずれ何処かで曝露するという人生訓が根底にあるのも一つだった。
ヒトは綺麗事だけでは生きていけない。誰しも明かしたくない秘密を持つ。彼は人類最後のマスターであるが、今を生きる人類でもある故にその両面価値を持っている。
秘密の花園は今も尚、来訪者を待ち侘びている。
◆◆◆
「───ター………」
「………」
「───スター……」
「………」
「───マスター………」
「………」
「───マスター!」
「……っと、すまな──────いっ」
思考の海から脱すると彼女の顔が文字通り目と鼻の先にまで近づいていた。数分間も何も言わず、眠っているのならば兎も角、目が据わっているマスターを見ていて何も感じず、また行動しない彼女ではない。
今更ではあるが肩を強く揺さぶられたような感覚がじんわりと残っている。何度も肩を揺らして、何度も呼んでいたのだろう。
ベッドフレームに腰掛けていた筈の肉体は今、マットレスの上に在った事にも同時に気づく。動いた事すら自覚できない程、銷魂していた自分に落胆した。
垂れる藤色の長髪が頬を擽り、馬乗りになった事で程よく肉が付いた腿と腹は服越しに重なり合い、彼の行動を束縛している。真四角の瞳孔は彼を捉えて逃す事は無い。蛇に睨まれた……と自国の言葉では言ったが、彼の状態はその諺語そのものだった。
傍目から見れば彼女に押し倒されているようにしか見えない、というよりその状態のまま、彼女は静かに口を開く。
「貴方は私を含めた数多くの英霊と契約し、指揮するマスターであると同時に、ただの人間であるのは貴方自身も自覚していると思われますが」
「まあ、そう……だね」
「ええ、再三言うように貴方はただの人間です。性欲を持て余すも、それを理性で隠す事が出来る。社会で生きていく上で必要な技能といえるでしょう。
ですが制御とは言い換えてしまえば我慢……そして我慢は過ぎてしまえば毒になるのではないでしょうか」
「確かに」
「それに───」
彼に語りかけているようで、彼女自身にも言い聞かせているように澱みなく続く彼女の言葉は聞こえた。
互いの息遣いを感じ、唇が触れ合いそうな距離のまま彼女は話を続けている。内容は耳朶に入っては通り過ぎて行く。頭で理解するまでもないという事か。
恐らくこれは彼女にとってのお膳立て。そうありつつも彼女は『其れ』を強要するつもりは毛頭ない。
ただ叶うのなら自らの意思で皿に乗る事を彼女は期待している。
もし彼がこの場で衝動に身を任せ───────彼女の希望に応えられなくとも……彼女が拒絶する事は無い。押し倒されていながらも彼の思考回路は正常に働いた。
色慾の熱を宿しながらも見下ろす様は冷たく、決して温まらない瞳が近づく。睫毛の数が数えられるぐらいに近づこうが彼女は止めない。ただ静かに彼の食指が動くのを待っていた。
(………………)
触れずとも感じられる彼女の柔肌と体温、放つ色香に喉はこくりと鳴った。
決心がついたのか、誘惑に負けたのか。ただ彼女の期待に応えようとしたのは紛れもない事実だった。
彼は無言で腕を伸ばすと彼女の頬を顔の輪郭に沿うように撫でつつ片方は彼女の細腰を掴み、抱き寄せる。
唇どころか睫毛さえ触れ合いそうになる距離まで近付くも、何方にも動揺の色は見られず、会話は続く。
「…………後悔は、しないでほしいな」
「しませんし、させませんよ」
「そう」
そこから先の事は覚えていない。長らく貞節を貫いてきた彼にとっては刺激が強過ぎた行為だったのは火を見るより明らか。寧ろ及ぶ直前まで冷静で居られただけでも良い方だろう。
脳を快楽の波が支配し、彼の理性を焼き焦がし、彼女を衝動の儘に貪ったというのは汗ばんだ身体と、部屋に立ち篭める淫臭が教えてくれた。
件の彼女は部屋から去っており、脱ぎ捨てた服がミニテーブルの上に綺麗に畳まれ、裸体には布団が掛けられていた。昨晩が終始一貫して優位に立ち回ったのだろうというのが覚えてなくとも、ありありと目に浮かぶ。
耐性が無かったとはいえ、初の経験を記憶できなかった事を彼は少し悔やんだが。
唇に残る柔らかな感触、舌で感じる仄かな甘味は。忘れようがなかった。
※まだ続きます。