想いにつける名前

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その1

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その2

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その3

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その4

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その5

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 遠いところから誰かがせせら笑っている。


──お前が望むなら、何度だってやり直させてあげるよ。


──ただし、何度でもバッドエンドだけどね? あはははははは! 


 それでも良い。俺は願う。本当に大切な、掴みたい絆を結び直すためなら、何度でも、どんな結末でも構わない!


──なら、リトライだ。


「拓海!」


 ゆいの声にハッとして振り返った。

 俺のいるベランダと、ゆいとゆりさんがいるリビングの間の床に深い亀裂が走っていた。

 ベランダが傾き、俺は転びそうになって咄嗟に手すりにしがみついた。

 一方リビングでは、ゆりさんが虚な目をしながら立ち上がっていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

「ゆりさん、待って!」


 ゆいが制止するが、ゆりさんの足下が崩れ落ちた。

 瞬間、全てがスローモーションに見えた。

 瓦礫と共に奈落の底へ落ちていくゆりさん、そのゆりさんに手を伸ばそうとして自らも落ちかけようとするゆい。

 引き伸ばされた時間の中で、俺の背後からアニマーンが言った。


「選べ、品田拓海。和実ゆいを助けて共にこの世界から立ち去るか、月影ゆりを助けてこの世界に留まるか、選べ!」


 その言葉と共にスローモーションが解けた。

 俺は──






【ルート分岐】

・ゆいを助ける

・ゆりを助ける。



・ゆいを助ける。◀︎


 ゆいが、自分の身を顧みずにゆりさんへ手を伸ばそうとしているのを見て、俺はベランダから飛び出した。


「ゆい!」

「拓海!?」


 俺はゆいを抱きかかえると同時に、ゆりさんへも手を伸ばす。

 だがひどく無理やりな体勢に、バランスを崩した。

 だけど──


「拓海、行こう!」

「ああ!」


 ゆいと一緒に、ゆりさんを助けるんだ。

 俺はゆいと抱き合ったまま、ゆりさんを追って奈落の底へと飛び込んだ──


〜〜〜


 落下する感覚が、いつまでも終わらなかった。

 永遠とも思えるほどの長い時間の後にようやく地面らしきものに触れて、俺は勢いよく叩きつけられた。


「痛っつぅ……」


 体をさすりながら起き上がり周囲を見回すと、そこはさっきまでのマンションの一室ではなかった。

 地平線の彼方まで続く白い荒野の平原、空は真っ暗なのに、それなのに周囲は明るい。

 なんだコレは?

 黒い空を見渡すと、真っ白に輝く太陽と、そして……

 ……青い海と白い雲を纏わせた地球が浮いていた。


「ここは……まさか、月面…?」


 黒い空は空気を介さない宇宙そのものの姿で、足元の砂は前人未踏の月の砂──


「ようこそ、品田拓海…♪」


 愉悦に満ちた女の声が、俺の名を呼んだ。振り返るとそこには、いつか見た悪夢と同じ姿の、アニマーンが立っていた。


「お前……なんでここに!?」


 俺の言葉に、彼女はくすりと笑う。


「お前にはまだわからないか? 私はお前の願いから生まれたんだぞ。だからお前が一番行きたい場所に、私も行けるのさ」


 そう言って微笑む彼女の顔には、見覚えがあった。

 それは……ゆいの顔だった。


「……ゆい、なのか……?」

「ふふふ……拓海は優しいね……こんなになっても、私を受け入れてくれるんだもん……」


 無意識に右手が宙を彷徨った。ハッとして横を見たが、そこにあったのは何もない光景。

 俺の横に居たはずのゆいが、居ない。今更そのことに気がついた。


「嘘だろ……どうして……ッ!?」

「拓海……」


 アニマーンが、ゆいの姿で、ゆいの声で、俺に語りかけてくる。


「大丈夫だよ……私はどこにだって居るよ……あなたが望めば、いつでもあなたの側に居るよ……ほら……こうやって……!」

「やめろぉおッ!?」


 彼女の声が迫り、俺は慌てて両耳を手で塞ぎながら背後へ退いた。


「ゆいを騙るな、アニマーン!!」


 叫びながら、俺は自分の愚かさを呪った。

 そうだ、こいつは、アニマーンは、俺の願望から生み出されたんだ。なら俺にとって一番都合の良いように振る舞うに決まっているじゃないか!


「違う! お前は偽物だ! 俺が生み出した幻想だ! 本当のゆいを返せ!」

「本当のゆいって……拓海ってば、何を言ってるの? あたしはちゃんとここにいるじゃん」


 ゆいが──いや違う、こいつはアニマーンだ。そうだと分かっているのに、ゆいそのままのあの笑顔を、俺に向けた。


「あ……」


 その瞬間、俺は悟ってしまった。抗うことはできない。

 これは幻だとわかっているのに……その笑みに心を奪われてしまった。


「ねぇ、拓海。これ学校帰りに買ってきたんだ。一緒に食べよ♪」


 いつの間にか、彼女が手にしていた紙袋から取り出した丸い焼き菓子が、二つ、俺に差し出された。


「え……」

「拓海って甘いもの好きでしょ? だから、拓海の好きな味のを買ってきたんだよ。はい、どーぞ!」

「あ、ああ……」


 俺は言われるままに、そのお菓子を受け取った。

 そして一つを口に運ぼうとした、その時──


 ──光の刃が、俺に迫っていた。


「ッ!?」


 直前に感じ取った殺気と、そして視界の端に捉えた光に俺は反射的に目の前のゆいを突き飛ばして、自分自身も背後へ飛び退った。直後、先ほどまで俺たちがいた場所を光が横切って行った。それはまるで、俺とゆいの仲を引き裂かんとするかのように。

 俺の手と、ゆいの手から、丸い焼き菓子が取り落とされ、地面に落ちる。

 咄嗟にそれを拾おうとしたゆいに、俺は「逃げろ!」と叫びながら、刃が放た方向へ向き直った。


「……!」


 そこに、彼女がいた。

 銀色の髪と、薄紫に彩られた戦闘衣装に身を包んだ、月光の戦士。

 キュアムーンライト……月影ゆりが変身したプリキュアが、俺を険しい目で睨んでいた。


「ゆりさん、どうしてこんなことを!? 俺たちは、あなたを──」

「その女から離れなさい!」

「!?」


 ゆりさんは、俺の言葉に聞く耳を持たなかった。それどころか、激しい敵意と殺意を込めて俺を……違う、ゆいを見つめている。

 ムーンライトが大地を蹴り、その姿が残像を引いて揺らめいた。

 狙いは、ゆいか!?

 思考を意識する前に俺も体が動いていた。さっきとは逆に、ゆいに飛びついて大きく横へ転がる。

 コンマ数秒の差で、俺とゆいのすぐそばをキュアムーンライトの長い脚が、鋭い長剣のように空間を切り裂いた。

 躊躇いが一切ない、本気の攻撃だった。


「拓海っ!?」

「いいから、逃げるんだ!」


 立ち上がろうとするゆいを再び突き飛ばすようにして遠ざけると、俺は立ち上がった。


「ゆりさん、正気に戻れ、目を覚ますんだ、ゆりッ!」

「それはこちらのセリフよ。あなたはお父さんなんでしょう!?」

「俺は君の父親じゃない!」

「まだ寝言を!」


 まるで聞く耳を持たないまま、ムーンライトが殺意を込めた目でゆいを狙った。

 やむを得ない。俺はスペシャルデリシャストーンを握りしめた。

 ゆいを守るためには、ムーンライトを力ずくで止めるしかない!

 拳の中で石に込められた力がスタンバイ状態にあるのを確認するやつ否や、俺はすかさずゴーサインを石に念じる。

 俺の動きを察したムーンライトが、ゆいに向かって跳躍しようとしたが、それより早く俺は手の内の光を解き放った。

 眩い閃光がムーンライトの視界を奪うと同時に、俺の全身を純白の戦衣が覆う。

 ブラックペッパー。

 父から受け継いだ姿と力で、俺はムーンライトに組み付いた。

 その両腕を掴み、背中側へと捻りあげて動きを拘束──


──しようとしたが、それよりも一瞬だけ速く、俺の胸元に衝撃が走った。


「ぐぁあッ!?」


 ムーンライトの肘打ちだった。

 痛みと驚きに思わず腕の力を緩めてしまった俺の腹を、今度は膝が襲った。


「がはッ!?」


 強烈な一撃に悶絶する暇もなく、続けて放たれたのは、俺の首筋を狙う手刀だ。

 咄嵯の判断で頭を振って避けたが、それでも完全にはかわしきれず、首の側面を掠めて行った。

 傷口から流れる血に構わず、俺は体勢を立て直すために一度距離を取る。だがその隙を見逃すことなく、ムーンライトが追撃を仕掛けてきた。

 俺の顔面を狙って迫る掌底を、両手をクロスさせて受け止める。

 しかし、次の瞬間にはムーンライトのもう片方の腕が、俺の顎を狙ってアッパーカットを放っていた。


「くぅっ!?」


 仰け反るようにしてなんとか回避したが、それで精一杯だ。


「この……!」


 反撃に転じようとしたその時、またも俺の視界から消えたかと思うと、今度は俺の背後からムーンライトが襲いかかってくる気配を感じた。

 完全な死角からの攻撃。だからこそ、そこを狙ってくると読んでいた。

 ガラ空きに見せかけた俺の背中に衝撃が走る。ムーンライトの蹴撃だが、その威力は俺がたなびかせたマントが全て受け止めた。


「ッ!?」

 

背後でムーンライトが息を呑む気配を感じた。たかがマントと思っていたのだろうが、デリシャストーンの力を纏わせたそれは重量に逆らう程の斥力を生むのだ。


「破っ!!」


 俺は振り向きざまに、ムーンライトの胴に蹴りを叩き込んだ。


「ふっ!」

 しかし、そこはさすがに戦士としての経験を積んだ歴戦の相手。

 俺の蹴りが当たる直前、咄嵯に身を翻すと、そのままムーンライトはバク転の要領で後方へ飛び退る。


「…………」

「…………」


 互いに、無言のまま睨み合う。

 ……強い。

 キュアムーンライトの強さに、俺は改めて驚愕した。

 俺が変身してからこの攻防まで費やした時間は、わずか五秒しかたっていない。

 しかも俺は変身時の閃光で彼女の視界を完全に奪った絶対有利な状況だったにも関わらず、全て後手に回ってしまった。

 その事実に俺の背筋が冷たくなる。

 彼女を力ずくで押さえ込むなど思い上がりも甚だしい。拮抗するので精一杯だ。このままではいずれ力負けする。

 どうする、どうすればムーンライトからゆいを守れる?


 ……その考えが頭をよぎった時、俺は何故だか酷い違和感を覚えた。

 ゆいを守る。俺にとっては疑問の余地がないこの行為に、何故こんなにも心がざわつくのか?

 俺のその戸惑いを見透かしたかのように、ムーンライトが、まだ眩んで焦点が合わない瞳で俺を見据えながら口を開いた。


「目を覚ましなさい。お父さんとしてのあなたを取り戻して!」


 彼女は何を言っているんだ。俺は君の父親じゃない。俺は──



──お父さん……



 突然、脳裏に誰かの声が響いた気がした。

 幼い少女の声。これは?


「拓海、助けて!」


 背後で上がったゆいの悲鳴が、よぎった思考を掻き消した。


「!?」


 ハッとなって振り返ると、ゆいが黒いドレスの女に囚われていた。


「ゆ、ゆい!」

「動くなよ、ブラックペッパー」

「アニマーン…!」


 ゴシック調の黒いワンピースに背中から生える蝙蝠のような巨大な片翼。真っ白な肌の美貌が冷たい笑みを浮かべた。


「和実ゆいを守りたければ、ムーンライトを倒せ。ブラックペッパー!」

「ふざけるな! 俺は貴様の言いなりにはならない!」

「ならば、この娘を殺す」

「何だと!?」

「そうだな……まずはこの指先を少しだけ動かして……」


 アニマーンの細くしなやかな指先に付いた鋭い爪先が、ゆいの首筋をなぞった。

 ゆいの首に赤い筋が現れ、血が玉になって垂れ落ちた。


「うぅっ!?」


 痛みに耐えかねて、ゆいが小さく声を上げる。


「やめろぉおおおっ!!」

「ならば、ムーンライトと戦え。ブラックペッパー」

「ぐっ!?」


 迷っている暇はなかった。ムーンライトを倒さなければ、ゆいが殺される。

 ゆいを守るんだ、絶対に、失いたくない。

 もう二度と!

 ……気づけば、俺は泣きながらムーンライトに挑みかかっていた。自分でも何故涙が止まらないのかわからない。

 だけどこうしなければ俺はゆいを取り戻せない。そんな強迫観念に突き動かされるようにして、拳を振るい続けた。

 しかし、やはりムーンライトに勝てる道理はない。

 俺の攻撃は全て捌かれてしまい、逆にカウンターを受けて何度も吹き飛ばされた。


「あぁあああっ!!」


 そして、また地面に倒れ伏す。全身から力が抜けていく感覚に襲われながらも、それでも立ち上がろうとする俺の前に、ムーンライトが立ち塞がった。


「これで終わりよ。現実をみなさい」

「……違う、俺はお前の……父親じゃ……ない!」

「いいえ、あなたは父親なのよ。もう、子供じゃない。……娘のことを思い出しなさい、拓海くん!」


 彼女が何を言っているのかまるで理解できない。

 理解したくない。

 狂ってる。

 何もかも狂ってる。

 だが、俺の意識は彼女の言葉に揺り起こされた。


 そうだ、思い出せ。俺は誰なんだ?


「くっ、うぅううううううっ!!」


 痛い。頭が、胸が、心が痛い。嫌だ、思い出したくない!

 認めたくない!

 ゆいが……妻が……


 もう、死んだなんて……!!


〜〜〜


 他に伏せて嗚咽を漏らすブラックペッパーを、ムーンライトは哀しみに揺れる瞳で見下ろしていた。

 私と彼は同じだったのだ、とムーンライトは思う。

 愛する者を失った悲しみを抱えながら、しかしそれを認められないでいた。自分の心の弱さを認められずにいた。

 だから互いの思いが共鳴してしまい、アニマーンという悪魔を呼び込み、囚われてしまったのだ。


「ふふ、ムーンライト。お前は残酷だ。それとも、自分が先に残酷な過去を突きつけられたから、意趣返しのつもりか?」


 アニマーンがせせら笑う。その姿は、かつて父が生み出したダークプリキュアそのものだった。

 ムーンライトにとって妹であり、そして自分の手で斃した存在を、彼女は真っ直ぐに睨みつけた。


「黙りなさい、偽物」

「強がっても無駄。お前の心が悲鳴を上げているのが聴こえるぞ」

「……」


 ムーンライトは無言で拳を握った。

 この悪魔を斃す。それが例え己のトラウマに刃を突き立てえぐり返すが如き行為であっても。

 己ただ独りが傷つくだけで済むなら、それで構わない。

 ムーンライトがアニマーンへ向けて脚を進めようとした時、その手をブラックペッパーが掴んで引き留めた。


「拓海くん…いい加減に──」

「違う」


 ブラックペッパーがムーンライトの手を掴んで引き留めながら、膝をつき立ち上がった。


「俺が、やる…ッ!」

「無理よ。あなたには、アニマーンがゆいちゃんに見えているはず。……だから、私に任せなさい」

「ダメだ!」


 ブラックペッパーがムーンライトの手を強く握りしめながら叫んだ。


「ゆりさん……あなたに二度も家族を手にかけさせたりしない」

「アニマーンを呼び込んだ責任は、私にもあるわ」

「それでも、俺がやる!」


 血を吐くような声で、哭くように、彼は吠えた。


「残してきた娘のために……ゆいが俺に遺してくれた娘のために、俺が決着をつけなきゃいけないんだ! それが、父親としての責任だ!」


 ブラックペッパーの決意に、ムーンライトは静かに目を伏せ……黙って頷いた。

 ムーンライトの手を離し、ブラックペッパーが進み出る。

 その彼の目には、命を捨ててでも守りたいと願った、愛する妻の姿が映っていた。


「ゆい……」

「拓海……やめてよ……そんな怖い顔であたしを見ないでよ……ッ!?」


 怯えた顔、震える声、その全てが記憶のままのゆいで、拓海の心が折れそうになる。

 それでも、その彼女の面影に、また別の面影が重なった。

 ゆいによく似た、幼い少女。歳を得るごとに、かつての幼いゆいそっくりに育っていく我が娘。

 亡き妻の面影が日増しに強まる娘を直視できなくて、親友に娘の世話を任せきりにして、自分は逃げるように仕事に打ち込んでいた。


「拓海……またあたしを傷つけるの? 娘を取り返したいと願ったのに、それを許さず押さえつけまでしたくせに!?」


 そうだ。自分はゆいを取り戻そうと足掻くあまり、あの無限のループの中で幾度もゆいを傷つけた。彼女の想いを踏み躙った。

 そんな自分が、娘を言い訳にまたゆいを傷つけようとしている。


「俺は、父親失格だ……」


 拓海は声を絞り出しながら、震える拳を握りしめた。

 娘と、親友と、三人で過ごす日々に安らぎと幸せを感じていた。

 そして、そんな日々が続くにつれ、ゆいとの思い出が薄れていくことにも気づいていた。


「俺は嫌だった。お前のこと忘れたくなかった……幸せがお前との思い出と引き換えなんて……そんなのは認めたくなかった!」


 ゆいを忘れるくらいなら、幸せになんかなりたくない。未来になんか進みたくない。ずっと、ずっとこのまま……


「その挙句が……このザマだ……!」


 だけど、ゆりが思い出させてくれた。己が、父親であることを。

 娘が、親友と共に待っていることを。


「すまない……ゆい!」


 固めた拳に、想いが宿る。

 それは幼い時からずっとそばにいてくれた彼女からもらった、数えきれないくらいの思い出。

 この体いっぱいに満たすくらい与えられた、ゆいの、美味しい笑顔。

 そのいっぱいの想いが拓海の拳に宿り、輝いた。


「アニマーン! 貴様の幻想は、この拳で打ち砕く!」


 ゆいの顔が驚愕に見開かれ、だけどそれは、迫る拳の輝きの中で、穏やかな笑みへと変わっていった。

 拓海はその全てを見つめながら、ゆいの胸へ、拳の光を打ち込んだ。

 閃光が弾け、黒い空が虹色に染まった。


〜〜〜


 ムーンライトが見守る前で、ブラックペッパーとゆいの姿が虹色の閃光に包まれた。

 それは強烈な光であるにも関わらず、ムーンライトはその中に、まったく別の光景を目にしていた。

 それは街中ですれ違った時に見た三人の姿。

 拓海と、彼に肩車されている幼い少女と、そして、それを慈しむように眺めながら少し後をついて歩く黒髪の女性。

 仲睦まじい家族の姿を偶然目の当たりにした、あの時、ゆりがずっと押し込めていた孤独が、耐えがたい慕情となって溢れ出た。出てしまった。

 もう一度、何も知らなかったあの頃のように、父と母に甘えたかった……。


「拓海くん…ゆいちゃん……楽しい思い出をありがとう……そして」


 光が広がり、周囲を埋め尽くしていく中、ムーンライトは……ゆりは、


「懐かしい思い出を取り戻させてくれて……ありがとう」


 光の向こうに、自分を待っている母の姿を見つけ、ゆりは、そちらへと歩き出していった。


〜〜〜


 愛、憎しみ、喜び、悲しみ、楽しみ、切なさ……それにはいくつもの名前がある。

 だけど、ゆいを思い出すとき、その全てが同時に襲いかかって、混ざり合って、大きな想いの塊となって胸を締め付ける。

 成長する娘を見るたび、命懸けで子を産んでくれたゆいへの感謝と、失った哀しみと、娘の笑顔と、ゆいの笑顔と、楽しかった思い出と、失った絶望と、感謝と、罪悪と、家族への愛情と、自分への憎悪と……あらゆる感情がごちゃ混ぜになって、胸が張り裂けそうになる。


「拓海」


 光の中で、ゆいに抱きしめられていた。


「もう泣いちゃ駄目だよ?」


 無理さ。俺は何度だって泣くだろう。みっともなく。

 だけど……笑うことをやめたりしないよ。ゆい。

 お前が分け与えてくれた笑顔を、捨てたりしないよ。

 お前が遺してくれた娘と、ちゃんと分け合って生きていくよ。

 だから、ごめんな、ゆい。


「謝って欲しくないなぁ」


 ありがとうの意味も込もっている。また会えて嬉しかったって意味も込もっている。寂しいって意味も、好きって意味も……愛しているという意味も。


「じゃあその想いは、なんて言葉で表せばいいのかな?」


 わからない。この想いには名前がたくさんありすぎるんだ。


「あははは、それじゃまるで〇〇焼きのお菓子みたいじゃん」


 お前、こんな時に食べ物の話題かよ? 最期の最期が、こんな話題か。


「でも、あたしたちらしいでしょ」


 ああ、お前らしくて、俺たちらしい。


「バイバイ、拓海……ちゃんとみんなと幸せになってね。そして、忘れないでね、美味しいは、笑顔だって」


 ゆいの言葉に、俺はようやく、想いにつけるべき名前がわかった気がした。

 美味しい。

 全ての想いも、思い出も、いつか全部、美味しい、美味しかったって、そう思えることが……きっと……


〜〜〜


 いつしか眠りに落ちていた。全身が気怠くて、何も考えることができない。

 ぼんやりとした意識の中、何かが頬に触れていた。それが人の手のひらだと気づくのにしばらくかかった。

 誰かが俺の顔を覗き込んでいる。誰だろう……


「……ゆい?」


 まだはっきりしない頭のまま、一番そばに居て欲しい人の名を呼んだ。


「品田……意識が戻ったのか!?」


 目の前にいたのは、ゆいではなくて、見覚えのあるその顔は、いつもそばに居てくれた親友の……


「……菓彩?」


 俺がその名を呼ぶと、彼女はその目に涙を滲ませた。


「良かった……本当に心配したんだぞ……!」


 その言葉を聞いて、俺は全てを思い出していた。

 そうだ。俺はこの手で、ゆいを……

 ……己の手を眺めようとした時、その手が誰かにしっかりと握りしめられていることに気がついた。

 小さくて柔らかなその手の持ち主が、俺が横たわるベッドで、寝息を立てながら隣で添い寝していた。


「ゆみ……」


 その名を呼びかけながら手を握り返すと、幼い娘は目を覚ました。


「パパ?」


 娘は眠たげな眼差しをこちらに向けたが、すぐに大きな目を見開いて跳ね起きた。


「パパ!」


 娘はそのまま飛びつくように抱きついてきた。


「ママ! パパが起きた! やったー! ママ! パパが! パパが! わーん! ママ! パパが! よかった! うれじい! マ"マァア」


 泣きながら俺の首に腕を回してしがみつくゆみに、ベッドの横であまねが真っ赤になりながら慌てて手と首を横にふった。


「こ、こらゆみ、私をママと呼んじゃいけないって、何回言ったら!?」


 必死に否定するあまねに、俺は静かに首を横に振った。


「いいんだ。否定しないでくれ……あまね」

「っ!?」


 俺がその名を呼ぶと、彼女は息を呑んで押し黙った。

 困惑と、寂しさと、葛藤を滲ませながら、彼女は言った。


「やめてくれ……君に名前を呼ばれたら……私は……」

「ゆいを忘れたい訳じゃない」

「だったら尚更だ!」

「全部抱えて、前に進みたいんだ。ゆみと、……そして、お前と」


 そう告げて、娘を片手で抱いたまま、もう片手を彼女に伸ばす。

 あまねは、泣きそうな顔をしたまま、躊躇いがちに手を上げて….すぐに引っ込めようとした、その手を俺は掴んだ。


 ──これで良いんだよな、ゆい。


 掴んだその手の上に、ゆいの手が重ねられた気がした。


 俺の前で、あまねの顔が真っ赤に染まっている。

 それを見て、娘のゆみが、ゆいそっくりの笑顔で笑った。


「あははは、あまねちゃん、どうしたの。顔が赤いよ」

「う、うるさい!」


Fin

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