悪夢と現実

悪夢と現実





 夕日がカーテンの隙間から部屋に差し込んでいる。

「後悔、してないかい?」

 男は腕の中に収めた女に問う。

「するわけないやろ。アタシから言い出したことやし。アタシが誘って、雨竜は承諾しただけや。……むしろ雨竜、後悔しとらんの?」

「……後悔があるとすれば、もっと早くに伝えておけばよかったってだけだよ」

「……そう、やね」





「アタシ、向こうで結婚することになって」

「……——は、」

 呼吸の仕方を数秒忘れてしまうほど、その言葉は石田雨竜に突き刺さった。


「……撫子さんが……? 誰と——」

「貴族の人。一度も会うたことないけど」


 昼下がり、石田の住まいを訪ねたのは平子撫子だった。高校卒業と同時に尸魂界へと戻り、正式な死神になったと聞いていた。それから二年程経った今、ちょっと話したいことがあってと再び石田の前に現れた彼女を、石田は部屋に招き入れた。

 そしてその話したいこと、というのが嫁入りの話だった。


「……このことは他に誰かに」

「一護と織姫ちゃん、チャドくんにはもう伝えてあるよ」

「反対、しなかったのかい」

「みーんな反対しとった。でも釣書が来たときには、もう外堀埋まってたんやって。京楽さんすら気付けへん、とんでもない根回しのスピードやったみたい。やから、承諾したの。それ以外なかったから」

「そんなの……君の気持ちはどうなるんだ……!」

「……アタシの気持ちは関係ないの。藍染惣右介の血を引く、強い子を産むのが役目なんやって」

 言葉も出なかった。なにより撫子の目に諦観が映っているのを見て、石田は顔を険しくする。

「そんな怖い顔せんで。そういうこと言いに来たんやなくて。雨竜に……頼みがあって来たんや」

「……頼み?」


「……その、き、キスしてほしくて」


「………………え?」

 先程までの重い話から口付けをねだられるとは思ってもみなかった。思わず気の抜けた声が出る。

「えーっと、ケジメというか? 心残りなく嫁ぐために?」

 もちろん雨竜が嫌やって言うなら無理は言わへんよ、と続けられて非常に返答に困った。

「その……ファーストキスくらい、すっ、すきなひととしたいやん」

「じゃあなんで僕に頼むんだ」

「……雨竜が好きな人だからやけど」

「僕だって君が好きだよ」

「え」

 きょとんとした表情を浮かべながら小さく「ほんまに? え? え?」と繰り返す撫子はやがて笑い出した。ひとしきり笑って、目尻に浮かんだ涙を拭った撫子は、泣き出しそうな笑顔を浮かべた。

 分かっていたはずだった。同じ想いを抱えていても、伝えなければ無いものと同じだと。撫子は彼に拒絶されるのが怖くて言えなかった。石田は彼女の邪魔をすべきではないと伝えなかった。

「なんや今更やなぁ、お互い」

「そうだね」

「……もっと早く、伝えればよかったんやな」

「……そう、だね」

 どちらからともなく、二人は距離を詰める。唇が重なるまで、そう時間はかからなかった。





 お互い口付けが止まない。指を絡めあい、体を寄せ合い、唇を重ね合う。回数を重ねるごとに、それは深いものへ変わっていく。二人は口付けに酔ったような心地だった。

 途中、撫子が石田の両肩を押した。石田は何とか後ろに倒れないように床に両肘をついて体を支え、撫子は石田の腹部に馬乗りになる。

「……雨竜……」

 撫子は俯いている。

「……撫子さん」

 この体勢は色々まずいとどいて貰おうとしたが、それより早く撫子が石田の首に縋った。

「ごめん、雨竜。卑怯やと思う。誠実やないと思う。でも、せめてハジメテは好きな人に貰ってほしい」

 耳元で喋る声はかすかに震えていた。


「アタシのこと、抱いて」





「……本当によかったのかい」

「くどいで。どうせ向こうはアタシの血しか見とらんし、処女かどうかはどうでもええんやろ」

 撫子は心配そうな石田になんてことないように答えた。石田の胸板に頭を預ける。

「君の本音は?」

「……本音?」

「誰にも言ってないんじゃないか、君のことだから」

「そんなの、アタシ、あらへん」

 あの時、釣書を渡されて「受けます」と絞り出した時からしまい込んでいた心が、悲鳴を上げているような気がした。


「今ここには僕しかいない」

 暴かないでほしい。

「君の心が知りたいんだ」

 暴いてほしい。

「撫子さん」


「………………アタシ、アタシは、」

 震えるような声が絞りだされる。

「ほんとは、嫌や……! 知らん相手と結婚なんてしたない……! 知らん奴の奥さんなんてなりたない……! ほんとは、ほんとは雨竜がええよお……!」

 ぼろぼろと涙が零れていく。

「離れたないよぉ……! 雨竜ンとこに居たい……好きなひとと一緒にいたい……」

 やがて声は小さくなり、それは嗚咽になる。腕の中で泣く撫子に、石田は何も言えないでいた。





 撫子がひとしきり泣いた後、身支度を始めた。放り出していた衣服を身に着けていく。

「……その結婚っていつになるんだい?」

「明日から準備始まるんやって。早くて二週間後。今日来たのは今日が自由に動ける最後やったから」

「二週間後……」


 身支度を終え、帰る撫子を見送りに玄関に移動する。

「撫子さん……」

「もう会えへんと思う。けど、アタシは思い出だけで生きていけるから。……好きやったよ、雨竜。大好きやった。アタシのハジメテ貰ってくれてありがとう。……さよなら」

 外へ一歩踏み出す撫子に、石田は思わず手を伸ばして——



**



 雨竜は目を覚ました。

「……はぁ」

 どんな夢だと頭を抱えたくなる。やけにリアルで、有り得たかもしれない可能性のようにも思えた。

 ——もし、想いを伝えていなかったら。

 そんな無意味な仮定を否定するように目を閉じる。

 実際のところ、雨竜は想いを伝えたし、自分の為に現世に居て欲しいとも言った。撫子も喜んで同じ想いだと言って、現世に残ることを承諾した。

 だから、きっとさっきの夢は無意味な仮定だ。


 隣に目を向けると撫子がいる。夢の中ではぼろぼろと涙を零していた彼女は、雨竜のすぐ隣で幸せそうに眠っている。

 ふわふわとした髪をひと撫でして、雨竜は再度目を閉じる。


 夢の続きを見ませんようにと願ったおかげか、今度は夢を見なかった。


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