恵まれた誕生日
娘ちゃんは撫子です「撫子、メシ喰えるヨォになったか?」
二界に渡って行われた結婚式が無事に終わってすぐ、撫子の妊娠が発覚した。
平子は2人がこれほど早く子どもを授かるとは思っていなかったので、撫子が「オカン、アタシ妊娠したっ!」と嬉しそうに母子手帳を見せてきた時は「なんやて!?」と大騒ぎをしたものである。
あの体の弱くー出産の際には産声をあげなかった小さないのちが、愛する男に出逢い母になろうとしている。それは平子にとって何とも感慨深いことであった。撫子は漸く悪阻が少し落ち着き、食が戻ってきているが油断ならない状態だ。そんな時期なので非番の日はなるべく娘の顔を見に現世へ帰るようにしている。
「ちゃんと食べれとるか?」
「朝はちょっと…」
「そーか。まぁもうちょっとしたら食べられるようになるから心配せんときや。顔色悪いし寝とき」
「アカン、まだ洗濯モンも干してないねん」
「あほ。オカンがやったるから横になっとき」
「休みやのに…ゴメンなぁ」
平子の剣幕に押されたのか、撫子はシュンとして布団に入った。
平子はベランダへと出て、物干し竿に洗濯物をかけていく。
ゴールデンウィークが終わったばかりの5月初旬。前日まで雨続きだったが久方振りに訪れた太陽の下できちんと裾まで皺を伸ばしながら干してやる。今年もまた夏の足音が近付いてきた。
一陣の風が吹き渡ると、真っ白なシャツがふわりと舞い上がる。その眩しさに目を細めていると、不意に懐かしい匂いが鼻腔を掠めたような気がした。
(ホンマに妊婦は大変やわ)
でも世話を焼けるのが嬉しい。誰に言うでもないが幸せを感じる瞬間なのだ。
***
石田が早めの時間に帰宅する(既に夜である)と玄関先に見慣れぬ靴があった。革靴だがスニーカーのようなカジュアルさもあるデザインで、男性用というよりは女性用のもののように見える。
オカンが来てくれた!と身重の妻から連絡があったのですぐにピンと来た。
その際妻から頼まれた物も買ってきている。石田は少し緊張しながらリビングに入っていくと、予想通り撫子と平子の姿があり、そっくりなふたりー見ようによっては姉妹に見えるーが仲良くソファに座っていた。
「おかえりなさい」
「おぉ~お帰りぃ」
撫子が笑顔で出迎えてくれ、平子もひらりと手を振って応えてくれる。
「ただいま…撫子、これ頼まれていたものだよ」
石田は小さな声で囁き、手に持っていた包みを差し出した。
「ゴメン雨竜、ありがとォな」
「気にしないで、撫子にはいつも家事を任せきりだからね」
「ううん、ゴメン。今何も出来ひんくて……」
「そんなことないよ。僕が居ない間、撫子がよく頑張ってることは知っているし」
「……」
「僕は君と一緒に暮らせて、とても幸せなんだ」
「ありがとう。雨竜、大好きや」
「……撫子!?」
突然ぎゅっと抱き締められて慌てる石田を見て、平子は笑った。
「相変わらずラブラブやなァ」
「違います!!」
顔を赤く染めながらも否定する石田の反応を見た平子は、ますますニヤニヤ笑いを深める。
「ハイハイご馳走様。まぁええわ、メシにすんで。着替えてきィや」
そう言うと平子はキッチンの方へ消えていった。
その後ろ姿を眺めていた石田と撫子はフッと同時に微笑み合う。
「じゃあ、着替えてくるよ。シェフ、今日のメニューは?」
「たけのこご飯に鯵の南蛮漬け、枝豆とシラスの卵焼き、かぼちゃの煮付け、豆腐とわかめのお味噌汁」
「それは美味しそうだ」
「あとデザートに雨竜が買ってきてくれたケーキ食べよか…オカンは自分の誕生日覚えてるんかな?」
「どうだろうね」
軽く口づけを交わすと、石田は自分の部屋へと入っていった。
***
「オカン、お腹触って」
「なんや?どないしたん」
「えぇから。ほら」
食事の後片付けを終えた後、急に真剣な顔になった撫子にそう促された平子は何事かと思いながらそっと白いワンピースに包まれた下腹部に手を当てた。
「……」
「な、なんか感じる?」
黙り込んでしまった母親に不安そうな顔をしながら撫子は問いかける。
「ここに居るんやなぁ」
「……うん」
「ちょっと感動してもたやんけ」
母子共に健康だと分かっていても、実際にこうして新しいいのちを感じられるようになると感極まるものがあるのだ。
「あの撫子が母親になるねんなぁ。元気に生まれてきて欲しいけど、オカンとしては子どものままでも良いと思う気持ちもあるで」
「アホなこと言わんといて。こんな可愛い子を産めるのは一生のうちで今だけやで」
「その通りや。無事に生まれてくれればそれで十分やな」
「うん……」
撫子は少し照れくさそうに頬を赤らめて俯く。
「撫子は幸せもんやな。旦那は優しいし向こうのお父さんも言葉少ないけどエエ人やし。俺は撫子の幸せを誰よりも願っているで」
平子の言葉を聞いて撫子の目頭が熱くなった。
「オカン、今日誕生日やろ。雨竜に頼んでカットケーキ買ってきて貰たから食べよ!」
「……ホンマや今日やん!誰からもメッセージ来とらんから忘れとった!ええ娘もったわァ」
***
「じゃあおいとまするわ。また来るで。何かあったらひよ里やラブ達に頼りや」
「うん。気ィつけて帰りな」
玄関先で平子を見送ると、撫子はリビングに戻ってソファに座った。
「撫子、大丈夫かい?」
心配した石田が声をかけると、撫子は力なく微笑んだ。
少しずつ食べられるようになってきたものの、まだ体調が不安定で食欲もあまりないのだ。
「今日は調子良さそうだけれど無理しなくていいからね」
「ありがとう。でもオカンの誕生日やったから」
ー健康で、長生きすること。撫子の幸せな顔見るンが一番の誕生日プレゼントや。マァそれとは別に母の日は楽しみにしとくで?
平子の切なる願いがまっすぐに届いた。想われていることを思い知った。母は素直でない、簡単に揺るがない、泣かない、泣けない女だ。でも、その愛は確かにこの胎の中に在る。
「雨竜、本当にありがとう。アタシを幸せにしてくれて」
撫子は石田の首に腕を回し、ゆっくりと口づけをした。
「これからもっと幸せにするよ」
「もうこれ以上はないくらい幸せやで」
撫子は石田に寄り添い、肩口に頭を預けた。
***
ー誕生日なんて忘れとったわ。撫子が居た時は毎回家族の誕生日を祝ったモンやけど、離れて暮らすヨォになってからは忙しくてすっかり記憶の彼方に行っとった。
ありがとうな撫子、雨竜。
撫子のお腹の子、元気に生まれてきィや。ばぁばも、……会える時が来るかわからんけど、お爺さんも楽しみに待っとるからな。