ごめんねスレッタ・マーキュリー─怪物の献身(後編)─

ごめんねスレッタ・マーキュリー─怪物の献身(後編)─


※微ヤンデレ要素あります




 地球へ攫う、とエランは言った。拘束してでも絶対に連れて行く、と彼は言い切った。

 どうしてそんなに強い言葉を使うんだろう。スレッタはその理由がまったく分からず、途方に暮れてしまう。

「エランさん…、いまの、どういうこと…ですか?…どうして、そんなこと、言うんですか?」

 彼の言うことを少しでも理解したくて、気付けば何度も同じような質問を繰り返していた。きっと、エランなら答えてくれると思ったからだ。

 スレッタの疑問に満ちた声に、エランは目を伏せてぽつりと呟いた。

「…必要だから」

 地球に行くのが、必要?

 スレッタはますます分からなくなる。

「スレッタ・マーキュリー。昨日の夜、僕が言った言葉を覚えてる?」

 エランの口調は、いつの間にか穏やかなものに戻っていた。少しだけほっとして、素直に昨日の事を思い浮かべる。

 夜になって、スレッタは森の近くのベンチへ向かっていた。エランからの連絡を貰い、とても急いでいたのを覚えている。次いで街灯に照らされるエランの姿と、ベンチの陰に置かれた大きなバッグを思い出す。

 あの時、彼はスレッタに申し訳なさそうに謝ってくれた。デートに行けなくなったと伝えられて、自分はそれをとても残念に思って…。

 そして。

「……ぁ」

 小さく声を出した。どうして忘れていたんだろう。まるで悪い夢のようだった、あの言葉を。

「思い出した?」

「……え、エランさんが、こ、ころされる、って……」

 声に出すのが恐ろしくて、声が自然と尻すぼみになっていく。心臓の鼓動が早くなって、冷汗が出て来る。

「その後は?」

「…そ、そのあと?」

 なのにエランはその先を要求してくる。スレッタはひとしきり動揺したあと、頭を振った。

「わ、わか、わかりません…」

 何かから守るように体をぎゅっと縮めてしまう。なぜだかとても怖くなって震えていると、エランが慌てたようにすぐそばへと来てくれた。目の前へ跪いて、そっと顔を覗きこんでくる。

「スレッタ・マーキュリー、ごめん。僕が悪かった。…きみは薬を使われて昏倒したんだ。覚えていなくても、仕方ない」

「…く、くすり?」

「そうだよ、僕が使ったんだ。…きみを、攫うために」

 そうして、エランは諦めたように話してくれた。

「きみは狙われているんだ。…命を、そして尊厳すらも。あのままアスティカシアにいたらひどい事になる。だから、僕はきみを連れ出すことにしたんだ。地球なら、隠れるところは多くあるから」

 エランのいう事は、まだよく分からない。自分はただの学生なのに、どうして危険な目に合わなければいけないんだろう。

 スレッタの気持ちを理解したのか、エランは丁寧に言葉を重ねた。

「アスティカシアはただの学園じゃない。あそこはベネリットグループが運営している人材育成の機関で、多分に大人たちの思想が反映されている場所だ。兵器を作って売っているような大人たちの思惑なんて、…碌なものじゃない」

 妙に実感がこもったような響きに、思わず眉をひそめる。

「一見して綺麗で平和な所に見えるかもしれないけど、実態は恐ろしいほどに醜悪で危険な場所だ。きみだって、一度は尋問を受けただろう?」

 エランの問い掛けにこくりと頷いた。周りの大人がみんな身に覚えのない事で責めてきて、とても怖かったのを覚えている。

「あの時、きみはガンダムを使った容疑で捕まっていたね」

 その言葉にも、こくりと頷く。エアリアルは危険なモビルスーツなんかじゃないのに、突然そんな言い掛かりをつけられたのだ。

「今回もそうだよ」

「え」

「…エアリアルはガンダムだ。だから、きみが狙われているんだ」

「エアリアルは…ッ」

「危険じゃない。それは分かってる。エアリアルはきみの大事な家族だって、僕はちゃんと知っているよ」

 思わず声を荒げたスレッタに、エランは落ち着かせるように声を被せた。そして、言い聞かせるように言葉を続ける。

「…でも、ガンダムなんだ。データストームが検出されず、人体に危険はないけれど。エアリアルはガンダムなんだよ、スレッタ・マーキュリー」

「…お、お母さんは、エアリアルはガンダムじゃないって、い、言ってました…」

 人体に危険がないガンダム。そんなこと言われても、よく分からない。ましてやそれが、幼いころから慣れ親しんだエアリアルの事だなんて。

 だから母の言葉を代わりに告げた。大好きな母が、自分に嘘を付くはずがないからだ。

 エランはスレッタの反論にスッと目を細めると、「そうだね」と肯定した。

 肯定したはずなのに。何だか彼の周りの温度が下がったように感じて、思わず首を竦めてしまう。

「…プロスペラ・マーキュリーは、そう言うしかないだろう。『娘』を守るためにも、エアリアルをガンダムだとはすぐには認めないはずだ」

「そんな…。お母さんは、嘘なんか…」

「スレッタ・マーキュリー。ここで大事なのは、グループの上位者にエアリアルがガンダムだと周知されている事だ。たとえ事実が違っても、狙われる事には変わりない」

 エアリアルが本当にガンダムかそうでないかは、さして重要ではないとエランは言いたいんだろうか。

 そこまで考えて、自分が狙われるおかしさに気が付いた。

「あの、どうしてわたしが、狙われてる、ですか…?すごいのはエアリアルで、わたしはただの、女の子…です」

 エアリアルだけが狙われるなら話は簡単に理解できる。でも、エランはスレッタの方が狙われているのだと言う。そんなのはおかしい。

「…そうだね。普通の人間なら、もちろんそう思うだろう。でも、今回きみを狙っているのは狂った異常者の集団なんだ。…ペイルの、上層部だよ」

「…ぺいる」

「そう、僕が所属している。ペイル・テクノロジーズだ」

 エランの所属している会社を、どうしてそこまで悪しざまに言うんだろう。疑問を頭に思い浮かべて、スレッタは昨夜のことを思い出した。

 ───ペイル社からの呼び出しが来る。

 ───僕は殺される。

 エランはそう言っていなかっただろうか。

「ペイル社も、ガンダムを秘密裏に作っているんだ。きみと戦った黒い機体、あれはデータストーム問題を解決していないままの、人の命を奪う危険なガンダムだ」

 チカリ、と何かが光った。エランの体に、赤い模様が浮かび上がってくる。目の下の赤色が、まるで血の涙のように見えた。

 スレッタは呆然とそれを見つめた。

「───ガンダム、ファラクト。僕はその機体を駆るために作られた実験体なんだ」

「…あ」

 何を言おうとしたのか、自分でも分からない。意味のない音を出した後、スレッタはそのまま沈黙した。

 エランはそんな姿のスレッタを暫く眺めると、更に詳しい説明を始めた。極力感情を排したような、平坦な響きの声で。

「ペイルのアプローチはシン・セーとは違う。彼らは機体ではなく、パイロットの方をどうにかしようと試みた。データストームに耐性のある子供たちを集めて、完全な管理体制のもとで育成し、さらに適性の高い者に改造を加えた」

 …完全なものではないけれどね。エランは小さく息をつく。

「僕らは消耗品だ。駄目になれば次の実験体に交代して、何事もなかったかのように秘密裏に処分される。僕も、本来ならあと数時間の命だった」

 恐ろしいことをさらりと告げると、エランはこちらをひたと見据えてきた。

「…そんな風に人の命を消費できる連中が、君に目を付けたんだ。エアリアルは特別な機体だけど、もしかしたらパイロットの君にも、何か秘密があるんじゃないかってね」

「───」

「捕まったら、酷いことをされる」

「───」

「…だから逃げよう、僕ら2人で」

 エランの言葉に、嘘は見つからなかった。荒唐無稽で、他の誰かが言っても信じられなかっただろう。でも、他ならないエランの言うことなら…。

 スレッタの目に力が入る。

「エランさん。───進みましょう」

「…え」

「逃げたらダメです。逃げたら1つしか、手に入りません。進んだら…、進んだら2つ以上が手に入ります。だから、2人で逃げないで…進みましょう」

「───」

 目を見開くエランに向けて笑顔を向けた。ぎこちなく見えているだろうけれど、精一杯の笑顔だ。

「ミオリネさんに、相談しましょう。地球寮の皆だって、きっと力になってくれます。必要ならわたしがエアリアルと一緒に決闘して、なんとか道を切り開きます。だから…だから」

 エランは目を見開いたまま、凍り付いている。どうしてだろう。話せば話すほど、その表情が強張っていくようだ。

 スレッタはどうにかしてエランを説得しようとして、この世で一番頼りになる存在へと無意識に助けを求めた。

「お母さんだって、きっと「───やめてくれ!」

 鋭い静止の声に、スレッタはただ驚いて、言葉を止めた。

 目の前のエランはひどく傷ついたような顔をして、息を荒げていた。

「やめてくれ…僕には、進む道なんてない」

「エランさ…」

「その名前だって、僕のものじゃない。顔も、名前も、経歴だって、全部が他人からの借り物だ。僕は…。───僕が、持っているものは……」

 続きを口にせず、エランは両手に顔を伏せてしまう。そのままくしゃりと前髪を鷲掴んで、長い間何もしゃべらなかった。

 スレッタはひどく動揺した。またエランを傷つけてしまった。そんなつもりじゃなかった。そんなつもりじゃなかったのに…。

「ご、ごめんなさい。ごめんなさい、エラ───」

「………」

 名前を呼ぼうとして、とっさに口を抑え込む。いま言われたばかりなのに、また自分は目の前のこの人を傷つけてしまうところだった。

 情けなくて、目に涙がにじんでくる。少しずつ、呼吸が短くなっていく。このままじゃ泣いてしまう。目の前のこの人のほうが、よっぽど泣きたいに決まってるのに。

 一生懸命泣くのを我慢していると、ふいに「…エランでいいよ」と小さな声がした。

 目の前の彼は、泣いていなかった。両手から顔を上げた彼は、傷ついているはずなのに…なんだかひどく、優しい目をしていた。

「…帰りたい?」

 エランの優しい声に、半分泣きながらスレッタは頷いた。

 あの学園に帰りたい。水星とは違う。鮮やかで、賑やかな、友達とエアリアルが待っているあの世界に帰りたい。

「…でも、僕がいると、きみを地球に攫ってしまうよ」

 優しい声で、ひどく意地悪なことを言う。スレッタは碌な返事をすることも出来ずに、そのまま目線を下にして俯いた。

 俯いた先に、エランの足先が映る。いつもの革靴とは違う、シンプルな室内履きの靴だ。

 目の前に跪いたままのエランは、こちらを優しく包み込むように声をかけた。

「───いいよ。…僕の頼みを聞いてくれたら、帰してあげる」

 エランの言葉に、目の前が開けた気がした。彼に許される可能性を感じて嬉しくなった。彼のお願いを聞けば、またあの学園で暮らせるんだ。

 地球寮の皆と、ミオリネと、エランと、皆で一緒に───。

「お、お願いって、なんですか…」

 少しだけ元気が出たスレッタは、自分からエランに問いかけた。彼はほんの少しだけ微笑むと、その願いを口にした。

「ぼくを、忘れないでほしいんだ」

 その願いに、首をかしげてしまう。自分がエランを忘れるなんて、そんなことあるわけないのに…。

 よほどおかしな顔をしていたんだろう。エランは小さな子を見るように穏やかな顔で、物語を読むようにスレッタに語り掛けた。

「このまま学園にきみが帰れば、そのうち『エラン・ケレス』がやって来るだろう。きみに会う、その為だけに来るはずだ」

 まるで自分じゃないみたいに、エランの名前を口に出す。

「その『彼』は、きみに興味を持つかもしれない。きみに優しくするかもしれない。きみを誘惑するかもしれない。───でも、それは『僕』じゃない」

 エランの話の意味に気付いて、スレッタは目を見開いた。

「僕はその頃にはもう死んでいる。逃げ出した裏切者を見逃すほどペイルは甘くない。きみが学園に戻ればきっと、僕は探し出されて殺されてしまう」

 自分を学園へ戻すために、犠牲になる男の子の話だ。

「でも、僕のお願いを聞いてくれたら帰してあげる」

 エランの手が、スレッタの手を握った。彼が手袋をしていない事に、触れられて初めて気がついた。

「…ぼくを忘れないで」

 初めて意識したエランの手は、とても骨ばってゴツゴツしていた。関節が所々で飾りのように目立っていて、男の人らしい大きな手だった。

「ぼくを覚えていて」

 これは、誰の手なんだろうかとふと思う。

 『エラン・ケレス』の手だろうか。目の前の『彼』の手だろうか。

「新しいエラン・ケレスに上書きされてしまう前に」

 その手が、スレッタの手ごとエランの首筋に近づいていく。

 彼の首を、絞めるように、誘導されていく。

「ぼくをきみの手で殺して欲しい」

 スレッタの冷えた手に、エランの熱い首筋が触れる。とくとく、とくとく、鼓動が指に伝わってくる。

「ぼく以外はだれも殺さないで。───ぼくだけを殺して、ぼくだけを覚えていて。…ぼくを、忘れないで欲しい」

 スレッタは水星に住んでいたとき、生きるためにエアリアルと救助活動をしていた。パーメットを発掘するさいに起きる事故、太陽風によって起きる事故、色々な事故現場へ急行して、人命救助を行ってきた。

 時にはエアリアルなしで救助活動をすることもあった。

 だから、分かる。

 人はどこを締めれば命を無くすのか、分かってしまう。

 エランの首は、男の人らしく太くがっしりしていて、スレッタの小さな手ではとてもじゃないが回り切らない大きさだった。

 でも、顎の下、頸動脈を押すのには事足りてしまう。

 エランの手が、ぐっと力を入れて頸動脈を押す。すぐ下にあるスレッタの手の下で、ドクドクと動いていた脈動が止まる。

 1秒。

 2秒。

 3秒を数える前に、ぱっと離される。

 恐ろしい事に、抵抗するための筋肉の強張りすらなく、肉にずぶずぶと沈み込んでいくような感触だった。

 スレッタの手が震える。でも、エランの手は放してくれない。

 本格的にポロポロと泣き始めたスレッタを前に、エランは相変わらず優しい声で囁いた。

「ごめんね、スレッタ・マーキュリー。でも逃げようとしても無駄だよ。拘束は絶対に外さない」

「エラッ…さ…、や…っ」

 動かない。どんなに外そうとしても、エランの言う通り、スレッタの両手は彼の首から離れない。

「2人でペイルやシン・セー、ガンダムから逃げよう。僕のことを嫌ってもかまわない。僕はただ、君を二度とあんな目に合わせたくない」

「えらんさんっ、やだっ」

 エランが喋る度に動く喉が、何だか妙に生々しくて、とてもとても恐ろしかった。

 スレッタは暴れようとするが、ソファに乗り上げてきたエランの体にバランスを崩して、背凭れに倒れてしまう。

「あっ…」

 エランが上から覗き込んでくる。初めて会った時よりも近い、近い……エアリアルと一緒に見回りに行った時のような至近距離だ。

 大きな体に抑え込まれるように、スレッタは動けなくなった。

 乱れた呼吸をする情けない顔を、エランは静かな表情で見つめている。彼の緑の目だけが、強い感情を湛えているようだった。

「…2人で逃げよう」

 エランが誘う。

「それが嫌なら、ぼくを殺して。…ぼくだけを殺して、きみのものにして」

 エランが嘆願する。


「───きみが魔女にならない為なら、命を捧げたっていいんだ」


 最後の囁きは、どういう意味だったんだろう。

 悲痛な声で泣き始めたスレッタには、その言葉は届かなかった。






硬実種子と二者択一


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