怨嗟の絶叫
「…………今日で逃げ続けて10年目ですか。…早いなぁ」
月の光る夜空。その下に拡がっている人里離れた森の中でその少女はしみじみとそう呟く。
彼女の名はエレイシア。過去にとあるフランスの田舎町にて惨劇を引き起こした【アカシャの蛇】ミハイル・ロア・バルダムヨォンの“元転生体”であり、そこから紆余曲折あって今は聖堂教会から逃亡している日々を細々と送っている。
(……いつまで、こんな毎日が続くのだろう。いつになったら、あの怪物を――ロアを、殺せるのだろう)
エレイシアがこうして逃げ続けている理由はただ一つ。それはロアをこの世から消滅させる事――即ち『復讐』である。
彼女は元々、田舎町のパン屋で慎ましくも前向きに働いていた普通の少女だった。
だが不運にもロアの転生体として生まれてしまっていたが故にロアとして覚醒した際にフランス事変と呼ばれる惨劇を引き起こし、肉体を主導権を奪われ望まぬ虐殺劇を見せ付けられた末に白き真祖の姫君――アルクェイド・ブリュンスタッドにロア諸ともに殺された。
……しかし、彼女の悲劇はこれで終わりはしなかった。
ロアとして振る舞っていた時に死徒としての力を過剰なまでに使いすぎてしまったせいでアルクェイドに殺され、エレイシアとして蘇った後も肉体が吸血鬼のまま変わらず、吸血衝動もロアだった時より幾らか落ちているだけでそのまま付随していたのだ。
そこからの彼女の生活は地獄だった。何度自殺を繰り返そうとその不死性故に生き返り、定期的に吸血衝動に襲われ息が詰まる様な苦しみの中で自分の血を飲んで必死に誤魔化し、教会の手から逃れつつ社会に溶け込んでいる死徒を襲い命と共に金品を奪う事で日々を食い繋ぐ……そんな習慣を彼女は今に至るまで繰り返し続けている。
(そうだ。私はロアを赦さない。私を怪物に堕とし、私の人生をめちゃくちゃにしたあの化け物は、私の全てを使って殺す。殺しきる。その為に今こうして生きているんだ)
だからこそ彼女はロアに対して強い憎しみと怒りをぶつけ、この世からその存在の証の一片も残さずに消し去るという決意を胸に灯し、それを生きる原動力として今までを過ごしてきた。
(……うん。それじゃあ改めて目標を確認できた事ですし、そろそろ隠れ家に戻)
「―――見つけた」
ただ―――そうして他者に強い憎悪と復讐心を抱きながら毎日を生きているのは何もエレイシアに限った事ではない。
「っ!……貴女、は」
「こんばんは、またお会いしたわね。エレイシア――いえ、【不殺の蛇】さん?」
無骨なハルバードを携えたその女は、にこやかな口調で話し掛けながらもヘドロの様な殺意をエレイシアに向けている。
「……よく、今回もここに私が潜んでいるとわかりましたね。その鼻の良さも執念の産物ですか、シスター・ノエル」
敢えてシスターと付け加えてエレイシアは女に――ノエルにそう問い掛ける。
「はっ、当たり前じゃない。アンタが何処にいようと何度ドブネズミみたいに隠れようと、その度にこうして見つけて殺しに来てやるわ」
彼女の名はノエル。もっともそれは代行者としての名ではあるが、当人は最早自分の本名など然程気にしていない。
ノエルは元々エレイシアと同じフランスの田舎町出身の一人娘だった。
人並みに両親に、人並みの価値観に、人並みの恋―――そんな人並みの毎日を過ごし、そしてこれからも人並みで平凡な人生を送り続けていく筈だった。
しかしそんな彼女の人並みの人生は、あるクリスマスの夜でもって全てが跡形もなく壊れた。そのクリスマスの夜こそが、ロアの催したフランス事変の夜だったのだ。
そしてその夜の内に彼女は両親も知り合いも恋人も、綺麗だった町の景色ごと全てをロアに――ロアだったエレイシアに奪われ、蹂躙され、玩ばれ、そして殺された。
即ちノエルにとってエレイシアは自分の人生の全てを台無しにしてくれた張本人であり、謂わばエレイシアにとってのロアも同然なのである。
「もっとも、それこそ蛇みたいに逃げ回ってるアンタをこうして特定する事が出来始めたのは約二年前からだけど……ま、そんなのはこの際どうでもいいわよね」
そこまで言うとノエルはハルバードをエレイシアの方へ構え、少し身を低くし―――
「だって……ここで今度こそお前を殺してしまえば全て解決なんだから――ねっ!!!」
言いきったと同時に電光石火の速度でエレイシアへと詰め寄る。それに対して寸でのところで反応したエレイシアは咄嗟に横凪ぎで迫り来るハルバードを腕で防ぎ、それを皮切りにノエルと目まぐるしい攻防を繰り広げる!
「っ……前より更に、一撃の重さと早さが、上がってませんか?」
「あっははははっ!!ええそうよ!これまでお前に挑み掛かったのは数えるほどしかないわ。けど、その少ない中で私はお前の動きや癖を盗めるだけ盗んで、次こそは仕留められる様にと日々磨き上げているんだ!!」
ノエルは身体能力そのものは一般人の域を逸脱してはおらず、それ故打ち合う際には魔術で肉体強化をせねば話にならないレベルだ。対して今のエレイシアは死徒の頂点である二十七祖、その一つ下の後継者と呼称されるⅧ階梯である。
本来なら夜属と言われるⅣ階梯の時点でノエルの様な一般レベルの代行者ではとても太刀打ちできない。ならば何故そんなⅣ階梯より遥かに上の次元にあるエレイシア相手にノエルが戦えているか。
理由は2つある。1つ目は単純明快でエレイシア側がうっかりノエルを殺してしまわない様に相当に手加減しているから。
彼女にとってノエルという女は自分という怪物が幸せを奪ってしまった被害者であり、自らに向けて正当な憎悪と殺意を飛ばす復讐鬼であり、そして自らにとっての介錯兼処刑人である。
ロアの消滅。それを達成した暁には自らも贖罪としてこの命を絶とうと考えていたエレイシアだったが、2年前に彼女から初めて襲撃されて以降は『ノエルに殺されて終わろう』と心に決めた。
故に今ここで彼女を殺す訳にはいかないし、そもそもそれをしてしまえば今度こそ自分はロアだった時と変わらぬ人殺しの化け物に逆戻りしてしまう。そういう事情故に彼女はノエルの襲撃を受ける度に適当に相手してから隙を見て逃走を繰り返してきた。
「はっ!そりゃあ祖を二体も殺せたお前からしてみれば、私なんてその気になればいつでも消せるただのしつこい雑兵に過ぎないでしょうね!」
「…………」
「けど私から言わせれば!お前は私から何もかもを戯れに踏みにじり、凌辱し、弄び、全てを奪っていった!そんな――そんなっ!この世で一番邪悪で!醜い!“バケモノ”なんだよぉオおおおおォっっ!!!!」
「………!」
魂の底から響かせるかの如く、ノエルは眼前のバケモノにありったけの罵詈雑言を叩きつけ、同時に冷たい鉄の斧を矢継ぎ早とその身に浴びせていく。
2つ目の理由―――それは、ノエルがエレイシアという存在に対して抱いている恐ろしいほどの憎悪と執念だ。
その執念の深さは最早常軌を大きく逸しており、エレイシアがロアに対して向けているソレと比較して尚凌ぐと言ってもいいほどの域。正しく狂気という他ない純粋な想い(殺意)だ。
そしてその狂気の執念こそノエルの生きる原動力となり、代行者としての実力を大きく跳ね上げるに至った『源』だった。
彼女の頭には常日頃から“どうすればエレイシアを殺せるか、あの遠すぎる命に手が届くか”の思考が渦巻いており、血が滲む様な訓練や死徒狩りにおいても心が磨耗するどころか寧ろ奮起しその戦闘技術を加速度的に向上させていった。エレイシアを必ず亡きモノにするという、その一心で。
「最近だとⅤ階梯相手でも倒せる様になって教会からそれなりの評価を頂いたけど、私からすればそんな安い評価は正直鼻で笑うくらいどうでもいいわ!だって――!」
迎撃に振るわれる爪を斧で弾き、徐々に追い詰めながらノエルは高らかに自らの内に燻っている積年の思いを叫ぶ。
「私がこうして生き続けているのは!私が本当に待ち望んでいるのは!!この手で!この怨みで以て!お前を、貴様を殺すその瞬間だエレイシアぁあアァァあアア!!!!」
これ以上はない、怨嗟の絶叫。振るっているハルバードの方が先に壊れかねない勢いで彼女は肉薄し、一撃一撃に限界を超えた殺意を込めて自らの怨敵にぶちかます。
(………彼女のこの怒りと憎しみは、正当なモノ。けど……)
並の死徒なら問答無用で即死する域の連撃を冷静に捌きつつも、エレイシアは酷く暖まれない気持ちになる。
ノエルが自分に対して復讐のままに殺しに掛かる事自体には何も言うことはないし過去の悲劇を考えれば寧ろ自分もそれを正当な動機・行動であると肯定している。
だがその一方で、自分という存在のせいで『普通に生きられる筈だった、普通だった少女』をここまで復讐鬼として歪めに歪めてしまったのか―――そんな哀しみがどうしようもなく胸に生まれ、エレイシアの表情を僅かに歪ませる。
(―――いえ、だからこそ。私はそれから目を背けてはいけない……!)
今のこの状況は自分自身が過去に犯した所業によるモノ、それがもたらした結果。
そしてこれからも自分は生あるまで――否、死後も尚この罪を背負ってゆかなくてはならない。
それ故にまずは過去の因縁を晴らさなければならない。自身を魔に貶め、目の前の彼女の人生をめちゃくちゃにし、そしてあの町の人たちを自身と共に町ごと食い物にしたあの化け物との因縁を。
「……ごめんなさい。今はまだ、貴女にこの命は譲れません」
「なっ――!?」
そう言うや否やノエルを足で軽く蹴り飛ばし、向こうが起き上がる前にその場から風よりも早く立ち去った。
「…………待て。待って。ねぇ、待ちなさいってば」
夜空に浮かぶ月の様に遠ざかっていくその姿を見ながら、ノエルは感情をぐちゃぐちゃにしながら静止するように命令し、懇願する。
「待てって!言ってるだろっ!!ちくしょう、ちくしょう!!何時までも逃げ回りやがって!!死ね、いい加減死ねよ!お願いだから私に殺されてよ!!エレイシアっ!!不殺の蛇ぃいいっ!!!!」
静寂な夜の森に、一人の女による怨嗟の慟哭が響き渡る。
その悲壮と憤怒にまみれた絶叫を聞き、しかしそれでも足を止める事なく少女は夜の闇を駆け続けた。
(ノエル―――全てが終わったら、その時は貴女の下へ裁かれに行きます)
どうかそれまでは、もう少しだけ――。