性別と原因

性別と原因

Alex Zhou

「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」というボーヴォワール氏の理論以来、セックスとジェンダーの区別は明確になりました。セックスは生物学的な性差、つまり人間は生まれ持っての性別であり、ジェンダーは社会的・文化的性差を指します。この発表では、性別や性差などの言葉は全てジェンダーのことを指しています。

性差が実際には存在しないという考え方を持つ人は少なくないです。この視点から見ると、社会的・文化的な区別はフェミニズムが批判している父権社会からの抑圧のためで、解消すべきものです。一方で、父権の抑圧で構築されたものではない、また、決定論に落ちない、つまり、女性の自由が制限されない、この二つの条件を満たした女としての本質を構築するフェミニストもいます。

ジュディス・バトラーの著書『ジェンダー・トラブル—フェミニズムとアイデンティティの壊乱』は、性的アイデンティティをめぐるわれわれの思考に今なおつきまとう独断論の残渣を、振り払ってしまいました。性別について懐疑論ではなく、独りよがりの主意主義を受け入れる立場に、バトラーは立っていると言います。性別は「行為遂行的に定められた意味作用」と定義され、「ジェンダー化された意味をパロディ的に増殖させ、壊乱的な戯れを引き起こしうる」余地を作りました。言い換えると、性的差異には一定で変わらない何かがあるという断定は拒否され、性別は、歴史的に変わりうる言説的な実践による構築物と定義されました。そして、われわれが介入することで破壊的な混乱の種をまくことができます。しかし、性別が「でっち上げられた」ものであるとすれば、それを元に戻すこともできるわけです。性差の本質についてわれわれはどうして迷いますか。構築物だとすれば、われわれはどうして性別の概念をなかなか諦めることはできないのでしょうか。


主人のシニフィアン

このパラドックスは性別が客観的な存在として扱われ続ける一方で、文化的な構築のゆえに完全に主観的な存在でもあります。このパラドックスを解明するために、ここで話題を変えたいと思います。「私はしかじか(自由、国家)を信じる」と宣言するとき、私と大義としての原因の関係性が明らかになります。例えば、「私は自由のために奮闘する」という宣言で、自由は私を私にした原因、私の大義です。ここで、実のメッセージは自分の信じていることに自分だけではないこと、同じ大義を信じる他者もいることではないでしょうか。言い換えれば、ある社会的<原因=大義>を信じるということは、結局、他者からの信仰そのもの、私に対して外的で客観的な何かを信じるということです。ヘーゲルの『精神現象学』の一節を読んでみましょう。

信仰という絶対の存在は、本質的抽象的な存在、信じる意識を超えるものではない。むしろそれは共同体の精神であり、抽象的な存在と自己意識の統一である。この精神が共同体の精神であるということは、本質的に共同体がなすことにかかっている…同時に[信仰の]存在者は、即自的にかつ対自的に(in and for itself)存在する。

例えば、神は私たちが作り上げた存在者ですが、私たちにとって客観的な存在としています。ヘーゲルのこの命題は全ての存在者がすでに主観的に措定されているという主観主義ではありません。その逆で、即自的にかつ対自的に存在する、すなわち、自分の活動と無関係に、不可避的に起きる何かとして、私たちが措定しなければならないのです。ここで見逃してはならないのは大義をわれわれの主観的措定と同一視してはいけないことです。例えば、一見として神は人々の集合的想像力の産物ですが、人間主義的価値感と引き換えれば機能できないのです。つまり、神は超越的彼岸として、人間ではない何かとして存在しなければならないわけです。

次に進むために、精神分析の専門用語を解説したいと思います。上の木のイメージ、木という言葉の意味内容をシニフィエ(signfied)と呼びます。すなわち、象徴されたものです。一方で、下の木という言葉はシニフィアン(signifier)と呼び、象徴するものです。したがって、言語と文化の場は象徴界(Symbolic)です。主体が言葉と文化を受け入れる、学習する過程を象徴化(symbolization)とします。

精神分析の領域で、トラウマに対しての理解を見てみましょう。フロイトの最も有名な患者である狼男の事例においては、原因はもちろん、トラウマを残した両親の性交の場面です。しかしこの原因は、その効力をあるタイムラグをおいてしか発揮しないのです。狼男が二歳のときに性交を目撃した当時には、この光景にトラウマになるようなことは何もなかったです。この光景がトラウマになるような特徴を得るのは、子供が後で子供なりの性の理論を発達させ、つまり、象徴化の後で、遡及的にできたことです。

ですから、トラウマは両親の性交というなまの事実ではなく、主観的象徴化することで、遡及的にそのトラウマとしての性格を獲得し、原因となるのです。ここにトラウマの遡及的循環があります。トラウマは象徴化がなめらかに動くのを乱し、バランスを崩す原因である。それは象徴の場に除去できない不整合をもたらします。しかしそれにもかかわらず、トラウマは象徴化に先行する実存をもっていません。あくまで、遡及的に、象徴の地平の中で見てはじめて整合性を得る実体なのです。トラウマが整合性を獲得するのは、象徴の場の不整合という構造的必要からのことなのです。

神を信じることとトラウマの原因については、どちらも自分に外的で実在な何かをに措定する必要、つまり、客観と主観のパラドックスがあります。性差についても同じではないでしょうか。実在した性差と文化的構築、どちらにせよ性差の謎を解きはしないのです。前者に対して、フロイトはすでにエゴ、すなわち、自我があくまでわれわれの幻想にすぎないことを示してくれました。はじめから文化に抑圧される本当の自分そのものは存在しないのです。後者に対して、原因たるトラウマ、つまり、無意識、から主体が出てくることを忘れてはいけないです。われわれは文化的構築の完全なる主観的立場に立っているのではなく、私たちにとって外的な何かが確かに存在します。ただ、ここで決定論に落ちてはいけないです。無意識がわれわれを決めたわけではないのです。

この、象徴化の前に存在せず、象徴化によって遡及的に措定される原因たるトラウマという逆説をよく考えてみましょう。トラウマは象徴化されない核であり、直接ではなく、間接的に、象徴の秩序の内部での乱れ、つまり、象徴化の失敗という姿をとって動作します。意味する連鎖の自動機械が、ほんの短い間、あるトラウマになっている記憶が介在することで中断するときの、言い間違いを思い出せば十分である。直接にアクセスできないため、この原因たるトラウマは私たちを決める何かとして考えてはいけないです。無意識が<無>意識であるように、原因たるトラウマを象徴化できないまま意味づけることができないのです。言い換えれば、トラウマは象徴されるものを持たない象徴、シニフィエを持たないシニフィアンではないでしょうか。

信仰という存在はまさに何も象徴しないシニフィアンではないですか。神は価値観の産物おというより、純粋な名前として機能するという方が正しいでしょう。「今から行動しなければ!国家は危機の中に!」という国家主義者の発言を想像してみましょう。ここで、「国家」という言葉は、その人のこれからの行動を正当化して、意味付ける空っぽの名前だけではないでしょうか。ここでは、反社会主義的な警句の例を通じて明らかにしてみましょう。「確かに、われわれには十分な食料も、電力も、アパートも、本も、自由もないが、それが結局どうしたというのか。われわれには社会主義があるじゃないか」というものです。社会主義が、実際の質、食糧や電力など、を指し示す略語として措定されるべきですが、政治運動を支える基盤として実質を持たない大義になったのです。

精神分析での「父の名」も同じではないでしょうか。子供を叱るお母さんを想像してみてください。「お父さんはきっと怒るよ。」ここの「お父さん」が実際にどう思っているかどうでもいいです。父の名は実質を持たなくても、子供への叱りを正当化させられるのではないでしょうか。この空っぽのシニフィアンは主人のシニフィアン(Master Signifer)と呼ばれ、個人にとっての世界、つまり、他のシニフィアンを意味づけることができます。神や両親から白黒の価値観をもらってから、私たちはようやく行動できるようになります。原因たる大義としての主人のシニフィアンは決してなくさればならないのです。


性差

性差は対立的、対称的、補完的な関係性として認識されてきました。プラトンの著書『饗宴』で、人は女性と男性に二分された故に、二つの性別がもう一度一つの状態に戻ることを望んでいます。これに対して、ラカンの「性関係はない」という見解はどういう意味でしょうか。クロード・レヴィ=ストロースが『構造人類学』に提出した「ゼロ制度」の概念を見てみましょう。一つの村には暮らしている二つのグループに村の配置を描くことを彼は頼んで、結果全く認識が違う二つの絵を獲得しました。ストロースは、観察者によって認識が異なるという相対主義ではなく、この相容れなさをまさに隠していた定数として捉えました。この定数はトラウマ的な核であり、村の住民たちが象徴化する、かつ吸収することができなかった基本的対立(fundamental antagonism)です。

左翼と右翼の対立を想起しましょう。左翼と右翼の違いは政治領域に違う立場にいるだけではなく、違いにとっての政治の構造自体が全く違うのではないでしょうか。左翼は政治をいくつかの基本的対立によって分裂された領域として捉えるのに対して、右翼は外国からの侵入者によってコミュニティの整合性が乱れたのとして捉えます。二つのグループが対立しているにもかかわらず村の絆を築き上げましたから、この相容れなさも共有され、象徴化されなければならないです。ここは主人のシニフィアンの出番です。共有されているシニフィアンは社会制度の整合性を保証しながら、対立的本質のために実在確定的(positive and determinate)な意味をづけることはできないのです。

性別はまさに主人のシニフィアンの一つではないのでしょうか。『無意識における文字の審級、あるいはフロイト以後の理性』の一文のなかで、「女」と「男」が上に書いている、二つ全く同じなドアのイメージをラカンは示してくれました。イメージ的指示物においては、区別は全くつけられません。しかし、象徴的特性のため、「女」と「男」という言葉がすでについているため、違うドアとして捉えれなければならないのです。ここで、二つのドアが同じという実質にもかかわらず、象徴的区別はとりあえずそこに存在します。したがって、性差は純粋の差異、すなわち、実質やアイデンティティに先行する差異となります。

このように、性別をハーモニーと思ってはいけないのです。対立的、対称的、補完的な関係性を築いてみるたびに、必ず失敗を迎えるのです。だから、実質的性差を明らかにできないのにかかわらず、われわれの社会にとって性別の概念を諦めることもできないと言えるのです。


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