忘れな草

忘れな草



「来週はいよいよダービーか…」


そう呟いて、あにまんのウマカテを見る。2年前、微塵も競馬に興味がなかった僕がウマ娘を始め、競馬を見るようになったきっかけの場所。

オークスの結果でたくさんスレが立っていて、興味を引いた物を覗いて回り、少ししたら休憩しようとスマホを置く。

しかし、その正面には先ほどまで無かった変わった物体があった。


「『ウマ娘になれる代わりにあにまん民と強制的にエッチさせられるボタン』……?」


そのスイッチボタンの側面にはそう文字が書かれていて。


「ウマ娘になれる、けどその代わりあにまん民と…でもそもそも、これ本物なのかな?」


考えを巡らせるけど、結局のところ押してみなきゃ何も分かるはずがない。しばらくの沈黙のあと、僕は意を決した。


「押して、みよう」


ウマ娘になれるかもしれない、ということへの好奇心。それが僕の指を動かさせ、ボタンを押下する。


「なん、だ……」


その瞬間、急速な眠気に襲われ、瞼が落ち頭を垂れる。それから意識を手放すまでは長くかからなかった。




「ここ、は…」


次に目覚めた時、私は病室の、ベッドの横にある椅子に腰掛けた状態だった。


「やっと目が覚めたか、大丈夫か?」


少年の声が聞こえる。その声に私は、聞き覚えがあった。


「その声、もしかして……シン君?」


「ああ、引っ越した兄ちゃんにそう呼ばれてたけど……」


シン君は、私が遠くの大学に受かってそちらへ行くまで近所に住んでいた年下の男の子だ。昔からよく遊んでいて、大学入試に一回落ちて塞ぎ込んでいた私を、一緒に遊ぼうと連れ出して調子を戻すきっかけになったりして幾度となく助けてもらった。彼は私の恩人だ。


「やっぱり……!私がその兄ちゃん、だと思うの」


「兄ちゃんというか、ウマ娘の姉ちゃんになってるけど…」


少なくとも彼からは今の私はウマ娘に見えるようだ。そうなるとあのボタンは本物だったらしいと納得せざるを得ない。


「あ、この姿はちょっと訳があってね……さっき突然ボタンが現れて、それを押したらこうなったの。信じられないかもしれないけど、本当だよ」


「確かに、急にピカッと光って現れたからビックリした。嘘を言ってる感じはしないし…信じるよ」


そう言ってもらってホッと一息ついたけど、ここで次の疑問が生じる。


「そう言えばここ、病院…みたいだけどどこか怪我したの?」


「俺…………いや、でも………」


言い澱む彼に不安を覚える。何か言いづらいことなのだろうか。ただの怪我よりもっと重大なことだろうか。


「いや、やっぱり言うよ…………俺、実は余命があと少しなんだ」


「えっ…………」


絶句する。余命が、あと僅か?大学へ行く前はあんなに元気だったのに。


「兄ちゃんが大学行ってしばらくして発覚して、ずっと今まで病院にいるんだ。今じゃもう、病院の外に出るのも駄目だって」


私がいない間に、そんなことになっていたなんて。


「俺……まだたくさん、やりたいこと、あったんだ、でも…終わりだって」


彼の頬に一筋の滴が落ちる。それを私はただ見ているだけしかできない。


「ウマ娘のライブ、行きたかった…競馬のレースも生で見たかった…!でももう、俺には無理なんだよ…!」


「シン君……」


「俺………お、れ……!」


「シン君、大丈夫、私が側にいてあげるから」


泣いている彼を胸に抱き寄せる。少しでも落ち着けることを願って。


「にい、姉、ちゃん……」


「全部はできないと思うけど、シン君のやりたかったこと…私が叶えるよ」


「うん…わか、った」


思いがけない再会をして、そして衝撃的な事実に直面した。これから私は、彼はどうなるのだろうか。





ウマ娘になってから1日が経った。私が転移してきた時に肩に掛けていたバッグには元々使っていたスマホと使いもしないのに十数万くらい入れていた財布が入っており、しばらくの生活は…寝泊まりはネカフェとかになるけど、なんとかなりそうだ。


「そういえばシン君はあにまんって知ってる?」


「ああ、よく見てるよ。ウマカテとか、病院だと暇だから」


「そうなんだ、実は私もあにまん民、でさ……ボタンを押したらこうなったって言ったでしょ?」


「言ってた」


そこから先はちょっと言い澱む。内容が内容だから躊躇ってしまう。


「えーと、そのボタンが『ウマ娘になれる代わりにあにまん民と強制的にエッチさせられるボタン』っていうちょっと変なボタンでね」


「ウマ娘になれる、その代わりあにまん民と………つまり」


「多分、私のお相手がシン君……ってことになると思う」


そこまで言うと、シン君は怪訝そうな顔で首をかしげる。


「でも、急にそんなこと言われても……」


「やっぱり、そうだよね…とりあえず、様子見ってことで」


そしてしばしの沈黙。数秒くらい経って、シン君が静寂を破る。


「……あ、そういや姉ちゃん食べる物どうしてるんだ?」


「バッグに入ってた私のお金で買ってるけど……」


「じゃあお見舞いのやつ、あげるよ。どうせ俺はあんま食べられないし、食費が浮くだろ」


「うーん……………」


勝手に食べて良いものなのだろうか?というか急に減ったら怪しまれないだろうか。

でも、今働いていない状態だから所持金は減る一方な訳で……やはり出費を少しでも減らさなきゃいけない。


「………じゃあ、ちょっとだけ貰うね?」


そう言って立ち上がり、クッキーとゼリーをバッグに入れる。すると、私の服の袖をシン君が引いた。


「な、なぁ……姉ちゃん」


「どうしたの?」


「明日も、明後日も…その後も、来てくれるよな…?」


「……うん、もちろんだよ」


彼の頭を撫でて、微笑んでから静かに部屋から退室した。





「俺のやりたいこと、聞いてくれるか?」


次の日、新しく買った服でシン君の病室へ行きしばらく雑談していると、彼はそう言った。


「うん、いいよ。どんなこと?」


「まずは、競馬のレース見に行きたかった。あと、ライブも。それと、女の子と付き合いたかったし…」


「なるほど、ね。じゃあ………今度の日曜に、叶えに行こうか」


「………本当?」


「うーん、100%叶えられるって訳じゃないけど、こっそり競馬場行って、それから私がデートしてあげる。どうかな?」


「行きたい、けど……行けるのか?」


そう、最初に会った日に彼が言った通り、病院の外に出ることすら許されていない訳で…しかし。


「今の私はウマ娘だからね、きっとなんとかできるよ」


人間離れしたパワーを持つウマ娘なら、不可能ではないと思う。





そして日曜日がやってきた。もちろん目標は…。


『さあいよいよ発走の時刻が近づいて参りました、東京競馬場第11レース GⅠ東京優駿日本ダービーです。2020年に生まれたおよそ7500頭のサラブレッドの頂点を決める戦いがいよいよ始まります』


日本ダービー。世代の頂点を決める大レース。やはり、競馬を知った身であれば一度は生で見たいレースの一つだろう。

実はシン君の病院は府中からそう遠くない場所にあったけど、彼がウマ娘やあにまんを知った時には既に外出禁止の状態だったため来ることはできなかった。

そこでひと気の少ない時間帯を狙ってシン君を病院の外に連れ出し、そこからは私が介助しつつ競馬場まで歩いてきた。


生演奏で大迫力の関東GⅠのファンファーレが鳴り響く中、ゲート入りが進行して、次々とゲートへ出走馬が入っていく様子が見える。


『最後の1頭がゲートに収まり、落ち着いて…ゲートが開きスタートしました!』




「姉ちゃん、すごかった!生の競馬!」


「うん、実際はやっぱりすごかったね」


シン君は18頭の単勝100円(応援馬券)を握りしめ、興奮した様子で言う。私は普通に当てに行ってなんとか収支はプラスにできた。……当たらなかった時のことは想像したくない。


「そういえばウマ娘のライブ、見たいって言ってたよね」


「ああ……でも、いま確かイベントとかないよな」


「満足できるか分からないけど、カラオケで私が歌うよ」


「姉ちゃんが?」


「ほら、今は私だってウマ娘だし」


競馬場から若干離れたカラオケへ入り、短めの時間を選択して個室へと入った。




カラオケでウマ娘の曲を中心にシン君のリクエストに答えながら歌って、満足した様子のシン君と一緒に出るともうすっかり暗くなっていた。


「このまま帰るの危ないね……ちょっとホテルで朝まで待とうか」


「あ、ああ……姉ちゃん……」


そしてホテルへ入り、非日常感で昂っていた私たちは…………ボタンの条件を達成した。





───翌朝。


「姉ちゃん、姉ちゃん」


「んぅ……どうしたの…シン君……」


シン君に揺り起こされる。一応寝る前に下着だけは付け直した私と違って彼は完全に裸だった。


「姉ちゃん、昨夜やったことって…子供、できるんだよな」


「うん……できちゃう、かもね」


私も初めてだったから、避妊とか一切考えてなかった。でも後悔はしてないし、むしろそれで良かったと思っている。


「姉ちゃん…俺との子供……産んでほしい……」


「デキてたら、絶対産むよ」


だって、シン君は最初で最後の経験になるかもしれないんだから。それでシン君がこの世に生きた証を遺せるなら、後悔なんてない。


「シン君は今日…じゃなくて昨日か。昨日は楽しかった?」


「ああ…!姉ちゃんが、俺がやりたかったこと全部叶えてくれたから、楽しくないわけない」


「それは良かった」


少しの静寂。シン君が何か言おうとしている様子だから、見守る。………そして。


「……なあ、姉ちゃん。俺…姉ちゃんが大好きだ」


「し、シン君…?」


「姉ちゃんが“姉ちゃん”になってからほんの1週間だけど…出会えてよかったって心の底から思ってるんだ。もう思い残すことなんてないくらいに幸せだ」


「うん、私もシン君とまた会えて……本当に良かったよ」


だけど、そろそろ病院に戻らないと本当に心配されてしまうだろう。私たちは名残惜しさを感じながらもホテルを出て病院へ帰る準備をした。






それから数ヵ月が経った。

病院へ戻って3日後にシン君は天国へ旅立ったと聞いた。……最期はとても安らかな寝顔だったとも。

あの日、シン君はもう思い残すことはないと言っていたけど…私の方は、シン君ともっと一緒にいたいと思ってしまっていた。

だけど、その寂しさはきっともうすぐでおしまい。何故なら、この膨らんだお腹には。


「元気に生まれてきて、お父さんの何倍も長生きしてね」


彼の子供が、忘れ形見が宿っているのだから。この子と一緒に、ウマ娘としての新たな人生を生きていく決意を新たにした。





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