忌み者の夢
肌を刺す冷たさで、急激に意識が引っ張り上げられた。
「どこだ?ここは…おれはたしか…」
霞がかった頭で記憶を辿る。
オヤジ、みんな、ルフィ、それとローも一緒に居たような。
「ようやくお目覚めか」
「…子ども?」
「見てくれだけはな…フフ…」
王様でも住んでそうな見た目の割に嫌に冷え切った部屋に、金の髪、赤い瞳の子どもが立っていた。
この色をおれは昔どこかで見たことがある。分からねえことだらけなのに、目の前の子どもを警戒する気は起きなかった。
「…ここはどこなんだ?オヤジやみんなは…ルフィとローはどうなった?」
「さあ?ああ、この場所なら、夢のどこか片隅とでも思っておけばいい」
「夢?」
「…おれは……”兄上”とだけ呼ばれてる。他に呼び名が必要なら好きに呼べ」
まいった。分からねえことの上に分からねえことが乗っかっていく。
曖昧な記憶の中をさらいながら、みんなの所へ行かなければいけないという思いだけがふわつく脳を申し訳程度に働かせていた。
「待ってくれ、おれは戻らねえと」
「戻る?どこに?ここからは出られやしねえ。仲良くやろうぜ?居候」
10歳かそこらにしか見えない子どもは、やたらと大人びた顔で笑った。
おれは今、どうやら相当由緒正しいらしい城をあの子どもの案内で進んでいた。
凍える城の中には子ども以外の気配はなかったが、大食堂にメシが用意されていたからには他にも誰か住んではいるんだろう。
とりあえずそれはいい。それはいいんだが。
「なあ、ひとつ尋ねてェんだが…」
「なんだ?」
「お前の弟ってのは、この城に捕らえられてるって認識で合ってるかい?」
「なぜ?」
尖塔の屋根の凍り付いたへりを慎重に渡るおれに、先を行く子どもは不思議そうにそう聞き返してきた。
「いやァ…そうでもねぇとコソコソ屋根の上をつたってく理由もねえかなと」
「フフフ!安心しろ!なにも人の目を避けてるわけじゃねェさ」
「そうなのか?」
あまりにも勝手知ったる様子の子どもの言葉には、変な説得力があった。
そうだ、お前は弟に会わせてやる。
貴族が着るような上等な服に身を包んだ子どもの案内で、おれはその弟くんのもとへ向かうことになった。
それがバカでかい書庫の隠し梯子を上り見るからに後から建付けられた粗末な木の階段を登って屋根の上を渡らないと行けねえ場所に居るってのは、ワケありに違いねえと思ったんだが。
「ところでお前、なぜずっと炎を出してる?」
「むしろ雪も積もってる中そんな薄着で、お前寒くねェのか?」
「ああ、そういうことか」
雪こそ降ってねえとはいえ間違いなく薄いシャツ一枚でなんとかなるレベルじゃない寒さの中で、子どもは能力の炎を防寒に使うおれを平然と振り返った。
おれに向けられた指先がついついと動くと同時に、体を温かい上着が覆う。
「!お前も能力者か!」
それもトシの割に随分、使い慣れている。
「イトイトのな…分身だって作れるんだ。上着くらいわけねェよ」
「イトイト?…そりゃあ……いやどうもありがとう」
イトイトの実の能力者。
おれが知るそいつは、医療の街を治める男だった。
街の血を受け入れる気も酒を止める気も全然ねえオヤジに手を焼くマルコを、いつも呆れたような、それでいておかしそうな顔で眺めていた。
まともに話す機会もない新入りのおれのことまでよく知っていて、弟が、ルフィがいつフーシャ村を出るのか訊かれた時は正直驚いたものだった。
思えばこの子どもは、あの男に似ている。
「着いたぞ。ここだ」
「…なにもねェな」
「フフ、今はな」
少しずつ戻った記憶が今に追いついた時、目の前の子どもも足を止めた。
「このなかなか立派な王冠が鍵なんだよな?どうにも鍵穴は見当たらねェが」
宝箱から見つかりゃみんな大喜びでオヤジのとこに持ってくような王冠を、子どもは弟に会う鍵だと言って初対面のおれに簡単に預けていた。
「お前は王冠の"使い道"を知らねェのか?さあ…おれに被せてみるといい」
「…わかった」
雪に覆われた屋根に膝をついて、色とりどりの宝石が嵌め込まれたそれを、小さな頭に被せてやる。
不遜に細められた赤い瞳に、昔サボに聞いた戴冠式ってのはこんな風だろうかなんて思いながら。
突如吹き荒れた吹雪の向こうから、優しげな声が届いた。
「…ろしー?」
さっきまで何もなかったはずの屋根の上に、幻のように現れた建物の奥から響くこの歌を、おれは知っている。
あの戦場で花の香りと共に思い出されたそれは、おれがきっとまだ一人じゃなんにもできねえ赤ん坊だったころ聴いた子守歌だった。
糸に引かれるように勝手に動いた足が石段を駆け上がって、大理石の踊り場を抜けたおれは赤い絨毯が引かれた玉座の間に辿り着いていた。
ステンドグラスから差し込む月明かりにしちゃ明るい光を遮って、巨大な影がこちらを見下ろしている。
「あ、あああ…」
ぬめりを帯びた青白い皮膚に覆われた身体。背中からは大きな翼みたいな形の触手が生え、長い首にくっついた顔らしいそこには赤い瞳が何対も並んでいた。人のものに近い手には四本の指が備わり、尖った鳥の爪のような指先を揃えている。
「……あんた…」
異形としか形容できないその姿は、まるで。
「あんた海王類だったか!?」
後ろからあの子どもの噴き出す声が聞こえた。
「フッフッフッ!ああ…予想以上の反応だ。良かったな、ロシナンテ」
「ロシナンテって名前だったのか、"ろしー"…!ん?待てよ…まさか…」
「…フフ、紹介しよう、おれの弟のロシナンテ。この城の主さ」
器用におれの頭を撫ぜた白い指先は、凍えた空気のように冷たかった。
最初に教えられた通り、この夢から出る方法は無いようだった。
周囲を湖に囲まれた城の大橋は途中で落ちていて、その上繋がっていたはずの対岸はどこにも見えなかった。ありもので小舟を作って探索しても、周囲に立ち上る霧を抜けることはどうしてもできなかった。
それに最初は合点がいかなかったが、この城は確かに夢だった。なんせ腹が減らねえし眠くもならねえ。現実をなぞるみたいにメシを食って、豪華な部屋に似合わない崩れたレンガや庭の木を集めて作った火鉢の傍で眠っても、ずっと大きすぎる月が頭上からいなくなることはなかった。
それが確信に変わってからは、奇妙に穏やかな時間が続いた。
おれはロシーと、そのお兄さんと沢山話をした。
お兄さんとずっと呼ぶのもなんだからと、あの男の名前からとったあだ名を付けたのはおれだ。提案した時には、あの笑い方でやたらと笑われたもんだが。ロシナンテがロシーなら、ドフィで合ってるよな?
そうしていちいち着るのも面倒なごちゃごちゃした服にも慣れてきた頃、夢に誰かが迷い込んだ。
「あれ…?ここは…私たしか……」
「おっ、お目覚めかい」
「わっ!!ええと、あなたは?」
「おれは……この夢の居候だ」
「えっ夢!?どうしよう、私目覚めないといけないのに…」
紅白のめでたい髪色の姉ちゃんは、おれよりは夢だのなんだのに詳しいらしい。
まあ、こういう時はとりあえずだ。
「ドフィ―!!!!」
「うるせェぞ」
窓を開け放して叫んだおれに、ドアの方から子どもの声が返った。
「う…寒い‥…」
「とっとと窓を閉めろ」
能力で器用に作られていく上着に縮こまった姉ちゃんへと目を向けながら、ドフィはもう片手のイトで冷気の吹き込む窓を閉じた。
「上着ありがとう…えっと、それでここは?あなたが居るってことは、もしかして夢の通路みたいなところ?」
「お前にとっては、な……ウタ」
聞き覚えのある名前に立ち上がったその足は、迷わず小さな背を追って歩き出した。
ピカピカに磨き上げられた大理石の床に敷かれた赤い絨毯の上を、三人で歩く。
半開きになった大扉の向こうは、城を囲むあの白い霧に覆われて見えない。
「抜けられるのか?あれ」
あれ、と分厚い霧を指したおれの言葉に、ウタは寂しそうな顔で頷いた。
「うん…たぶん、私だけなら」
おれは外に戻れねえが、ウタは違う。
なら、よかった。
「なあウタ、最後に一曲歌っちゃくれねェかい?」
「!…うん、勿論!!」
ただっ広い大広間の真ん中まで進んだウタが、背筋を伸ばして振り返る。
ルフィがいつも話していた、シャンクスの娘。赤髪海賊団の音楽家で、歌手になるためにエレジアに残った友だち。負けず嫌いで歌が上手くて、面白くて、いいやつ。
いつかルフィが言ったみたいな、夢の果ての新時代を目指して、そして創る一人。
反響する歌に、謁見の間から響く音楽が合わさった。
いつの間にか現れた見えない赤子を抱いたロシーが、あの宝石みたいな沢山の赤い瞳でおれたちを見守っているのが分かった。
「凄ェな、ウタ!!話でしか知らなかったもんで…!!歌ってくれてありがとうな!!!」
「私もここに歌を残していけて、嬉しいよ」
二人分の拍手に、ウタはそう言って笑顔を見せてくれた。
そろそろ、お別れの時間だ。
「あっ、そうだ!お兄さんの名前、教えて!!」
大扉の前で立ち止まったウタは、そう言って顔だけでおれを振り返った。
外に戻れるウタなら、言葉だって伝えられる。
そのことに気付いたおれの頭によぎったのは、あの"最期"からの日々だった。
逃げるなと騒ぎ立てる血に振り回されず過ごしたこの夢には、考える時間ならいくらでもあった。
オヤジを海賊王にならせてやりてェと言ったおれに、釘をさすような言葉を返した狩人の街の長。処刑台で聞いた、センゴクの言葉。
オヤジの心が、今なら分かる。
おれが本当に欲しかったものは、"名声"なんかじゃなかったんだ。
求めたものは、とっくにこの手の中にあった。ひとつなぎの大秘宝なんて、おれたちには必要なかった。
おれの人生には、悔いはない。
だから、ただ。
「おれはエース!!弟を、ルフィをよろしく頼むよ!!!」
おれの言葉に目を見開いたその背中を、そのまま霧の中へと押し込んだ。
こちらに手を伸ばそうとしたウタの影は、小さく遠ざかっていく赤子の笑い声と一緒に、霧の向こうへ白く霞んで消えていった。