待ち人と奇跡、来たり
>>169どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい……お兄さんのかつてのベッドで。
もぞりと首だけ動かして部屋の時計を見上げれば、短針がてっぺんを少し過ぎたくらいのところにある。
窓から覗く空は真っ暗なので、夜中の方のてっぺんなのだろう。LINEの通知も鳴り止んでいる。
変な時間に寝て変な時間に起きてしまった。オリンピックアスリートにあるまじきガタガタな生活習慣である。
「んぅ……」
なにもかもお兄さんが悪い。心中でボヤきながら寝返りを打って、枕に顔面を埋める。そのままスゥーッと鼻で息を吸うが……よく洗濯された布の匂いしかしない。
……高校の卒業式の翌日。お兄さんが前触れもなく消えてしまってから、もう五年。
五年ですよ? 五年! 一緒にいた高校三年間の二倍近い時間が経ってしまっている。
私ももう二十三歳。あと少しで、出会った時のお兄さんの歳に追いついてしまう。
「……やだな」
夢でいいから会いたい。
この五年間、どうしようもなく恋しくなってしまったときは、こうしてお兄さんのベッドで寝た。
でも、一度として夢に出てきてくれたことはないし、今回も来てくれなかったようだ。
「……今度はお兄さんの恥ずかしい話、しちゃいますよー?」
こんなに世間で『謎の天才コーチ』だとか『陸と水の女王を育てた二刀流の指導者』だとか騒がれているのに、出てきてくれないなんて……。
「……むしろそれがダメ?」
その時、枕元に放ってあったスマホが通知を鳴らした。
誰だーこんな夜中に送る非常識なやつはー? といったんは無視する。
だが、昼間とは違って、報道関係者やチームメンバー、監督なんかからではないはずだ。もしかしたら高校同期の誰かかもしれない。
のそのそとした動きで伏せてあったスマホを手に取り、画面を視界に入れた途端、身体がバネのように飛び上がった。
『これ届いてるか?』
あの日以降、どんな言葉もスタンプも「送信されませんでした」の表示を返してきたアカウント。
新着に追いやられて友達一覧の下の方になっても、大事に大事にバックアップを取って、何度も何度も読み返していたトーク履歴。
そこに、五年ぶりの通知が来た。
震える手で通知をタップすると、一枚の画像が表示される。
<菱川みくる選手 五輪金メダルおめでとう>
<陸と水の女王の故郷>
送られてきた小っ恥ずかしい横断幕の写真、それを見た瞬間、私はベッドから跳ね起きて走り出していた。
『なぁこれどういうことだ?』
『というかトークの日付おかしくないか?』
手に握ったままのスマホが続けざまに通知を鳴らしているが、それどころじゃない。
着の身着のまま玄関まで向かい、クロックスをつんのめりそうになりながらなんとか履いて、外へと駆け出す。
「みくるー?」
騒音で起きてきた両親の声を背中で聞きながら、私は全力で走った。
運命の人に、もう一度会うため。
あれは駅の改札の横断幕……私とお兄さんが初めて出会った、あの駅の写真だ。
家から駅まで、世界新記録を狙える速さで駆け抜ける。
クロックスでこの速度が出せているのだから、競技用のシューズにトラックだったら確実に世界新が出ていた。
とはいえ、ここ数日ぐーたらしていた影響もあってか、駅に着くころには息も絶え絶え、心臓もうるさいぐらいに脈打つ羽目になった。
「ぜぇ……はぁ……きっつ……」
本当にこれが五輪選手の姿だろうか。まぁ終電過ぎの駅には人が全くいないので気にしない。
「──みくる」
今度は違う意味で心臓が跳ねた。
横断幕のある改札の外、駅の入口の所に、あの人はいた。
「……おにいさん」
声を聴いた瞬間、
「お兄さん……っ!」
顔を見た瞬間、もうこらえ切れなかった。
泣きそうで苦しい胸を押さえながら、クロックスの片足が脱げるのも気にせず、私はお兄さんに飛び込んだ。
「お、おい……」
お兄さんは驚きながらも、そっと抱き留めてくれた。
五年前と変わらない匂いと温もりの中で、私は泣き叫んだ。
「なんで……なんでぇっ!?」
なんであの時いなくなったの?
なんで今更こっちにきたの?
なんで……もっと早く来てくれなかったの?
「……すまん、俺の感覚では、みくるの卒業式から二日も経ってないんだ」
「ぐすっ……はぁ?」
抱きついたままお兄さんの顔を見上げると、思い出と全く相違ない顔……1ミリも老けていない顔面があった。
こっちの世界(みくるの世界)で三年を過ごした後、あっちの世界(ミラ子の世界)に戻ったお兄さん。
こっちで三年経っているのに、あっちではひと晩も経過していなかったらしい。
「夢の中で三年過ごした、みたいな感覚でさ」
「こっちでの三年間が夢?! 私とは遊びだったと?!」
「違う! みくるの戦歴全部言おうか? 夢みたいだったが起きた後でも記憶ははっきりしてた!」
「そうだけどそうじゃない!」
ともかく、あまりにもはっきりとした夢だったので、その内容をミラ子さんに話したらしい。
話すうち、やはり夢ではなく実際に異世界に行っていたのでは? という考えに至った。
「だから、こっちに来た時の状況を再現すれば、もう一度いけるんじゃないかって」
「……それで、終電寝過ごしですか?」
「……そう、みくるに初めて出会った時とおんなじ」
五年前、高校生になったばかりで、初めて深夜の外ランニングが許された私。
張り切って駅のほうまで走ってきて……そこで、途方に暮れるお兄さんと出会ったのだ。
「で、こっち来れたってわけ。五年経ってるのは、びっくりしたけど……」
そう言ってお兄さんは、改札上の横断幕を見上げた。
「……みくるが来るまでに、こっちのネットで調べたよ」
お兄さんが私の肩をつかんで、軽く体を引き離した。お互いの顔がちゃんと正面で見えるようにする。
「……オリンピック金メダル、おめでとう」
そっけないのに温かくて、飾らないのに真摯で。
今まで幾度となく聞いた賛辞なのに、お兄さんのそれが一番うれしい。
この五年が、報われた気がした。
「……しかし、“陸と水の女王”、“新時代の二刀流”か」
私がまた泣きそうになっているのを察してか、お兄さんが真剣な表情から意地悪そうな顔に切り替えて茶化すように言った。
「ちょ、それはメディアが勝手に言ってるだけで!」
「とか言って、本当は気に入ってるんだろ?」
「自称したことはないですっ!」
もー! と、あの頃みたいな遠慮のない会話に、また別の意味で泣きそうになっていると
「……あ、あのぉ」
改札の柱の陰から、どこか聞き覚えのあるような……というか、若いころの私みたいな声が聞こえてきた。
「感動の再会のところ、たいっへんっ申し訳ないんですけど……そろそろいいですか、“トレーナーさん”?」
お兄さんをトレーナーさんと呼ぶその女の子は、
「あ、ああそうだな……ちゃんと紹介しないと」
すみれ色と藤色の制服姿に、光の加減で白にも銀色にも見える髪をしていて、
「……まさか」
「うん、そのまさか。一緒に終電を寝過ごしたら、来れちゃった」
そして、馬の耳としっぽが生えていて、
「はじめまして、ヒシミラクルです……あの、帽子とか持ってません?」
それ以外のところは、五年前、十八歳の頃の私にそっくりだった。
Fin