彼の歌声
私は彼の歌声を心底うるさいと思う――。
アレシーヌのように、滑らかで透き通った声ではない。プリンのように眠気を、安らぎを誘うような声でもない。ラプラスのように、人の心を動かす声ではない。私にとって、彼の声は調子の外れた吠え声にしか聞こえない。
彼の歌声は、全てを破壊するような攻撃的な音だ。オンバーンの爆音波を想像して欲しい。彼の歌声はまさにそれだった。彼が吠えれば窓ガラスは震え、やがて砕ける。我が家のグラスや皿を何個粉砕したことだろうか。十を超えたころで、数えるのを止めてしまった。
そんな彼も、進化前はとても大人しかった。人前で声を出すことが恥ずかしいのか、私の後ろに隠れてゴニョゴニョと小さな声で鳴いていたのが懐かしい。
――それなのに、どうしてこうなってしまった。
切っ掛けは何だったのだろう。脳裏をよぎるのは、あのライブだ。
ホウエンから来たというあのアイドル。チルタリスを連れていた彼女。その歌を聞いてから、彼の様子がおかしくなった。しきりに小さな棒を求めるようになったのだ。トイレットペーパーの芯をマイクに見立てて、小さな声でリズムを刻む。その姿を、最初は微笑ましく見守っていたものだ。彼がいくら歌おうとも窓は壊れなかったし、お気に入りのマグカップにヒビが入ることもない。私も一緒になって、彼女のライブを真似していた。
そんな日々がしばらく続いた。今となっては懐かしい過去の記憶。
彼が変わったのは、あの日だ。アルバイトで貯めたお金で、彼に本物のマイクを贈ったあの日。小さな彼が、宝物を抱きかかえるようにマイクを握り締めた瞬間、部屋は真っ白な光に包まれた。眩しさに目を細める。瞼を突き抜ける光が和らぐと、私は目を開いた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。この部屋には私と彼しかいない筈だ。両手で抱えられるほど小さな彼。私の可愛らしい相棒。マイクを抱えた彼は、どこに行ってしまった。
目の前にいるのは誰だ。薄紫色の大きなポケモン。体長の殆どが顔になっていて、顔の横から太い手足が突き出ている。頭部から張り出した耳はスピーカーのようだった。
――見知らぬポケモンだ。
マイクを握り締めたままポケモンが口を開く。私の頭を一飲み出来てしまいそうな大きな口だった。ポケモンが喉を鳴らして音を出す。私が知る彼とは到底似ていない、低いだみ声だ。同時に、耳も振動して音が鳴る。音が部屋全体に轟いた。
私は思わず両耳を手で覆った。
窓が共振し、音を立てて震える。テーブルに置いてあったグラスに亀裂が走り、二つに割れた。中に入っていた水が零れ落ち、床に染みを作る。
片目も閉じて騒音に耐える。音が波となって、何度も私を襲った。「やめて!」と、半ば悲鳴のように叫ぶと、音はぴたりと止んだ。
私は騒音を発していたポケモンに目を向けた。ポケモンは悲しそうに唇を結び、更に両手で口を抑え込んでいた。静寂に包まれた部屋が冷たく、張りつめた。
まさかとは思う。信じたくはなかった。だって、彼はもっと小さかった。声だって、こんなにも低くはなかった。しかし、この部屋に彼は居ない。代わりにいるのはよく似た色合いの、口の大きなポケモンだけだ。
「嘘……」
思わず、そう言葉が零れた。ポケモンは、彼は、私から視線を逸らした。マイクを握り締めたまま部屋の端に向かい、自らボールに収まる。彼が手に持っていたマイクがコトンと音を立てて床に落ちた。
部屋に私だけが取り残された。しんと静まった部屋は広く、物寂しく感じる。私は彼が消えた場所まで数歩進み、屈んでボールを手に取った。幼いころから使っていて、ハートや音符のシールがべたべたとついたままのボール。まごうことなき、彼のボールだ。
私はポケモンに詳しくはない。スマホロトムを起動して、図鑑を立ち上げて確認する。彼の進化先は、先ほどまで部屋にいたあのポケモンと同じだった。
――あのポケモンは彼だった。進化したのだった。
彼になんてことを言ってしまったんだ。私は軽率な発言を悔いた。「嘘」だなんて。たった一言とはいえ、彼を傷つけるには十分な言葉だった。
「驚いただけなの。違う、そんなつもりじゃ――」私は口の中で言い訳をする。
ボールの開閉ボタンを何度も押した。しかし彼は姿を現さない。モンスターボールは開閉ボタンと、そのポケモン自身の意思によって「出る」「出ない」を選ぶことが出来る。彼は今「出ない」を選択しているようだ。
「――ごめんなさい」
誰もいない部屋で、言葉だけがむなしく弾けた。
結局その日は私がいくら彼に語り掛けようとも、姿を見せることはなかった。
数日後、私はポケモンセンターを訪れた。私がいくら呼び掛けても、彼が口をきいてはくれないのだ。食事や必要な手入れの際は姿を見せてくれる。しかし、その口が声を出すために開くことはない。また、用が終わるとそそくさとボールに戻ってしまっていた。彼が去り際に見せる視線はひどく冷たく感じた。
彼との関係が、あの瞬間から随分と変わってしまった。それが進化故ならば仕方がないと思えるが、実際は私が彼を傷付けてしまった。
「この子が喋ってくれないのは、私の所為なんです」
私はジョーイさんに、縋るように言った。どうすればいい。どうすれば彼は以前のように明るくなってくれる。
「進化したことに貴女も、彼も驚いてしまったんですね」
ジョーイさんは、私を責めなかった。彼女は暖かい声色で続ける。
「良くあることですよ。進化したら、大きさが変わってしまった。もう私の知るあの子じゃない、と言って手持ちを拒絶する人。食事や運動の量が変わって、育てきれないと投げ出す人。色々な方がいらっしゃいます」
ジョーイさんの声は暖かい。彼女は私の背中を優しく叩く。
「でも、貴女は彼を拒絶しなかった。そりゃあ、最初は『やめて』とか『嘘』おっしゃったそうですが、そんな一言で貴女達の絆が切れる訳ないじゃないですか」
彼女は震える私を慰めながら、ほほ笑んだ。
「それと、彼が喋らないのは貴女の所為じゃなさそうですよ」
「え?」
意外な言葉に、私は目を丸くする。私の所為じゃない?
ジョーイさんはその場で屈み、彼と目を合わせて尋ねた。
「君は喋れないのかな?」
ジョーイさんの問いに、彼は小さく首を振った。
「じゃあ、喋るのが怖い?」
今度は顔を上下に動かす。
「彼女が怖いから?」
彼は大きく首を横に振った。声を出すと私が怒るから怯えているのだろう。そう思っていたのだが、どうやら違うらしい。
「彼女を傷つけてしまうから?」
彼の頭は動かない。代わりに、ジョーイさんの目をまっすぐに見つめた。
「君が不用意に声を出さないのは、ガラスを割ったりして、彼女を傷つけてしまわないようにと考えての事かな?」
ジョーイさんが再び同じ質問をした。私は彼の方に視線を向ける。彼は大きく開いた瞳を潤わせ、やがてポトリと一滴の涙を流した。そして、ゆっくりと頷いた。うつ向いた瞬間、ポタポタと音を立てて彼の足元を濡らした。
「パートナー思いの、良い子ですねぇ」
ジョーイさんは、声を出さずに泣く彼をゆっくりと抱きしめる。私は見ていることしかできなかった。彼は私を想って声を出さなかったのだ。勝手に怯えているからとか、ふてくされているのだろうとか推測していたが、全然違っていた。何一つ彼のことを理解していなかった。私の所為であることは変わらないが、意味合いが全然違う。
「では、気を取り直して。まずは声出しの練習からですね」
ジョーイさんが彼に声を掛けた。
「君は歌うのが好きなんでしたね。お姉さんにも聞かせてくれないかな?」
彼はバッと顔を上げると目を輝かせる。だが次の瞬間にはまた俯いて、口を閉じてしまった。
「大丈夫。ここは外ですから、割れるものなんてないですよ」
彼女が再び声を掛けても、彼は口をつぐんだままだ。
「うーん、ちょっとばかり意固地になっちゃっていますね。彼が音を出しても大丈夫だって教えてあげたいんですが……。何かいい方法は無いですかねー。ほら、彼が歌いたくなるものとか。好きな曲とか無いかなー」
ジョーイさんは顎に手を当て、わざとらしくこちらを見た。
彼が好きな曲。ライブを聞いてから、ずっと繰り返し流していたあの曲がある。私はスマホロトムを操作して、曲を流す準備を整えた。
もう一つ、歌いたくなるもの。彼が進化する切っ掛けとなったアレがある。あの日からずっと持ち歩いているが、彼に返すことが出来なかったマイクだ。私は鞄の底から、マイクを取り出す。彼がそれを見た瞬間、目の奥で何かが光った気がした。
「私も貴方の歌が聞きたいな」
そう言って、彼にマイクを差し出した。
受け取ってくれなかったらどうしよう。もう私の小さな彼ではないのかもしれない。
彼は私に手を伸ばす。私が差し出す手を彼は、マイクごと挟むように両手をかぶせた。
暖かい手だ。小さかった頃と何ら変わりのない、彼の暖かい手。
私はゆっくりと手を離した。彼はマイクを両手で握り締めたままでいる。
受け取ってくれた。なぜか私は目頭が熱くなった気がした。
薄っすらとぼやける視界をよそに、スマホロトムを操作する。再生ボタンを押せば、曲のイントロが流れ始めた。リズミカルな音色に合わせて、彼は足を鳴らした。
そして、アイドルの歌唱が始まるまで、あと数秒というところで何かが耳にかぶさった。ジョーイさんがヘッドホンをかぶせてくれたらしい。彼女の方を見やると、同じものを身につけていた。私の小さな彼をあしらったヘッドホンだ。私は耳に手を添えて、彼の歌声を待つ。
彼が大きく口を開く。深く、深く息を吸った次の瞬間――。
音が見えない波となって、私の髪をたなびかせた。彼は全力で声を出していた。小石が跳ねる位の音の勢いに、私は圧倒される。しかし、不思議と鼓膜を破る様な気配は全くなかった。この音量ならば聞こえるはずもないアイドルの歌声も、しっかりと耳に届いていた。
「このヘッドホン、ノイズキャンセリングがすごいんですよ」
疑問に思う私に、隣に立つジョーイさんがそう応えた。
「ノイズキャンセリング?」
「彼らのような大きな声のポケモンは、どうしても声を出すだけで嫌煙されがちです。だから、そう言った彼らが大声を出しても大丈夫なように、ノイズキャンセリング機能に特化したヘッドホンが開発されたんですよ」
彼女は耳を、ヘッドホンをトントンと叩き続ける。
「このヘッドホンの素晴らしい所は、彼らの大声を調節して耳に届けてくれるだけではなく、他の音は一切調節しないんです。だから、彼がこんなに元気に声を出していても、私の声や流れる曲はそのまま聞こえているでしょう?」
私な何度も頷いた。確かに他の環境音は普通に聞こえている。彼の声だって、不快にならない程度に抑えるだけだ。彼が表現したい音程や強弱は邪魔されず、こちらに伝わってくる。
「今はまだ進化したばかりで、彼も音量を調節できていません。ですが、その内ヘッドホンなしでも大丈夫なようになりますよ」
彼女は「貴女たちは大丈夫ですよ」と言うと、彼のリサイタルに視線を戻す。私も彼へと視線を向ける。そして気が付いた。
姿は変わってしまったが、彼は何も変わっていなかった。リズムをとるため、片足ずつ上げる癖。テンションの上がるサビの部分になると、身体が左右に揺れ始める所。私が知っている小さな彼と何ら変わりない。声が少し大きいくらいなんだ。このヘッドホンがあれば何の問題もないじゃないか。
彼はチルタリスのように「うたう」技は使えない。私もポケモンの技を使うことはできない。だが「歌う」ことは誰にだってできる。
一曲目が終わり、二曲目が始まる。私は彼の元へと駆け寄り、拳をマイクに見立てて一緒に歌い始めた。途中でジョーイさんも加わり、果ては、彼女のハピナスまで現れて即席コンサートが始まった。そのまま何曲も歌う。
あんな楽しいコンサートは初めてだった。彼と一緒に歌うのはとても楽しかった。
あれから半年。私は小さな湖に来ている。人気のない場所を選び、ボールを放った。彼が満面の笑みを浮かべて現れた。マイクを片手に、準備万端と言ったところか。私もヘッドホンをしっかりと嵌め、準備を整えた。そして、目の前の彼にOKのサインを出した。
彼は片手でマイクを構え、開いた手を広げる。口を大きく開けると、その大きな声を湖全体に轟かせた。相変わらず、彼は元気で声が大きい。彼の吠え越えは、歌声は森全体を揺らす。歌声に驚いた鳥ポケモン達が一斉に飛び立った。
やはり私は、彼の歌声を心底うるさいと思う――。
部屋の窓も、何枚も割った。
旅行先から持って帰った土産物のグラスも、一個も残っていない。
近隣の人からクレームだって入った。
――だけど私は、彼の歌声は嫌いじゃない。