弟心兄知らず

弟心兄知らず


無理だな。冷静な己が、喚き立てる血の中で独り言ちた。

弟が書き出したメモに読み取れた情報は、特に驚くようなものではなかった。あの日のボロ小屋の様子を考えれば、生き残っているとすりゃ自力でって話じゃねえ可能性の方がよっぽど高い。だからこそ、裏との繋がりの一部を捨ててまで人間屋をあれだけ荒らし回ったのだから。

理解していた、つもりでいた。

ずっと、おれの成長に合わせて備品だけが大きくなっていった空き部屋に、ようやく現れた主はほとんどぴったりと違和感なく納まった。獣じみたやり方で人間を殺そうが、醜い唸り声の零れぬ血を宿していた。あいつにとっちゃ故も分からねえだろうおれの言葉を覚えて、実践していたのだと頷いた。

それらの事実が絶え間ない怒りと憎悪を遠くへと押しやっていることに、馬鹿みてェに浮かれたおれは気付かなかった。それだけの、マヌケな話だ。


夜のうちに纏めたのだろう己の"これまで"を粉々にされたロシナンテの、凪いだ目が微かに揺らぐ。あいつに残った僅かな、だが確かに情と呼べる何かをこの手で叩き潰したのだとしても、理性を覆う黒い汚泥に沈みこんだ己が止まれないことは誰よりよく知っていた。

理解していた、つもりだった。

その驕りは若干丈の合わねえシャツを捲った、左腕に残る傷に消し飛んだが。

まともな刃物で切られたもんじゃねえ、分厚くがたついた刃とすら言えねえ何かに抉られ引き攣った古傷が、前腕の内側に所狭しと並んでいた。

ディアマンテの報告が脳裏をよぎる。血を浴びて戦った弟の傷は、監督官が合流した時には既に癒えていたのだと。

ちちうえ、あにうえ、死なないで。

記憶の底に埋もれていたか細い声が、煮え滾る血にまた一つ気付きを齎す。

獣共の地獄を生き延びたおれの体が、何故これほど滑らかなままなのか。

腕のみならず開いた襟元にも裂傷の跡が見える弟の体が、何故これほど暴力を刻み付けられたままであるのか。

ボロ小屋の夜、浅い眠りを癒す甘い血の香りにまで至った思考は、瞬間黒々とした怒りに焼き尽くされた。


だが、下界の人間連中と14年を過ごし作り上げられた己は、おれの想定よりも余程優秀で冷静だった。

半日と経たず最高幹部の前に弟を連れ出し、普段通りに振る舞い笑顔さえ浮かべてみせた。日も傾きようやく全ての感覚を取り戻した時にも、アジトが吹っ飛んでるなんてことも、弟の体のどっかが欠け落ちてるなんてこともなく。

その上驚くべきことに、せめて喋れないのかきちんと訊いてやるべきだと、ディアマンテにも確認を取って駄目そうならば医者に診せてやるべきだとすら囁いた。秘匿の傍らであっても、クソみてェな目つきで人間を眺める弟に、ここがお前の居場所なのだとせめて声をかけてやることくらいはできるだろうと。

独りの部屋に、乾いた笑い声が落ちる。

それで、口を開いた傷だらけの弟の、低く変わっているのだろう声を聞いたとして。

にんげんに、にんげんが。

メモに綴られた弟の言葉を、意識して記憶の底に押し込める。

怒りと憎悪の底にこの手がついた時、あの日のように弟すらも放り出して世界を壊しに飛び出さずいられる想像など、どうしたってできやしねェ。

癖のように吊り上がった口元をそのままに、電伝虫の受話器を取り上げた。

あいつと接触する機会が多いだろうコラソンにも、他の幹部連中にも、見聞きした一切の情報をおれの耳に入れることを禁じておこう。

たったそれだけで命を拾えるってんだ。わざわざ命令に違反する奴も出ねえだろう。

口がきけずとも、言葉を交わすことに意味を見出しておらずとも、あるいはその機会をおれに切り刻まれたのだとしても、同じことだ。

言葉が出るのがひどく遅く、茫洋とした眼差しを世界に向けていた弟は、今も物言わぬまま。それが真実でなくとも、おれ達の事実であるのだと。それでいい。

おれと弟の、血に宿る獣を殺すその日までは。






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