幼魚と逆罰IF②

幼魚と逆罰IF②



羂索の計画に巻き込まれた一般人。

それが、虎杖倭助に対する呪物たちの共通認識だった。


まっさらな善人ではなく、かといって悪人でもない。年相応に酸いも甘いも噛み分けた、頑固で不器用な老爺。赤子の視界を介して見た男はどこまでも平凡な只人で、だからこそ誰からともなく言い出したのだ。

接触は可能な限り避けるべきではないか、と。


───人は己と異なるものを忌み嫌う。

───呪いと関わることなく生きてきた人間にとって、自分たちの存在は劇物だ。

───この幼子ごと放り出されるようなことがあれば、それこそ詰む。そうだろう?


どれほど呪いに通じ、殺しに長けていたとしても、赤ん坊の中に封じられた現状は虫よりも無力。ゆえに無知な老人を利用して、器たる虎杖悠仁を育てさせる。

珍しく一致した意見のもと、倭助とは関わりを持たずに過ごしていく、はずだった。


「どうかしばし、コイツの分別がつくまで控えてくれんか」


いつからか、男は孫の中に『ナニカ』がいると知っていた。

得体の知れぬ不気味な存在であろう自分たちに、頭を下げて頼み込む姿。

呪いと化した者たちの心境に変化が生じたのは、まさにそれを目の当たりにした瞬間だった。


呪物は告白する。

「悠仁の兄だってんなら、俺の孫みてえなもんだろ」

『住人』たちを代表して委細説明した自分に、そう言ってくれたのが嬉しかったと。


呪物は想起する。

「お前さんら、もしかせんでも結構抜けてるな?」

うっかり人前で悠仁の頬に表出してしまい、呆れたような生暖かい視線をよこされたのはちょっと腹が立ったと。


呪物は懐古する。

「……まず、酒を閉めろ。ツマミも片付ける。それが済んだら説教だ」

幼い悠仁を巻き込んで晩酌をしていたのを、全員揃って叱り飛ばしたされたのはさすがに気恥ずかしかったと。


呪物は独言する。

「そうか」

悠仁が寝ている間、誰からともなく語り始めた昔話を、黙って聞いた果ての一言に救われたような気がしたと。


年を経た者特有の、こちらを受け止めつつも迎合はしない姿勢。ある程度のところで線を引きながらも、さりげなく気にかけてくれていると感じる程度の距離感。

悠仁の中とはまた違う居心地の良さが、彼にはあった。


ゆえにあの日、誰もが男の死を悼んだのだ。

まるで、ただの人間がするのと同じように。


2018年6月。

虎杖倭助 永眠。

これほど多くの呪いに看取られて逝った者は、過去にも未来にも存在しない。



「最悪だよ」


生得領域内の映画館。その中でもいっとう広いシアターに集まっていた『住人』たちは、入ってきた人影へ一斉に視線を向けた。

「少し領域の様子を見てくる」と出ていったはずの天使が、そこに立っていた。

わずか数分足らずで戻ってきたその姿は、ぐっしょりと水気を含んでいる。けだるげに振った頭から、ぽたぽたと滴が落ちた。


「外は……聞くまでもなさそうだな」

「大荒れだ。嵐と言ってもまだ足りない。しかも一部の建物は水没しかかっている」


マジか、とざわめきが広がった。

虎杖の領域は、本人のコンディションによって天候が左右される。街が浸かるほどの雨が何を意味するのかなど、いまさら論ずるまでもない。


「ま、ひとまずお疲れさん」

「一応聞くが、こちらの進展は?」


近くの席から新品のタオルを投げてよこしたレジィに、首を傾げて問いかける。ミノムシを思わせるシルエットの男は、苦々しい顔でスクリーンの方へ顎をしゃくった。


「防戦一方。変わらないねえ」

「儂らで交代に、絶え間なく呼びかけてはおる」

「ただ、本当の意味で聞こえてるかは微妙なところね」

「正直かなりマズいと思うぜ」

「悠仁……悠仁ーッ!」


映画館のスクリーンには、虎杖の視界がそのまま反映される。

気分の悪くなる光景だった。少年の祖父と同じ顔をした『それ』が邪に笑い、腕や脚を変形させては振り回す。時折、赤い飛沫がスクリーンに舞うたび、あちこちから怒号が飛んだ。

虎杖にその意志がない限り、呪物たちは反撃もままならない。

死者の尊厳を穢されていることへの怒り。

見ていることしかできない無力感への憤り。

違う時代、違う場所にかつて生きた者たちは、いまや同じ空間で、同じ感情を共有していた。


「……もういい、限界だ」


不意に、九相図の長男が立ち上がる。


「俺が縛りを結んで、悠仁を一時的にこちらへ沈める。気は進まないが、このままでは悠仁の魂が削れるばかりだ」

「無理だな」


数多の目が、最後列の席へと向かう。

しなだれかかる万を侍らせ、全員を見下ろす形で座る呪いの王が、とうとう口を挟んだ。


「取り込まれた今ならわかる、これは檻だ。適応に時間のかかる俺ならともかく、オマエ達では話にならん。縛りを結んだとて、小僧の主導権なぞ到底握れまい」

「だから何だ」


嘲笑の色を含んだ正論に、しかし脹相は一歩も引かない。それは、彼の兄弟たちも同じだった。


「諦める理由にはならない」

「やってみなければわからないでしょう」

「俺達、悠仁の兄者だもんな!」

「……くだらんな。何をそこまで必死になる」


付き合いきれん、と天を仰ぎつつ宿儺は立ち上がった。


「あら、どこ行くの宿儺」

「寝る。小僧の無様を見物するくらいしかやることがないというに、やかましくておちおち鑑賞もできん」

「待て、……!」


協調性を欠いた身勝手な行動を、天使はいつものように咎めようと歩き始めて。

不意に、足を止めた。


「おい天使、どうした?」

「……そうか。いや、思いもよらぬ相手からヒントを貰ったなと」


常日頃は生真面目に引き結んでいる口元へ、らしからぬ笑みをニヤリと浮かべて。


「個人的感情としては非常に癪だが、事が事だ。礼を言うぞ堕天」

「は?」


天使から飛び出した予想外の言葉に、宿儺は盛大に片眉を吊り上げた。



「魂が死んだ人間の顔ってさ、何回見ても笑えるんだよね。今のオマエ、最高に面白ぇツラしてるよ!」


廊下を駆ける虎杖の背に、笑い声と破壊音が追いすがる。

狩る者と、狩られる者。双方の立場はすっかり逆転していた。


『悠仁聞くな! オマエの祖父は、倭助はあんな声ではないし、あんなことも言わない。そうだろ!』

「……ッ、わかってる!」


焦りといらだちが邪魔をして、兄姉の声にも八つ当たりじみた返事をしてしまう。強い感情の揺らぎは戦いにおいて禁物だと、耳にタコができるほど教えられてきたはずなのに。


だって、そこに祖父がいるのだ。

声色は違う。話し方だって似ても似つかない。

それでも、懐かしい顔を目にすると戦意がブレてしまう。

偽者だとしても、自分のせいで祖父が傷つく光景には耐えられない。

己が覚悟の弱さを、虎杖はこの数分で思い知らされていた。視線を落とし、自己嫌悪をくすぶらせながら走る。

背後にいたはずの真人が、いつの間にか正面に回り込んでいるのも気づかないまま。


「目、ついてんの?」


顔を上げた時には、もう遅かった。

がらあきの胴に、靴底がねじ込まれる。


「が、ぅえッ!」


後方に蹴り飛ばされながら、胃液と血反吐をまき散らした。反射的に視界が滲む。こぼれ落ちそうな涙を、必死にこらえた。

泣いている場合じゃない。この呪霊を祓わなければ、きっと順平や他のたくさんの人たちが犠牲になる。

身をひねって廊下に着地し、タイル地の床を蹴って跳躍する。常人離れしたフィジカルは、数メートルの距離を瞬く間に詰めて、真人へ肉薄した。

折れそうな心を奮い立たせ、本気で振り抜くつもりだった拳は────


『オマエたちは強いから、人を助けろ』


────直前で、失速する。

黙ってこちらを見つめる祖父の顔が、ぐにゃりと嘲りの形に歪んだ。


「バーカ」

『悠仁ッ!』


肥大化した拳を、かろうじて視界の端で捉えた直後。

脳が揺れる。

全身に衝撃が走る。

壁を突き破り、空き教室に叩き込まれたのだと気づいたのは、数瞬意識を飛ばした後だった。机や椅子をいくつも巻き込んでようやく止まった身体は、あちこちが嫌な痛みを主張している。


「……黄櫨兄ちゃん」

『ああ、治しとけ』


何度目の反転術式だろうか。

ジリ貧、という言葉が浮かんで消えた。勝ち目も勝ち筋もまるで見えないが、このままでは呪力が尽きるまで弄ばれる。

日頃の任務であれば手詰まりになった時点で兄姉を頼っていたが、今回に限ってはそれも気が引けた。

一度は圧倒している以上、勝てない訳ではない。自分が覚悟を決められないから、こんな状態に陥っている。それだけの話だ。

自分のせいで、兄姉をも危険に晒している。それが心底情けなく、そして申し訳なかった。


「ねー、どうしたの? 来ないならこっちから行くけど」


腹立たしいほど間延びした声が響く。虎杖が不安をねじふせて急ぎ立ち上がろうとした、その時だった。


『悠仁、聞きなさい』


頬から、烏鷺の囁く声がした。思わず反応しかけたのを『静かに。時間がないから』と遮られる。


『あのクソ呪霊をブチのめす方法がある。……ただ、悠仁の負担がかなり大きい策なの。それでも、乗る?』


口を開く。

返答は、とうに決まっていた。



「返事なし、ね」


よし、じゃあ殺そう。

壁に開いた大穴、真っ暗な教室を前に、真人はからりと明るく笑った。弾むようなステップで室内に一歩踏み込んだ途端、机や椅子が飛んでくる。


「その程度じゃ足止めにもなんないよ、っと!」


腕を刃に変形させ、飛来物を斬り裂いて疾駆する。狙うは教室の中の人影ただひとつ。その魂が死にかけているのを観測し、思わず口角が吊り上がった。


虎杖倭助の顔。

呪霊にとっては写真から複製した仮面にすぎなかったが、少年にはこれが面白いほどよく『効い』た。

ゆえに手を変え品を変え、祖父の顔を見せ続け、引っかかるたびに笑い転げた。さながら、無邪気な子供が次から次へとイタズラを仕掛けて楽しむように。

だから、今回も狙うは正面撃破。あえて少し無防備に、自身の顔を見せつけるようにして突っ込む。

あの怯えにも似た、泣きそうな顔はクセになる。もう一度アレを見せてくれと願いながら、腕を振り上げ────


『────』

虎杖の頬に浮かび上がった口が、何事かを囁いた直後。

呪力を乗せた拳が、真人の顔面にまっすぐめり込んだ。


「がッ…………な、ぇ?」


殴られた、と認識するまでが遅れた。思いがけない反撃に、思考が拡散する。

咄嗟に改造人間を吐き出した。『無為転変』で変形させ、虎杖と自身との間に人間の膜を生む。さながら、教室内に大きなカーテンを張るがごとくに。


倭助の顔を利用して優位に立っていたものの、真人に蓄積されているダメージは癒えていない。

ゆえに、距離を取った。殴打の勢いを利用し、教室の隅まで飛びすさる。


(あの甘いだけのクソガキが、この短時間で吹っ切れた? いや、それはありえない)


そんな小器用な真似ができるなら、最初からここまで追い込まれることもないはずだ。

鼻から垂れる血を舐めながら、様子を窺う。虎杖悠仁、あの呪いの巣に何が起きたのか見極めるために。


不意に、破裂音が響いた。人間『だったもの』にいくつもの風穴が開き、空気の抜けた風船のように萎びていく。

同時、月の光が差し込んだ。

教室全体がほのかな光に照らされ、散乱した机や椅子の中に、真人と相対する少年の姿がぼんやりと浮かび上がる。


「……ああ、そういうことね?」


特級呪霊・真人。

人が人を呪い、憎み、穢す意思から生まれた存在。


「俺が言うのもなんだけどさ。イカれてんね、オマエ」


ゆえに『それ』を、理解はすれども拒絶する。

真人の中には存在しえない、わかりえないモノが、目の前でカタチを成していた。


「頭ではわかってる。爺ちゃんじゃない、もう死んじゃったんだって知ってる。……でも、見ちゃうと駄目なんだ。身体が動かなくなる」


────だから、一時的に視界を捨てる。


現在、虎杖の双眸は潰れている。

『里桜高校において、真人を退けるまで目を治さない』と自らに縛りを設けたうえで、両目に指を差し込んだ。その迷いのなさといったら、歴戦の猛者たる領域の住人たちが思わず席から立ち上がりかけたほどである。


────その代わりに、兄や姉が虎杖の目になる。


高専の制服を脱ぎ捨てた上半身が、ボコボコと不気味に波打つ。健康でしなやかな肌という肌に、数え切れないほどの目と口が浮かび上がった。

呪力での強化、加えて縛りの効果により、全員の視力は大幅に底上げされている。たとえ真人が音速で動いたとしても、問題なく捉えて虎杖に伝達できる程度には。


兄や姉の目をセンサーあるいはカメラとして使い、自らはその指示に従う。

呪物たちを心の底から信じ、彼らの言葉に身を任せることで完成する戦法。並の術師では考えもしない、考えたとしても使わないだろう戦い方が、そこにはあった。


「ソレさ、鏡で見たことあんの? すっげえキショイよ、どっちが呪霊なのかわかんねえくらい」

「あ? 知るかよ。オマエの感想なんか聞いてねえ」


自分が不甲斐ないせいで、兄や姉が守ってくれるというのに。その姿を馬鹿にされて黙っていられるほど、虎杖は人間ができているつもりはなかった。

『2時の方向、2メートル先だ』

声に従い、構えながら。


「……ごめんな、嫌な役目押し付けちまって」


誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。

祖父と交流があったのは、兄や姉も同じだ。

虎杖と同じくらい、もしかしたらそれ以上に嫌な気持ちになるかもしれないのに、祖父と同じ顔をしたモノが傷つくのを正面から受け止めてくれるという。

今はそれが無性にありがたく、同時に自分の弱さが悔しかった。

自己嫌悪の雲が、再び胸の内で湧き上がり始めたが。


『なーに、気にすんな』

『アレにばかり良い空気を吸わせるのは、私達も癪なのでね』

『安心しなさい。この呪霊がどれだけ無様に散ったのか、後で宿儺と一緒に話してあげる』

『だから任せろ、悠仁』

『今は俺達が、オマエの目だ』


力強い声が、背中を押してくれるから。

ゆえに、虎杖が言うべき言葉はひとつしかない。


「信じてる、任せた!」


『信頼』。

正の感情の極みが、負の感情の落とし子に牙を剥く。

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